31.暗闇



「詩織、隣、いいか?」


 祖父母の家で行われた、とある宴会の日の夜。大広間があまりに騒がしくて、気疲れしてしまった九歳の詩織は、広々とした中庭の桜の木の近くのベンチに座り、一息ついていた。よく手入れされている広い中庭には立派な桜の大樹が植えられていた。春は爛漫に桜が咲き誇り、パッと辺りを明るくしてくれる。


 庭には枝垂れ桜も植えられているが、詩織はシンプルな桜の木が大好きだった。後者の方が力強さがあるからだ。桜は儚いとよく言われるけれど、実はとても底力のある樹なのだと、詩織は思う。美しく繊細な花を華々しく咲かせる春の桜の姿は儚く切なげだ。だけど、猛々しさを漂わせる青々とした葉をつけ、生命感に溢れている夏の桜こそが、桜の本来の姿のような気がしてならないのだ。


 夏、真っ只中な今、数カ所に設置された夜桜用のライトに照らされ、桜の葉は勢い強く映し出されている。光の加減で緑と白と黒に浮かび上がる黒々とした葉っぱ群を見上げているとき、上等な夏着物を着た曾お祖父様が話しかけてきたのだ。闇の中で視線が結びつく。


「曾お祖父様……。えっと、どうぞ。宴会は、いいの?」


「よいよい。ああいうのはな、年長者がいない方がいい時があるんだよ」


 詩織は少しだけ席を詰め、曾お祖父様が腰をかける。


 ベンチ横に置いてある石灯籠の淡い明かりが、曾お祖父様の右半身だけを照らす。


「今夜は月が綺麗だな。明日あたり満月だろう」


 天を仰ぎ見た。薄い雲間に隠れて、月が青白くぼんやりと輝いている。


「そうですね」


 簡潔に答えただけなのに、声が震える。幼い頃の詩織にとって、曾お祖父様は怖い存在だったのだ。曾お祖父様は偉大で優秀な人だと、曾お祖父様の前では粗相のないようにと、周りの大人に散々聞かされたことに加え、顔に深い皺が刻まれている姿が社会や国語の教科書に載っているどこぞの偉人さんのように見えたからだ。そして、なにより、大人たちも曾お祖父様を怖がっていたことを肌で感じていたことも、曾お祖父様の存在を怖い存在に仕立て上げていたのだと思う。


「詩織よ。お前は、今、幸せか?」


 視線を月から詩織に移しながら、曾お祖父様が言った。


「えっと……」


 言い淀む。


 どうだろう。わたしは幸せなんだろうか。


 小学校の友達にはいつも「また新しいモノ買ってもらったの? いいなぁ」なんて羨ましがられることがよくあるし、大人たちからも「詩織ちゃんはとても幸せな家に生まれてきたわねぇ」なんて声かけをされることはしょっちゅうだ。


 だから、わたしは幸せなのかな。


 でも、お父さんもお母さんもいつも家にいないし、勉強や習い事で流行ってるゲームはこれっぽっちもできないし……。


 考えれば考えるほど、思考の紐がもつれて、わけがわからなくなってしまう。


「うむ。それでは質問を変えよう。お前にはワシが幸せに見えるか?」


 曾お祖父様が見下ろしてくる。真っ黒な目が詩織の瞳を捉えて離さない。光の当たっていない曾お祖父様の顔は、一層威厳に溢れ、恐ろしげだった。


 詩織はしばらく考えた。考えた後、ゆっくりと口を開く。


「曾お祖父様は、幸せそうに見えます。だって、曾お祖父様の周りにはいつだって人がいて、頼られて、それでいて、曾お祖父様は強い人だもの。それに、お金もあって、人気者で……。だから、わたしにはとっても幸せそうに見ます」


 曾お祖父様が幸せかどうかなんて考えたこともなかった。だから、思ったことを……いや、大人たちが言ってるようなことを継ぎ合わせて適当な答えを見繕う。


「……そうか。詩織には私が幸せそうに見えるか」


 曾お祖父様は再び空を仰いだ。穏やかな風に揺られ、雲が流れ行き、ぼんやりとした月が綺麗に顔を出す。ひとときの涼しさを感じた。


「……私は、私自身の人生、幸せだと思ってはおらん。この世はまさに生き地獄だ」


『地獄』という響きに煽られ、曾お祖父様を見る。『地獄』などと物々しい言葉を吐いているのに、曾お祖父様の姿は、毅然としていた。曾お祖父様ほどの方なら地獄から脱獄することも可能なような気がする。


「詩織よ。お前は私が人に囲まれ、頼られ、金持ちで人望があるから幸せそうに見えると言ったな」


「はい」


「それはすべて表面的なこと。物事というのは奥深いモノなのだ。表だけを見ていては何もわからん。たしかに、表面上、私は幸せに見えるだろう。私には富も名誉も家族もなんでもある。欠けてるものなんて何一つないように見えるからな。だが、私の奥はそうではない。私にも欠けてるものばかりだ。……それにな、権力というものを持つと、周りに集まってくるのはハイエナたちばかりで、気が休まる時は一時もない。綻びを見せれば、アイツらはすぐに食い散らかそうとしてくる。親しい人の嫉妬や妬み、裏切りや不義が当たり前に蔓延っている。まさに地獄である」


 詩織は曾お祖父様の言葉の半分も理解できていなかった。だけど、しっかりと聞かないといけない気がして、居住いを正す。


「だが、私はこの地獄を他人に理解してもらおうなどとは思わん。なぜなら、この地獄を作り出したのは他ならぬ私自身だからだ。私自身の行いの結果、今があるのだからな。自分のしたことの責任は、私が取らなければならん。……そして、それは詩織にも同じことが言えよう」


 曾お祖父様の大きな黒目がギョロリと動いた。びくりと、身がすくむ。まさか自分の名前が出てくるとは思わなかったからだ。


「私には私の地獄があり、詩織には詩織の地獄がある。その地獄は他人には計り知れない。誰になんと言われようとも、お前の地獄はお前だけのものだ。誰もその地獄をバカにしたり、贅沢だと嘲弄することはできない。詩織、お前は成長するにつれ、途方もない悪意に晒されるだろう。お前が悩みを持つことは許されない、贅沢だ、と弾糾するものもいるだろう。だがな。何度もいうが、詩織の地獄は詩織だけのものだ。だからこそ、他人の妄言などに流されてはいけない。詩織の地獄は詩織自身が見つめ、抜け出す他ないのだから」


 曾お祖父様のお説教は九つの詩織には難解で、理解することは叶わなかった。けれど、曾お祖父様が詩織自身を見てくれていることだけは、幼い詩織にもわかった。誰の子供だとか、美しい容姿だとか、成績がどうだとかそういった属性ではなく、『詩織』を『詩織』として見てくれている。


 理解できていなくても、曾お祖父様の言葉は詩織の心に留まり、奥底に溜まった。



 あの日から、曾お祖父様の存在は怖いだけのものではなくなり、詩織にとって尊敬の対象になったのだ。あの夜の雰囲気、あの夜の曾お祖父様の姿を、詩織はこれまで忘れたことはないと思っていた。忘れそうになった時は、曾お祖父様の遺影を見て曾お祖父様の影を追った。心に留まる曾お祖父様の姿が色褪せることなどないと信じて疑わなかった。


 それは勘違いだった。


 梨沙の深淵を覗き込むような瞳を見て、忘れていた曾お祖父様の姿を、曾お祖父様の言葉をまるで走馬灯のようにありありと思い出したのだ。詩織はあの夜の雰囲気を微かに覚えていただけで、ずっと曾お祖父様の言葉を忘れていたのだ。


 わたしはこの地獄を自分で作り出してる?


 わたしが嘘で塗り固められた仮面をかぶってるから? わたしが偽物だから?


 わたしはこの地獄の責任を自分で取らなければいけない?


 そうだとして、わたしは、これからどう行動すればいいの?


 どうしたら梨沙ちゃんのような本物になれる?


 わからない。わからなくて、助けを求めるように梨沙を横目で見てみる。けれど、梨沙は微塵もこちらを気にしていないようだ。


 ねぇ、梨沙ちゃん。あなたは一体、わたしの何が見えてるの? わたしの心が見えているの?


 不意に、梨沙がこちらを向いた。底知れぬ闇が梨沙の瞳の中で蠢く。


 え、なに……? まっ……て。頭が重い。気分が悪い。


 梨沙がこちらを見つめている。真っ黒な瞳の中に炎が現れ、ゆらゆらと揺れている。


 このままじゃダメだ。


 慌てて梨沙の瞳から逃れようとしたとき、ぐらりと空間が回った。


 あ……目が、回る……。


 目眩がする。ぐらぐらゆらゆらと世界が回り続ける。


 詩織は机の上に突っ伏した。


 深い深い暗闇に落ちていく。全てが闇に包まれ、わたしとあたしが分離する。


 痛い。怖い。辛い。助けて。


 ――詩織、貴方は本当にいい子。


 ――いいなぁ。私も詩織ちゃん家に生まれたかったな。


 声が聞こえる。いろんな人の無責任さを孕む声だ。


 ――わたしは、わたしの地獄の責任を取らなくちゃ。


 ――小南詩織みたいな偽善者を見ていると虫唾が走る。


 ――梨沙ちゃん、わたしはもっとあなたのことを知りたい。


 ――あたしはアンタみたいなやつ、大っ嫌い。


 声が、わたしだったり、あたしだったり、頭の中でぐちゃぐちゃに反響する。


 離れていく。乖離していく。詩織の感覚が抜けていく。


 あたしの体があたしだけのものになる。


 揺れた。揺れながら、世界が回る。


 風がログハウスの窓ガラスをガタガタと揺らす。


 梨沙は必死にテーブルにしがみついていた。平べったく死んでいる木が梨沙を支える。


 意識をこの地に戻さなくては。記憶の中から出てこなくては。


 梨沙はボヤつく頭を持ちあげる。霞む視界の先に、詩織もお爺さんもいた。二人とも机に突っ伏している。彼らもまた、過去を疑似体験しているのだろうか。


 梨沙はフラつく体をなんとか起こし、隣に座る詩織を揺さぶってみる。

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