32.思い出すもの



「ちょっと。起きて。ねぇ、ちょっと」


「んっ、んん……」


 小さな吐息が漏れた。こんな時だというのに艶っぽさを感じてしまう。


「ねぇ、ちょっと。起きてってば」


「んん……。あれ……り、さ、ちゃん……?」


 二度目の呼びかけで詩織は瞼を上げた。詩織の動きが鈍い。頭は目覚め始めているのに、体がついてこないといった感じだ。


「ねぇ、大丈夫?」


「うん……だい、じょうぶ、だよ。まだちょっと、頭がほわーんってしてるけど………」


「そう……。ならいいんだけど」


「えへへ、梨沙ちゃんが心配してくれるの、嬉しいなぁ」


 詩織は顔をテーブルにつけながら、ニマッと笑う。その顔を見て、目を伏せる。


 詩織の過去を見てしまった。詩織の気持ちを知ってしまった。彼女の見られたくない部分だろう。不可抗力とはいえ、土足で入り込んでしまった。詩織は知っているのだろうか。あたしが詩織と同化していたこと。知ってて、あたしに笑顔を向けているのだろうか。


「……そんなことより聞きたいんだけど、アンタも過去を見てたの?」


 詩織は後頭部を軽く押さえながら、体を起こす。


「過去……? あぁ……うん。すっかり忘れてた子供時代の思い出を追体験したよ。懐かしい気持ちにはなったけど、でも、思い出は思い出のままでいいのかな、なんて思っちゃった。思い出はキレイなだけじゃないもんね……。もう、思い出ピクシー、だっけ? とんだ悪戯妖精だ」


「……そうだね」


「そういう梨沙ちゃんは? 梨沙ちゃんも何か懐かしい思い出が見えたりした?」


「それは……」


 口を噤む。脳は完全に起き切ってきた。


 詩織の口ぶりからは同じ過去を見ていたとも見ていなかったとも取れる。


 本当のことを伝えることも、嘘を伝えることも、どちらも憚られてやるせない。


 そのとき、ガタッという大きな音が響いた。テーブルの上にあったシチューがこぼれる。


「タエコ!」


 お爺さんだ。


 目の前に座っているお爺さんが声を荒げて飛び起きたのだ。お爺さんの声がキーンっと頭に響く。


「ど、どうしました?」


「……あ。……あぁ。君は……タエコの友人の……。あぁ、そうか。先ほどの光景も思い出の中だったのか……。そうか……」


 独り言に近い呟きだった。お爺さんは頭を掻いて、椅子に座り直る。そして、笑みを浮かべ、詩織に話しかけ始めた。


「タエコ……。ワシはまたタエコとの何気ない日々の思い出に入り浸ってしまったよ。まだ子供たちがこーんなに小さい時の日々だ。まったく、目の前に本物のタエコがいるというのに、ワシは一体何をしているんだか。お前が作ってくれたシチューも台無しだ……」


「お爺さん……」


 詩織が憐憫の目で見つめる。


「だけど、ワシは幸せだった。確かに幸せだったのだ。そして、今も、こうしてタエコがいる。こうして死に目にタエコに会えた。ワシは、ワシは幸せ者なのだ……」


 目の白い部分がじんわりと赤く染まり、瞳全体がわずかに潤む。


「思い出の中も、今も、幸せなんだ。だが、タエコはそうじゃなかった。だから、離婚した。客観的に見て、わかった。ワシはいい旦那ではなかった。……だが、タエコを大切に思っていた想いというのは、記憶というのは、すべて本物なのだ。ワシの気持ちに応えなくてもいい。ただ、ワシの本当の気持ちをわかってほしいんだ」


 お爺さんの思いは全て詩織にぶつけられていた。お爺さんの熱い想いに胸の奥がきゅっと絞られる。


「お爺さん……。ごめんなさい……わたしは」


「わかっておる。タエコじゃないって言いたいのだろう。……わかっておる。そうまでして離れたいことも、わかっておる……」


 詩織は唇を強く噛んで黙った。噛んでいる部分が白っぽくなる。


「……ごめん、お爺さん。わたしたち、そろそろ……」


「そうか……行ってしまうのか。短い時間って言っていたもんな……。タエコ、ありがとう。最後にワシに会ってくれて、料理を振る舞ってくれて、本当にありがとう」


 お爺さんはテーブルに両手をつき、頭を深々と下げた。背中が震えている。


「お爺さん、ごめん。その感謝は受け取れない。わたしは本当にタエコさんじゃないから」


 詩織が息をふっと吐く。


「だけど、わたし思うの。お爺さんの思い出の中のタエコさんが幸せそうに見えるなら、タエコさんもきっと幸せだったんだって。お爺さんとタエコさんは、別れる道しかなかったのかもしれない。でも、思い出の中にタエコさんの幸せな笑顔が見えるのなら、タエコさんにも幸せな時間があったんだって、わたしは思うの」


 わたしは思い出の中ですら、笑ってなかったから。


 掠れた呟きが口の先から零れ落ちる。吐息のような呟きを聞いたのは、梨沙だけだった。


 お爺さんは頭を下げたまま、嗚咽を漏らす。


「そうだろうか……そうなんだろうか……。タエコは幸せだったんだろうか……」


「そうだよ。幸せだったよ。思い出ピクシーが見せてくれる過去の記憶はきっと、ありのままの姿だろうから」


「そうか、そうか……」


 お爺さんは咽び泣いた。体から力が抜けたように、泣き崩れる。


「タエコ……。ありがとう、タエコ……」


「わたしはタエコじゃなくて、詩織だよ。……じゃあね、お爺さん。死んでる人にこんなこと言うのは変だけど、元気で残りの時間を過ごしてね」


 詩織は立ち上がり、身を翻す。一直線にドアへと向かう。梨沙もそれに続いた。


 詩織は一度も振り替えなかった。木製のドアからは眩い光が入り込み、詩織の後ろ姿が影になる。詩織の通った後の道には甘い木犀の香りがした。


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