25.人違い
お爺さんの手引きに従い、二人は玄関デッキを通り、ログハウスの中にお邪魔した。入った瞬間、木の不思議な匂いが鼻に届く。家の中は、とても開放的だった。仕切りひとつないワンルームのようになっていて、玄関から向かって左側はダイニングキッチンのように、右側にはローテーブル、テレビ、ソファー、そして、暖炉が備え付けられていた。広々とした部屋の奥には、おそらくトイレやバスルームに繋がるいくつかの扉と、階段がある。どこぞの物語の世界から飛び出したような、理想的なログハウスだった。焦茶色の大きな丸太で作られたログハウスというモノが、自然由来の温かみを醸し出しているからだろうか。なぜだか暖かく、懐かしい感じがする。
梨沙と詩織はお爺さんに促され、流れるように赤褐色のソファーに座った。ことり、とお爺さんがマグカップを目の前のローテーブルに三つマグカップを置く。
「タエコ。よく来てくれた。お前は……若い時の姿なのだな……。タエコは昔も美しかったもんなぁ……」
テーブルを挟み、小さな丸い木の椅子を詩織の正面に置いた。お爺さんは身を屈めてその椅子に腰掛ける。
「お爺さん。何度も言ってるけどね、わたしはタエコじゃないの。わたしは、小南詩織っていう名前の女子高校生。だから、わたしはタエコじゃないんだよ」
「何を言ってるんだ。いつもみたいにワシをからかってるんだろう。そういうところ、昔から変わらんなぁ……」
お爺さんが口元を綻ばせる。
「えっとね、お爺さん。本当にわたしはタエコじゃなくって……」
「……なぁ、タエコ。ここにいるってことは、お前も死んでしまったのかい?」
「だから、わたしは……」
「いや……死んでない……のか? 首に糸がない。タエコ、お前、死んでないんだな? あぁ……よかった。ワシはできるだけタエコに長生きをしてほしいと思っているんだ。そうか、生きてるのか……。よかった……」
お爺さんはほっとしたような安堵の表情を浮かべる。優しい面だった。顔中から慈しみと愛が溢れている。その顔に詩織はたじろぎ、何か言いたげな口を閉じる。
「タエコ、ワシは死んでからというもの、一日たりともお前を忘れたことなどなかった。サリエル、とやらが言うように、タエコと会えるよう願ったこともあった。しかし、タエコは出てきてはくれなかった。ワシは偽物のタエコでは嫌だったんだ。だからこそ、心からタエコに会いたいと願えなかった。ワシにはタエコを作り出せなかったのだ」
お爺さんはにこりと微笑むと、居住いを正した。
「でも、こうして本物のタエコと会えた。ワシは幸運の持ち主だ。一時でも、同じ時を過ごせるのだから。ワシは本当に、幸運だ。タエコ、ワシに会いにきてくれて、ありがとう」
深くお辞儀をする。話を黙って聞いていた詩織は、手をブンブンと振って、「顔をあげてください、お爺さん。わたし、本当にタエコじゃないんです」と、慰めるように、けれど、強い語尾で否定する。お爺さんの濃く太い眉毛がぴくりと動いた。
「わかっておる。わかっておるよ。お前がワシのことを憎く思ってることも、本当はワシと会うつもりなどなかったことも、全てわかっておる。ワシよりその横の友人を選んで会いにきたこともわかっておる。だけど……」
チラリと横目で梨沙を見たあと、お爺さんはもう一度、姿勢を正し、詩織に向き合った。そして、再び低頭する。
「少し、少しの間だけでいいんだ。ワシのそばにいてくれないだろうか。生前、ワシはお前に多大な迷惑をかけた。それは承知している。だから、謝りたい。本気の感謝を伝えたい。頼む。一日、いや、半日でいいのだ。それだけでいいから……だから……」
涙に言葉を途切らせながら、言う。詩織の表情は暗かった。伏している長いまつ毛が、瞬きをするたびに揺れる。
「ねぇ、どうするの?」
とん。
詩織の脇腹を肘で小突く。このままだと詩織はずっと口を開かないような気がしたのだ。詩織は顔をあげた。いつもの適当なはにかみじゃない。キリッとした真剣な面持ちでお爺さんを見る。
「お爺さん。何度も言うけど、わたしはタエコじゃないの。それに、わたしたちも時間がないから、あまりゆっくりはできない。それでもいいの?」
言い聞かせるようなゆっくりとした口調だった。
「それでもいい! それでもいいさ!」
「……わかった。そしたら、少しだけ一緒にいてあげる。本当に少しだけ、だけど」
「本当か! あぁ、あぁ…。タエコ……。タエコありがとう…」
お爺さんは身を乗り出して、詩織の両掌をギュッと握った。梨沙は、詩織の顔が複雑そうに歪んだのを見過ごさなかった。眉尻が下がり、憐れみの目をお爺さんに送り、薄い唇をギュッと噛んでいる。困惑したような、切ないような、苦しいような、そんな表情だ。
「うん。どういたしまして。……でも、そのためにはその手を離してもらいたい、かな」
「ああっ! すまない。あまりに興奮してしまってな……。突然、触れてしまったことを許してくれ」
お爺さんが慌てて手を離す。お爺さんは気まずさをごまかすように、ずずずっとお茶をすすった。お爺さんの目が自分から離れたことを確認した詩織は、無表情でお爺さんに握られた手のひらを見つめる。
詩織らしくない。いつもの詩織ならこんな表情、絶対にしない。ヘラヘラと無難に笑って、「大丈夫だよ」とかなんとか言ってその場をやり過ごすだろう。普段も詩織の完璧は綻ぶこともあるが、一瞬のことだ。詩織はすぐさま綻びを修復し、笑顔のお面を被り続ける。そのことを詩織と接するようになって知っていた。なのに、お爺さんの前では、ずっと詩織の顔は崩れている。心の表情を隠しきれていない。
「ねぇ、大丈夫?」
思わず、小声で問うてしまった。
「ん? なにが?」
「だから、その。なんていうか、お爺さんに付き合うこと」
「えっ、もしかして、梨沙ちゃん、心配してくれてるの? わぁ、嬉しいな」
「そういうことじゃなくって!」
「えへ、大丈夫だよ。梨沙ちゃんがそばにいてくれるなら、全然へっちゃら」
本当だろうか。
詩織は梨沙の心配げな視線に気がついたのか、肩をすくめて、笑った。いつもよりも力のない笑顔だ。でも、本人が平気と言っているのだから、平気なのだろう。
梨沙は自分に言い聞かせて、「……そう。ならいいけど」 とだけ答えた。
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