26.小話



 それから、梨沙と詩織はお爺さんのリクエストで料理を作ることになった。


「失礼で無礼なお願いなのは重々わかっている……。でも、完全に死ぬ前に、タエコの作った温かいシチューとローストビーフが食べたいんだ……。偽物ではなく、本当に調理された妙子の料理を……。どうか、どうか、ワシのために作ってくれないか?」と、しつこいほど懇願されてしまい、料理をつくる羽目になってしまったのだ。


 謝りたい、本気の感謝を伝えたい、と言っていたお爺さんがお願い事ばかりしてきたときには鼻で笑ってしまったが、詩織は「ま、少しだけ一緒にいてあげるって言っちゃったし、作ってあげることにする」と、頭を掻いた。


「にしても、アンタ料理上手なんだね。さすが、非の打ち所がないアイドル様だわ……」


 詩織は慣れた手つきで塩と胡椒でお肉に下味つけ、それを冷やしている傍らで、鍋を用意しながら、せっせとシチュー用に具材を切っている。びっくりするほど手際がいい。しかも、全てレシピを見ないでやってのけている。梨沙は本心から感心していた。


「そんなことないよ。シチューなんて、ルーは既製品のものを出して作ろうとしてるし、お肉だって時間がないから、あまり置かないで調理しようって思ってるし……。ある程度手を抜いてるよ」


「いや、それでもすごいから。……あたしだったら絶対できない」


 ちゃっかりしている詩織のことだ。料理をすると言いながら、願って生み出した『料理』をお爺さんに押し付けると思っていた。いつものように自信満々の笑顔で「一生懸命、丹精込めて作りました」なんてうそぶきながら押し付けると。だけど、詩織は梨沙の予想に反して、キッチンに立ち、お爺さんの要望通り、しっかりと丁寧に料理を作り込んでいる。


 詩織らしくない行動だが、その行動は賞賛に値するものだと思った。


「えへへ、ありがとう! なんだか、照れちゃうな。梨沙ちゃんがこんなに褒めてくれるのって珍しいし、素直に受け取るね」


「あ、うん……」


 素っ気なく答えたが、飛び跳ねそうになってしまうほど恥ずかしい。頬がほんのりと熱を帯びる。詩織のことを認めたわけではないし、尊敬するところだって一つもない。いや、すごいと思うことはあれど、詩織が調子に乗るのが目に見えているから、今の今まで、敢えて茶化して話を流していた。それなのに、今になってド直球の言葉で褒めてしまった。


 やっぱり、絆されている。どんどんと詩織の愛嬌の良さに流されている。


 褒めたと言う事実を自覚した途端、羞恥の気持ちが溢れてきた。顔が熱い。


 コイツのせいだ。コイツが褒め言葉を軽く流してくれれば、こんなに恥ずかしい思いをしなくて済んだのに……!


 露骨に恥ずかしがっている姿は見せたくなくて、梨沙は無意味とわかっていながらも、心の中で詩織を責めた。梨沙の羞恥の感情など露ほど知らない詩織は煮込んだり、焼いたり、ルウを溶かして入れたり、手際よく料理を進めている。料理のできない梨沙は、そばにいても詩織の邪魔になると思い、ログハウスを掃除をしているお爺さんの手伝いをすることにした。もちろん、詩織と一緒にいることが面映いというのも理由の一つであった。


「すごいですね。この家、チリが一つも落ちてない」


 お爺さんと掃除し始めてすぐに、梨沙は違和感を覚えた。テレビの裏、窓の桟、家具の下、どこにも埃も髪の毛も小さな塵も、何ひとつ落ちていないのだ。汚れすらついていない。これほど綺麗なのに、掃除する意味はあるのだろうか。


 不思議に思った梨沙は、お爺さんに声をかける。お爺さんは頷く。


「そうなんだ。ここはいくら使っても埃ひとつ落ちないのだよ。本当は掃除をする必要なんてない家なんだ。……だけど、タエコにいいところが見せたくてね」


 お爺さんがチラリとキッチンに立っている詩織を寂しげに見つめる。


 タエコさんという人と詩織はそんなに似ているのだろうか。この世には自分と似ている人が三人いる、という俗説がある。それが事実だとしたら、詩織とタエコが似ているというのもあり得ない事ではないのかもしれない。それか、このお爺さんがボケていて、タエコさんの幻を見ているか……。


「ところで、君は、タエコとは古くからの友人なのかい?」


 文字塵一つない床を竹箒ではきながら、お爺さんが尋ねる。


 なんて答えるのが正解なのだろう。タエコさんとは知り合いではない。かといって、詩織とも親しい友人でもない。だけど、善良な老人に嘘を言うことはしたくなかった。


 だから、窓を拭いていた手を止めて梨沙は、「あたしは……えっと……。彼女とは、ここ数日の付き合い……ですかね」と、口籠もりながら、正直に答える。


「……そうか。ワシは数日の付き合いの人に負けるほど、タエコに嫌われているのだなぁ」


 お爺さんは箒を持っていた手を止めて、ふっと息を吐く。そして、もの悲しげな顔で梨沙を見つめた。


「少しばかり、老人の小話を聞いてはくれないだろうか」


「いいですよ」


 二つ返事で引き受けた。梨沙も雑巾を消して、お爺さんと向かい合う。このまま無意味な掃除をするよりもお爺さんの話を聞いた方がマシだろうと思ったからだ。


 お爺さんと梨沙は横並びでソファーに腰掛ける。横並びといっても、かなり距離が開いていた。お爺さんはしばらく何も言わなかった。湯呑みに入っている煎茶を時々すすり、料理をしている詩織を黙って見つめている。湯呑み茶碗が半分ほど減った時、なんの前触れもなくお爺さんが口を開いた。


「……ワシはタエコのことを何も知らないのだ。何十年も連れ添ったのに、な」


 梨沙の方は見ていない。詩織だけを見ている。


「ワシは若い頃、仕事だけをしてタエコのことなど何も顧みなかった……。家の大黒柱という自負があった。だから、家事も育児も手伝ったことはない。家事や育児を男がやるなど、女々しいことだと思っていたのだ。だから、定年して稼ぎがなくなった後も、ワシは家事や育児など何一つしなかった。……六十歳でお勤め満了。ワシは大黒柱として十分働いた。これからは楽に余生を過ごすだけ……。そう思っていた。それなのに、タエコはある日突然、離婚届を置いて、家を出ていってしまったんだ。子供達は既に独り立ちしていたから、身軽に離婚することができたのだろう……」


 一息吐き出すと、お爺さんは視線を宙に浮かせる。梨沙はお爺さんの横顔から目を離さず、黙って聞いていた。


「ワシはどうして離婚を言い渡されたのか分からなかった。ワシは良い夫であったと自負していたからだ。よく働き、文句一つ言わず、やってきたのだ。それなのに離婚をしようとするとは何事か、と腹立たしくあった。……だけどそれは全て、ワシの驕りだった」


 お爺さんが低く呻いた。


「よくある話だが、ワシはタエコを失ってから、タエコの大切さに気がついたよ。タエコが出ていき、ワシは一人で家事をするようになって、家事の大変さが身に沁みてわかったのだ。……ワシには定年があったけれど、タエコには定年なんてなかったんだよ。家にいるなら家事を手伝ってくれ、とずっと言われていたのに、ワシはタエコの言葉を無視してしまったのだ……」


 お爺さんはお茶をすすりながら、苦しげに顔を歪める。


「……ワシは仕事には真剣に向き合ってきたが、タエコと子供達とは全く向き合ってこなかったんだ。タエコの連絡先を聞こうと子供達に連絡しようとしたときに、気付いたんだ。ワシは子供達の年齢、連絡先すら、知らないことにな。ワシは良い夫でも、良い父でもなかったんだ……」


 お爺さんの口が止まる。それと同時に首を振った。強い眼差しで詩織を見つめている。


「だから、今までできなかった分、タエコがして欲しいこと、なんでもやってやりたい。ワシはもう死んでしまったが、タエコが現れた今、タエコに恩返しと謝罪ができるんじゃないかって思ったんだよ。生前、タエコに『掃除くらい、手伝ってくださいよ』って言われていたからな。こうして、ワシの変わった姿を見て欲しくて、掃除を頑張ってみたのだ」


 それって、違うんじゃないかな。


 不意に感じた。口に出すことはしないけれど、心の中にモヤモヤが募る。


 掃除を頑張ることも、恩返しをしたいと思うことも、謝ることも、自分が愚かだと認めることもどれも大事なことだと思う。そう思うのに、喉の奥がつっかえたような違和感が残る。お爺さんの顔からは苦しげな表情が消え、恍惚な表情で詩織を見続けている。


 あぁ、そうか、と腑に落ちる。


 自己満なんだ。お爺さんがしていることは決して、タエコさんのためじゃない。タエコさんのためといいながら、自分のためにしている行為だ。だから、埃一つない部屋の掃除をするというトンチンカンな意味のない見せかけの家事をしてしまうのだ。


 きっと、タエコさんは掃除をして欲しかったわけじゃないのだろう。ただただ、このお爺さんにわかって欲しかっただけなんじゃないだろうか。気遣って欲しかっただけなんじゃないだろうか。


 あたしはタエコさんじゃなければ、目の前のお爺さんのことも何も知らない。だけど、タエコさんはお爺さんと別れを選んだことは事実だ。一緒にいることが苦痛になってしまうほどすれ違って、別れを選択するしかなかったのだろう。そして、その溝は未だに埋まっていない。お爺さんはタエコさんの本当の気持ちがわからないまま、死んでしまうんだろうか。……それはなんだか悲しい気がしてしまう。


「お待たせ! 二人とも、ご飯できたよー! せっかくだし、大きなテーブルで食べよ!」


 詩織の飛び抜けて明るい声が、ログハウス中に響く。思ったよりも早い出来上がりだ。詩織が言ってた通り、割と手を抜いたのかもしれない。


「あぁ……。タエコがワシを呼んでいる……。呼ばれたのなんて、いつぶりだろうか……。ありがたい……ありがたい……」


 お爺さんは手のひらを擦り合わせながら、ダイニングテーブルの方へと向かう。詩織はキッチンからてきぱきとローストビーフとシチューを並べる。香ばしいいい匂いがした。

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