33.苛立ち
快晴だった。空には青が広がり、それを遮るものは何もない。
「お爺さん、最後まで勘違いしたままだったね」
詩織が言った。顔は前に向けられている。黄色の小さい花をつける野草が風に吹かれて、可憐に揺れていた。草丈の低い草花がくるぶしのあたりをくすぐり、こそばゆい。のどやかで落ち着いた空気感がここにあった。けれど、街を出てすぐの原っぱの方が過ごしやすかったのかもしれない。今歩いている道は緩やかな傾斜に見えて、結構急な坂道なのだ。しかも、この辺りは手入れがされていないのか、雑草が好きに伸びきり、歩きづらい。
「そうだね。まぁでも、最後にタエコさんと会えたっていう思い出と共に亡くなるなら、幸せなのかもしれないよ」
「……うん。お爺さんが最後は笑ってくれてたら嬉しいな」
詩織の歩く音に合わせて、サクリ、サクリとリズミカルな音がする。
「にしても、この道歩きづらいね……。道標に『丘』って書いてあったから、もうちょっと平で歩きやすい場所を想像してたんだけど……。せっかく森を抜けて歩いてきたのに、まさか森の中よりも歩きづらいとは。……おーい、サリエルー! 聞こえますかー! 森だけじゃなくて丘もちゃんとお手入れした方がいいと思いまーす!」
詩織が両手を口の端に当て、空に向かって大声を出す。
「ちょ、ちょっと、恥ずかしいからやめてよ!」
「えー? 誰も見てないんだし、いいでしょ? 梨沙ちゃんも叫んでみたら気分が良くなるかも」
「はぁ。あたしはアンタと違って大人の女性なのでやらないです」
「もう相変わらず、手厳しいな」
頬を膨らませる詩織に苦笑してしまう。
可愛いな、と感じる。
詩織の記憶の中で詩織と同化してから、不思議と詩織に対する嫌悪感がなくなっていた。前までならイライラしていた詩織の行動も、受け入れられてしまっている。
自分でも現金だとわかっている。だけど、詩織のこの姿も彼女の努力の上で成り立っていることを知ってしまい、彼女を無碍にすることができなくなってしまったのだ。
梨沙は詩織の服の肩にいつの間にかついていた葉っぱを、バレないようそっと摘み、話しかける。
「ねぇ……。気になったこと、一つ聞いていい?」
詩織がくるりと振り返った。
「ん? なぁに? ふふ、梨沙ちゃんがわたしに興味持ってくれるなんて、この先、雪が降ってるかも」
「ちょっと、茶化さないでよ」
「ごめん、ごめん。なんだか嬉しくなっちゃって。それで、なぁに?」
「いやさ、アンタはどうしてタエコさんのフリしなかったのかなって……」
ずっと気になっていた。
人の目を気にして、見栄えを気にして生きてきた詩織のことだ。タエコさんのフリをするのは容易いことだっただろう。でも、詩織はそれをしなかった。そんな詩織の様子に梨沙は違和感を覚えた。詩織のことをそんなに深く知っているわけじゃないけれど、記憶の中で詩織と一つだったのだ。だから、詩織の些細な違和感に気づいてしまう。
「んー……なんだろう。上手く言えないんだけど、わたしがタエコさんの役をやるのは違う気がしたの」
詩織が妙に落ち着いた口調で言った。
「わたしはタエコさんじゃない。本物だって嘘ついたって、わたしは所詮偽物なの。偽物は本物にはなれないし、代わりにもならない。それに、勘違いしてるとはいえ、お爺さんだって偽物なんかに取り繕われても、嬉しくないだろうし、なんの慰めにもならないよ」
心のずっと奥底ではね、と詩織は付け加える。
「……でも、結局お爺さんは最後までアンタをタエコさんだと思ってたじゃん」
「それは……わたしがタエコさんじゃないって見抜けなかったお爺さんの責任で、わたしの与り知らぬところにあるものだから。……わたしは偽物にも、代わりにも、なりたくなかった。偽物の慰めなんてしたくなかった。それだけ」
「そう」
さらりと言う詩織に、梨沙もさらりと返答する。
詩織の言葉は彼女の記憶と重なった。偽物を辞めたいと願っている詩織と、自分の地獄の責任は自分でとるという詩織の曾お祖父様の言葉。
もしかしたら詩織は、彼女なりに自身の地獄と向き合って行動しているのかもしれない。
詩織はスカートをひらつかせながら、歩きづらい道を進み続ける。強い風が吹く。草花のかけらが舞った。梨沙は思わず目を閉じる。ほのかな草の青い香りを吸い込んだ。
「見て。あそこ、頂上じゃない?」
緑の風の向こうから、詩織の心地いい声がする。
梨沙は片目を開けた。
詩織の目線の先には、一本の大樹が亭々と空に向かい伸びている。二人は草花をまたぎ、大樹を目指す。心なしか歩調は早い。
「かなりの坂を登ってきたし、あそこが頂上なら、キレイな光景が見れるかもね」
降り注ぐ太陽を手のひらで受け止めて、詩織が朗らかな声で言う。高い場所からなら、この世界の綻びが見えるかもしれないという一抹の希望を抱く。梨沙はまだ、現世に戻ることを諦めていなかった。この世界でも足掻けるまで足掻いてやりたいのだ。
しかし、梨沙の前を歩く詩織は一体何を思い、梨沙に付き合ってくれているのだろう。詩織と同化する前は、何も考えず、好きに行動してるのだと思っていた。けれど、今は、詩織が単純なだけではないことを知ってしまった。
詩織は進む。坂道を駆け上がる。気づいた時には詩織は随分と前にいた。そして、「ついた!」と詩織が叫ぶ。大樹に負けじと両手を大きく空に掲げて、笑みが広がっている。
「ほら、梨沙ちゃんも早く!」
詩織に促され、梨沙も駆ける。大樹のそばに着いた瞬間、梨沙は小さく息を呑んだ。
森と海、砂漠と野原、そして、城壁に囲まれた街がキレイに区画され、小さな世界に内在していた。まるでゲームの中の世界のようだ。むろん、ここはゲームの世界ではなく、死後間際の世界だ。けれど今、この場所に現実として存在している。ともかく、壮大なのだ。エリアによって空気感が違うことが、丘から見下ろしているだけなのによくわかった。
生と死の狭間の世界なはずなのに、どうしてか生き生きとしている。自然が、街が、自分たちはここにあると主張しているみたいだ。人は見えないのに、命の息吹を感じる。
「すごい……」
「うん。ほんとにすごい」
二人で黙って絶景を見続ける。遠くでは雪がしんしんと降り注ぎ、すぐ近くの林では桜が舞い踊っている。四季が入り乱れているこの光景こそが、この場所が異世界であることを主張していた。
「……わたしね、この世界の街ほど素敵な場所はないって思ってたの」
詩織が風に揺られてしなる髪を耳にかける。
「だってここは、わたしの想像通りの美しい街だから。……でも、ここの景色を見て思ったの。自分の想像してることよりも、もっとずっと、うーーんっと素敵な場所が、まだまだたくさんあるんだなって……。……ねぇ、梨沙ちゃん。巻き込んでごめんね」
「……え?」
突然、話の方向性が変わる。
梨沙は横を向いた詩織の瞳を見つめた。話の展開は読めないけれど、詩織が何か大切なことを言おうとしているのが、強く強く伝わる。
「あのね、わたし、この場所が最高の場所だって思ってた。ここより素敵な場所はないって思ってた。だから、いつだってありのままの姿でいられる梨沙ちゃんに、わたしが望むものを全て持っている梨沙ちゃんに、この世界を見せてあげたいって思ったの。そうすれば、学校や社会を嫌っている梨沙ちゃんは心から喜んでくれるって本気で信じてて……。でも、それって多分違かったんだよね」
詩織の声がくぐもる。
「ずっと考えてたんだ……。この世界は理想郷で願い事がなんでも叶うっていうのに、ミウちゃんも、お爺さんも偽物だって言ってた。本物じゃないって。偽物は所詮偽物。本物には勝てないんだよね……。この世界は理想郷に見えて、何にも理想郷じゃないのかもしれないって思って……。それになにより、喜ばせたかったはずの梨沙ちゃんは、この世界にいても全然楽しそうじゃないんだもん。……それで、やっと自分のしたことの罪深さに気がついたの。わたしのやってたことって、独りよがりで自分勝手な行動だったんだ、って。……その、だから、本当にごめん」
「……なにそれ」
体の内側から黒いものが迫り上がってくる。汚くて臭い塊だ。
「今更、何? そんなん、今更謝られたって、遅いんだけど」
「うん、わかってる。本当にごめんなさい」
詩織が向き直り、深々と頭を下げた。
なんで謝るんだ。
詩織の言葉が奥に沈んでいた気持ちを引きずり出す。詩織を許しかけてのに、ドス黒い塊が這いずりながら、喉を灼き尽くす。苦しくて呼吸がうまくできない。
「……だから。だから、今更謝ってなんなの? いい加減にしなさいよ。勝手に一緒に飛び降りておいて、勝手に殺そうとして、なにいきなりしおらしくなってんの? 自分が間違ってた?そんなの、最初からわかってたことじゃん。……ほんと、意味わかんない。だったら最初から、こんなことしないでよ!」
怒鳴っていた。その声は自分でも驚くほど震え、濁り、ざわついている。
憤りの念が湧き上がる。怒りと苛立ちと嫌悪とが混じり絡まり合い、心の奥の奥を叩きつける。ずっと抱えていた負の感情の爆弾に引火する。怒りではらわたが捩れそうだ。
「アンタのせいで、アンタのせいでこうなってんの、わかってる? あたしは、ずっと言ってたよね? こんなところ来たくなかったって!」
息が上がる。詩織と目が合った。眉間に皺がより、苦しそうな表情をしている。
「うん、そうだよね。ごめん」
「だから、今更謝られたところで……! あたしたち、死ぬかもしれないんだよ! ほんと、最悪! 死ぬならあたしを巻き込まないでよ! アンタだけが死ねばよかったんだ!」
言葉にした瞬間、全身が痺れる。
アンタだけが死ねばいい。
本当はずっと思ってた。勝手に巻き込んで、勝手に楽しんで、一人だけ気楽で。
最悪。本当に最悪。
あたしはこんな世界になんかに来たく無かった。
この世界に来てからずっと詩織に抱いていた、思いの丈を吐き出してしまった。今まで暖簾に腕を押しているかのように、するりと通り抜けてしまってた苛立ちや怒りをやっと、詩織に伝えることができたのだ。
……それなのに、清々しさが微塵もない。
心の中は軽くなるどころか、ずしりと重くなる。黒い塊が、震えが強くなり、濁りが濃くなる。ざわつきだって止まらない。重い。黒い。痛い。呼吸ができない。
「……ごめん。そうだよね」
詩織が力なく笑った。薄い唇が小さく横に広がり、目尻が下がっている。
詩織は息を詰めた。詩織の眼がくすんでいたのだ。
「わたし、やっぱり全然ダメだね。人に迷惑かけてばっかり。ほんと、わたしだけが死ねばよかったね」
「あっ……違う。あたしは……」
言葉を続けようとした時、声が聴こえた。
「あれ? こんなところに人? 珍しい」
梨沙の声に見知らぬ男の声がかぶさる。
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