27.違和感

 


「ほら、梨沙ちゃんも遠慮せず、座って?」


 詩織が両手にコップを持ちながら、顎でテーブルを指した。


 それはキッチンのすぐ近くに木製の大きなダイニングテーブルだ。木を切り落として作りましたよ、と主張するような一枚板のテーブルで、高級感があった。椅子も同じような素材でできているが、お尻が痛くならないように配慮しているのか、ふかふかの座布団が敷いてある。荒々しさと繊細さが混在しており、天然の美しさを感じさせた。お爺さんは既に椅子に座っていた。背筋をピンッと伸ばし、詩織が並べた料理に目を輝かせている。


「お爺さん、お待たせしちゃってごめんなさい。タエコさんの味を表現できてるかわからないけど、美味しくできたと思うから、味わって食べてね」


 詩織は朗らかに笑って、コップをテーブルの上に置いた。梨沙に軽く目配せして、詩織も梨沙の隣に腰を下ろす。


「じゃあ、みんなで、いただきます!」


 ベビーリーフの緑と、おろしポン酢がかかりキラキラと輝いているお肉の赤。華やかに盛り付けされたローストビーフを口に運ぶ。


「……美味しい」


 口から賛辞が漏れる。


「わぁ、ほんとに? 梨沙ちゃんに褒められるとは、光栄です」


「いや、まぁ……うん。……でも、本当に美味しいよ」


 褒めるのは癪だったが、自分を取り繕えないほど美味しかったのだ。肉の臭さはまるでなく、むしろ、さらりと軽やかなのに、食べ応えがある。口の中には上品な風味が残る。


 美味しい。こんなに美味しいローストビーフは食べたことがない。いや、こんなに美味しいお肉料理を食べたことがない。


 はしたないとは分かっていても、食べる手が止まらない。


「梨沙ちゃん、ゆっくり食べて! そんなに掻き込んだら喉につっかえちゃう。……でも、うれしいな。そんなに美味しい?」


「うん。美味しい。ねぇ、アンタ、こんなに料理うまいんだったら、料理人とか目指してみたら? こんなに美味しい料理出すレストランが近くにあったら、毎日通うわ」


 お肉を口いっぱいに頬張りながら、言う。


 お世辞でもなんでもなく、詩織は料理を作る天才だと思った。料理の美味しさと人間性というのは違うということが身に染みてわかる。たとえ、詩織が性格が悪かったとしても、これほどまでに美味しい料理を作れるのならば、性格の部分は目を瞑れる。


「えっ……」


 吐息ほど小さい声を出し、詩織の動きが止まった。目を大きく見開いて、目をぱちくりさせている。


「え、なに? あたしなんか変なこと言った?」


「あ、ううん。その、料理人とか、考えたことなくって……」


「まぁ、そうでしょうね。アンタは才色兼備で未来有望、なんでもなれる美少女様なんですから。表舞台とかの方が似合いそうだもんね」


「えっと、それは……」


 詩織の目線が落ちる。隙のないまつ毛が顕になる。けれど、それは一瞬だった。


「……あっ、そうだ。お爺さん、さっきから何も喋ってないけど、お味はどうですか? タエコさんの味、表現できているかな?」


 詩織の意識はこちらにない。梨沙も目の前のお爺さんに向き直る。お爺さんの箸を持つ手が震えていた。


「これだ……。これだよ……。タエコの味だ。ワシの求めていた、タエコの味だよ……。うまい……。うまい……」


 お爺さんは途切れ途切れ、言葉を搾り出すように、美味しい美味しい、と繰り返した。お爺さんの目尻から一筋、涙が溢れる。お爺さんの声は明るい。


 なのに、梨沙の気持ちは冷め切っていた。


 確かに詩織のローストビーフは美味しい。でも、絶対にタエコさんの味とは違うはずだ。料理というのは、たとえ同じレシピで作ったとしても、作る人が変われば味は変わる。


 梨沙がそれを知ったのは、小学生の頃。家庭科の授業で、何組かの班に分かれて同じレシピ、同じ料理を作った時があった。どの班もレシピ通り作っているはずなのに、班によって味が全く違かったのだ。


 誰が作るかによって、料理の味は変わる。


 それなのにどうしてお爺さんは同じ味だと言い切れるのだろう。


 タエコさんの作った料理の味を覚えてないのか、はたまた、料理の味自体に興味がなく、タエコさんが作ったという事実だけが欲しかったのか……。


 どうなんだろう。


「喜んでくれてよかった。作った甲斐があったよ。ほら、シチューも食べて食べて」


 ニコニコとしている詩織に促され、お爺さんがシチューを掬ったスプーンに唇をつける。


 梨沙も一口、口に含んでみた。


 やっぱり、美味しい。


 滑らかな口溶けのクリームが、口の中にじんわりと広がる。手作りの優しい温もりが胃に落ちる。


「あぁ……うまい。絶品だ……。ワシは、ワシは幸せ者だな……。昨日までは、もう二度とタエコには会えないと思っていた。だが、最期の最期にタエコに会えた。そして、今、タエコの美味しい手料理を食べている……。あぁ、ワシはなんて幸せ者なのだろう」


 目を潤ませて、シチューを頬張るお爺さんの口元は笑っていた。その顔は幼い子供のようだ。幼い子供が母の愛を感じている時の顔。


「タエコ、タエコ……。頼む……。ワシのことを本当に嫌っているのは分かっている。だから、ワシに会う前の齢の姿になっているのだろう。でも、もう一度、ワシが死ぬ前に見たお前の姿に戻っておくれ……。ワシは最期にワシの知るタエコに会いたいのだ……。頼む……。どうか、どうか……」


 縋るような物言いだった。物言いだけじゃない。お爺さんは持っていたスプーンを投げ置き、テーブル越しに両手を伸ばしていた。言葉も体も詩織に縋りつこうとしているのだ。


 詩織はじっと語り手を見つめ、そして、頭を振る。


「ごめんなさい、お爺さん。何度も言うけど、わたしはタエコじゃないの。だから、貴方の大好きなタエコさんの姿にはなれない……」


「タエコ、まだそんな嘘を……。そんなに、そんなに、ワシのことが嫌いなのか……? ワシの何が、何がいけなかったんだ?」


「お爺さん、わたしは本当にタエコさんじゃないの。タエコさんじゃないから、お爺さんの要望には応えられないの。……ごめんなさい」


「……そうか。……それじゃあ、悩みとかはないかい? ワシは生前、お前の話を何にも聞いてやれなかっただろう。だから、お前の力に少しでもなれたら……」


 詩織がお爺さんの言葉を遮り、言う。


「お爺さん、ありがとう。でも、辛いことも、苦しいことも、なぁんにもないよ。お爺さんと同じで、わたしは幸せ者なんだ」


 嘘だ。


 詩織と長らく一緒にいたせいで、分かりたくないのに分かってしまう。


 この息遣い、この表情、この視線。何が嘘をついている証拠になるのかと言われればわからない。わからないけれど、雰囲気でわかる。


 彼女は嘘をついている。


「わたしは本当に……」


 その時だった。


 強烈な眩暈が梨沙を襲う。


「きゃっ」


 詩織の小さな悲鳴がぼんやりと聞こえた。


 目の前が激しく円形に揺れて、焦点が定まらない。


 どうしよう。どうしたらいい。


 歯を食いしばり、テーブルにしがみついた。眩暈がおさまるのを、待つ。しかし、眩暈は治るどころか、次第に激しくなるばかりだ。


 世界が揺れる。体も揺れる。


 頭がクラクラして何も考えられない。


「いけない! タエコ、もしや、窓を開けて料理を……」


 お爺さんの声が波長になって耳に入り込む。詩織の声もした。


「うん。換気扇がなかったから……」


「妖精の仕業だ」


「妖精……?」


「この辺に棲みついている妖精だよ……。この家に入り込んでは、イタズラするのだ……。サリエルとやらは……なんと言ったかな……。あぁ、そうだ。『思い出ピクシー』だ。人間が忘れ去ってしまった記憶を強制的に思い起こさせるのだ……。思い起こす、というよりも、擬似体験に近いかもしれん……。だから……、ワシは……、ずっとここに……」


 音が閉じた。突然、閉じて、世界はぐるぐると回っている。


 あ、気持ち悪い。これは、やばいかもしれない……。


 梨沙はどっしりと構えたテーブルに縋り付いて、意識を落とした。


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