19.四十八日目



 梨沙は大人の姿になった美羽を見つめる。肩までかかる髪を少し残して、頭の上にお団子を作っている。上品なラベンダー色のブラウスに、グレーのチェックロングスカートを履いている。カジュアルなのに、程よい甘さがあった。少女だった女性はもう制服を着ていない。優しい陽の光を浴びて、ラベンダーの服が光を弾く。少女の面影はこれっぽちもない。春の麗らかな日差しがよく似合いそうな聡明な女性だった。


「え、っと……ミウちゃんは、二十四歳で……大人?」


 開いた口が塞がらない。驚きのあまり、舌の先もうまく動かなかった。


「はい。実は、貴方達よりも七歳くらい年上、なんです。ずっと騙してて、ごめんなさい」


 美羽が深々と頭を下げる。梨沙と詩織は顔を見合わせた。


 信じられない。けれど、ミウが二十四歳だと考えると色々と合点がいった。ミウから時々覗く違和感も、難しい言葉を知っていたことも、歳の割に大人っぽい仕草も、全てミウが二十四歳だったから。年端もいかぬ少女とは思えない包容力があったのも、梨沙の心を揺さぶり、言葉を引き出させたのも二十四歳だったから。そう考えると全て腑に落ちる。


「私、梨沙ちゃんの感情の機微、わかってた。学校が嫌いなんだろうなって薄々気づいてた。曲がりなりにも社会を経験したことのある大人だから。だけど、二人の優しさに甘えてました。甘えて子供の姿のままでいました。ダメなお姉ちゃんは、私、なの。梨沙おねえ……梨沙ちゃんが苦しんでるのに、私の感情を優先してしまって、本当にごめんなさい」


「あ、あの! 大丈夫なので、顔をあげてください!」


 梨沙はおたおたしながら立ち上がり、顔を上げるように促す。美羽は頭を低くしたままの体制で動かない。


「そういうわけにはいかないの。本当にごめんなさい」


「本当に、本当に、あたしたちは大丈夫ですから。ですから、その……ミウ……美羽さん、顔をあげてください」


「梨沙ちゃんの言う通りだよ」


 立ち上がった詩織が冷静な口調で口を挟む。


「理想郷なんだから、姿を変えるのは当たり前。ミウちゃんは何一つ変なことしてないんだから」


「で、でも……」


「美羽さん、本当に謝らなくて、大丈夫なので、その、事情を説明してください。あたし、今、混乱しちゃって、何が何だか……」


「あっ、あっ……。そうだよね。重ね重ね、ごめんなさい」


 美羽は顔をあげたかと思ったら、再び頭を下げ、ぺこぺこと赤べこのように頭を上げたり下げたりしている。


「もうっ、ミウちゃん、謝らないでってば。梨沙ちゃんもわたしも謝らないでって言ってるでしょ?」


 詩織がわざとらしく口を窄める。膨らんだ頬がリスのようで小動物が思い起こされる。目の前にいるのは、学校で何度も目にした愛嬌たっぷりでみんなの中心にいる美少女、小南詩織だった。


「あっ……、ごめん……。私……」


「ほらっ! また謝った!」


「あっ、あっ、ご、ごめ……」


「もう! ミウちゃん、いいですか? ごめんなさいは禁止です」


「えっとえっと、ごめんなさ……あぁ! ……あははっ。私ってば、ごめんなさいが鳴き声みたいになっちゃってる」


 あっ、ミウちゃんだ。美羽の笑顔が咲いた瞬間、感じた。


 二十四歳の前田美羽ではなく、梨沙達と共に過ごしたミウちゃんだ。詩織と軽口を叩き合う姿も、笑い合う姿も、何も変わっていない。梨沙の知っているミウちゃんだった。


 梨沙は息を飲み込む。


 そばにいる二人の驚くほど黒い影が遠くへ遠くへと伸びている気がしたのだ。


 二人が離れていく。どんどんどんどん、離れていく。梨沙の知らないうちに二人の絆が深まっていく。


 あたし、何してるんだろう。何がしたいんだろう。


 胸の内で、黒いモヤが渦を巻く。詩織はミウちゃんが美羽さんになっても決して態度を変えなかった。美羽さんを『ミウちゃん』として接していた。


 あたしはどうだ? あたしは、美羽さんの本当の姿に面喰らい、躊躇った。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、騙されたと思ってしまった。その心的距離が口調に繋がった。結局、あたしはミウちゃんとの距離を縮められなかったんだ。いくら言葉で思いを伝えたって、楽しく時間を共有した経験には勝てない。言葉よりも行動なのだ。


 梨沙は唇を噛み締める。ほんのりと血の味がして、力を緩めた。


「とにもかくにも、私は貴方達を騙してた。それだけはちゃんと謝らせて。梨沙ちゃんに至っては、私のせいで苦しめちゃったと思う……。本当にごめんなさい」


 美羽は緩んだ頬を引き締めて、再度謝る。そして、続けた。


「でもね、私、本当に二人には感謝してるの。……こんな私を学校に連れ出してくれて、ありがとう」


「いえ、そんな。あたし、何もできて、ませんから……。それに、美羽さんにも事情があったんだろうし、その、謝ったり、変にかしこまらないで、ください」


 口調が定まらない。大人となった美羽との距離を掴めない。あたしは、詩織のように上手くコミュニケーションを取れない。コミュ力がないことなんて昔からわかっていたのに、自分の鈍臭さに嫌気がさす。


 悔しい。途方もなく悔しい。


 だらんと垂れ下がっていた手のひらを思いっきり握る。そんな梨沙に美羽は力なく微笑みかけた。とくん、と胸に熱が帯びる。梨沙は知らない。こんなに切ない笑みを知らない。


 淋しげで、痛々しくて、触ったら溶けてなくなってしまいそうで……。けれど、印象的な、心に焼き付いて消えないような面貌をしていた。


「ううん。ありがとう、だよ。私、死んでからの四十八日間、馬鹿みたいにお母さんを追いかけてたから。貴女達のおかげで、この世界で初めて自分のために時間を持てたの。初めてこの世界で楽しいって思ったの。だから、素敵な時間を、ありがとう」


「四十八日間……ってことは」


 詩織が口元を抑える。その表情で梨沙もピンときた。


 この世界にいられるのは四十九日だけ。つまり、美羽にとって今日は……。


「うん。そう。この世界で最後の日」


 美羽が二人を見据え、微かに笑んだ。美羽は最終日だということを事もなげに言うと、


「あっ、ごめんね。私が立ってしまったせいで、ずっと二人を立たせちゃってたわね。私が言うのもなんだけど、立ち話もアレだし、座りましょ?」


 と、微笑み、ベンチに腰掛けた。梨沙も詩織も美羽に倣う。


「最終日の貴重な一日だったのに、あたしたち、好き勝手言って、連れ回して……。えっと……、ごめんなさい」


 梨沙は謝った。伏せた目にまつ毛が映る。


「あぁ。謝らないで。さっきも言ったでしょう? 私、本当に二人には感謝してるの。どちらかと言うと、私が二人を連れ回してたし。それに、どうせ探してたってお母さんなんて見つかりっこないんだから」


「それがわかってるのに、どうして……子供の姿なんかに……」


 問うていた。踏み込みすぎだとわかっていたのに、問わずにはいられなかった。美羽が大人の姿になった瞬間から、ずっと気になっていたのだ。


 どうして、二十四歳の女性が、五、六歳の少女の姿になったのか。


「……それは」


 美羽の言葉が淀む。梨沙と詩織は続く言葉を待った。二人とも何も言葉を発しない。


「……それは、ずっと、私が子供の頃の優しいお母さんに固執してたからかな……。私がまだ、小学校に上がる前のお母さんに……」


 美羽の声が暗くなる。美羽は梨沙のことも詩織のことも見ていない。ただただ手元を見つめている。


「教えてください。美羽さんと、美羽さんのお母さんの間に何があったのか……。話したら、楽になることって、たくさんあると思うから」


 敬語とタメ口が混ざった微妙な距離感の中、梨沙は美羽に言葉を促す。梨沙は先程までの自身と美羽を重ね合わせていた。


 話したら楽になる。そんなのはハッタリだ。聞いてもらったところで、何年も抱え込んだ心のわだかまりが解けるわけがないのだ。梨沙に関しては、先ほど心の内を明かし切ったところで、ミウが大人の姿になり、梨沙の話は宙ぶらりんになった。完全なる不完全燃焼。決して、楽になんてなっていない。それでも、自分の心内で多少なりとも、気持ちの整理はできた。わだかまりは燻ったまま、言葉にならない感情が渦巻いているけれど、自分でも知らなかった気持ちが見えそうになっている。だから、言葉にして話すことは決して無駄じゃないと感じる。それに、なんだか悔しいのだ。


 梨沙は心の内を晒した。詩織も聞いているところで、丸裸とまではいかなくても、心の服を脱ぎ捨てたのは確かだ。だから、美羽の心の裏の裏まで見なければ、釣り合いが取れない。自分だけが気持ちを吐き出すなんて不公平だ。


 そんな打算的で浅ましい感情が梨沙にはあった。


「話しても、いいの?」


「なんで遠慮してるの? わたしたち、友達でしょ?」


 美羽の問いに答えたのは詩織だった。詩織が軽々と笑顔で述べる。『友達』という梨沙にとって重い言葉を軽々と。


「友達……。そうね、友達」


 美羽は膝の上に手を重ね、胸を反らせた。居住まいを正した美羽の姿は一輪挿しの花のように美しい。


「ありがとう。そしたら、私の話、聞いてくれるかな?」


 梨沙と詩織はほとんど同時に頷いた。空にはふんわりとした綿雲がゆっくりと流れている。中庭を吹き抜ける風が陽の光を浴びて輝いて見えるようだった。

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