36.忘却
真っ暗だ。あたりには何も見えない。暗闇の中。ピッピッピッ、という電子音だけが世界を作っている。体が痛い。頭がぼやける。
ふと、誰かが手を握っていることに気がついた。それだけではない。消毒液の独特な匂いや、口に広がる微妙な苦味。音だけではなく、感触、嗅覚、味覚が急速に発達する。
鬱陶しいと思った。感覚とはこんなに煩いものなのかと、ため息が出てしまう。
あとは目だけだ。目を開ければ、五感全てが揃う。まだ世界は黒い。漆黒で塗り潰されている。夜よりも、真っ暗なスマホの画面よりも黒い黒が目の前に広がる。
「梨沙、ちゃん……」
電子音の中に声を聞いた。男か女か判別できない声だった。
「梨沙ちゃんの、手が……手が! 今、動いたの!」
声は女のものだと気がついた。キンッとする声が頭を刺激する。
「梨沙ちゃん、起きて……。お願い……。梨沙ちゃん……」
誰かが梨沙に縋っている。祈るような、懇願するような、優しい声だ。それと同時に、切なく痛々しい声だった。
「うっ……」
頭が鈍器で殴られたように痛い。頭だけじゃない。体の節々が痛くてどうにかなってしまいそうだ。あまりの痛さに瞼を持ち上げる。眩しすぎる光が、梨沙の目を灼いた。
「梨沙ちゃん! 看護師さん! 梨沙ちゃんが、梨沙ちゃんが!」
女の口調に歓喜が混ざる。梨沙は目を細め、声のする方を見た。母だ。母が泣いている。母を泣かしたのは一体……。
「梨沙!」
今度は男の人の声がぶつかってきた。今度は父のものだとすぐにわかった。父と母が苦痛に悶えながら、何度も何度も梨沙の名前を呼んでいる。二人とも四十代半ばの中年だ。そんな二人が感情的になり、叫ぶなど並大抵ではない。どうしてそんなに泣いているの。
わからなかった。それに加えて、うるさい。覚醒したばかりの耳は、どんな音でも敏感に拾う。それになんだか、胃の辺りがムカムカして気持ち悪い。
うるさいな。二人とも、なんなの。こっちはとっても大変で、今すぐにでも戻らないといけないのに。
言い返そうとしたけれど、口から声が出てこない。唇がほんの少し持ち上がるだけで、声が出ないのだ。
……大変なこと? 大変なことって、なんだっけ。
戻らないといけないって、どこに?
疑問が脳裏に掠める。
ダメだ。何も思い出せない。
灰色の靄が脳の隅にあるのに、それななんだかわからない。それどころか、思い出そうとするたびに頭の奥が疼く。必死で思考を巡らせていたとき、眩しさで包まれていた世界が急に開けた。五、六人の人影がぼんやりと浮かぶ。ゆらりと揺れて、蜃気楼みたいだ。
全員が梨沙の行動に注視している。だから、梨沙も耳をそばたて、目をより開き、匂いを嗅いで、周りを観察してみる。「聞こえますか。堀川さん。聞こえますか」と冷ややかな男性の声が梨沙に語りかけていた。見える世界が次第にはっきりとしてくる。
ここは病院だった。梨沙を覗き込んでいたのは両親と看護師と医者で、梨沙の容態を観察していたのだ。梨沙は自分の体を目だけで、確認する。ほとんど全身に包帯が巻かれ、何かよくわからないいくつもの管につながれていた。
「梨沙ちゃん! 梨沙ちゃん!」
両親が泣いて、わたしのベッドにしがみついる。
「よかった。本当によかった……」
「あた、し……」
「喋ったらダメ! 貴女は今、目覚めたばかりなんだから……」
母の切羽詰まった口調に、思わず口を閉じてしまう。
「梨沙ちゃん。よかった……。本当に……」
父と母は顔を涙で濡らし、梨沙の頭を優しく撫でる。
お父さんとお母さんの匂いだ……。
ふわりと香った柔軟剤の匂いに安心する。梨沙は口元を緩めると、再び目を閉ざした。
「峠は越しました。もう大丈夫ですよ」という染み込むような声が聞こえてきたのだった。
それから程なくして……といっても、しばらく眠っていたので、時間が経ってたかもしれないが「りっちゃん!」というかつてよく呼ばれていた名前の響きが滑らかに入り込んできた。梨沙は目を開け、目線だけを動かす。若くガタイのいい男がこちらを見ていた。
安藤広樹だった。息を切らせて、こちらに向かってくる。目には水滴が溜まっていた。
「目が覚めて、本当に、良かった。俺、俺、ガチで心配したんだぞ」
「……うん。ありがとう」
「意識ははっきりしてるのか? 俺が誰だかわかるか?」
「……ひーくんでしょ。わかるよ」
「よかった。体は? 体は痛くないか? ……いや、痛いに決まってるよな。全身打ちつけたんだから……。ごめん、無神経だった」
両手でゴメンのポーズをして、頭をペコっと下げる。いつもおちゃらけてる広樹があまりに真剣に話しかけてくるものだから、面白くなってしまった。思わず吹き出してしまう。
「お、おい。何笑ってんだ」
「ごめん。こんな風に話したの、久しぶりだなと思ってさ」
じっと広樹の顔を見る。中学からずっと避けてきた。冷酷で残酷な表情を簡単に作ることができる広樹が怖かったから。また陰で蔑まれるのが嫌だったから。だから、避けてきた。でも、広樹の根っこの部分は変わっていないのかもしれない。
なぜだかわからないけど、そう思った。
「まぁ、そうだな……。なぁ、りっちゃん。そんなに、悩んでたのか?」
「……ん?」
「なんで……屋上から飛び降りるなんて、そんな馬鹿なことしたんだよ……」
屋上から飛び降りた? あたしが?
「えっと……?」
「悩んでたんなら、俺に言ってくれればよかったんだ。そしたら、俺だって全力でりっちゃんの力になったのに」
「しかも、小南さんまで巻き込むなんて……」
声がぷつり、と途絶えた。本当にぷつりという音を聞いた。
声だけじゃない。全ての音が消え、視界が白っぽく滲む。胸の奥の奥の、自分でも触れられないような場所が疼いた。痛みで、熱を持っている。
小南さん。小南詩織。あたしは、飛び降りた。小南詩織と、飛び降りた。
そうだ。飛び降りたんだ。詩織から屋上に呼び出されて、変なポエムを聞かされて、それで、屋上から突き落とされた。
脳の隅にある霞が、少しだけ晴れる。霞が何か大切な記憶に溶け合い、混じり合う。
詩織は梨沙に見せたい場所があると言っていた。それは、ステンドグラス風な提灯が街中にぶら下がった今まで見たことのないような絶景の街で、詩織はそこを理想郷だと呼んだ。美しい街並み、最新鋭の設備を備えた高校、そして、不自然に整備された清々しい自然。たしかに、記憶にある。記憶にあるのに、あまり覚えてない。全てが朧なのだ。
絶対そこに行ったことがあるのに、そこがどこだかわからない。本当に行ったのか、夢の中なのか、それすら、わからない。悲しみ、温もり、痛み、優しさ、脆さが胸をくすぐっている。この感覚は一体、なんなのだろう。頬から顎へと水滴が伝う。
あぁ、そういえば、あの場所には、人がいたっけ。
小さな少女の笑顔が、知らないお爺さんの悲しげな顔が、はっと息を詰めるほど、鮮明に浮かんでくる。記憶の中の若い男の狂気にほとばしった目が梨沙をとらえた瞬間、ぞわりと、体が震えた。
怖い。痛い。やめて。
はっきりと意識に現れた見知らぬ男に恐怖を覚える。
この人たちは一体、誰なのだろう。誰だったのだろう。そして、この人たちと会った時、あたしは確か詩織と……。
「なぁ、おい。大丈夫か? 泣いてるの、か……?」
突然、音と視界が戻る。広樹はオロオロとしながら、こちらを見つめている。
「えっ。あぁ……。えーっと、ごめん。な、に?」
「ごめんね、広樹くん。梨沙、まだ意識がはっきりとしてないみたいで……。だから……」
母がチラリと目線で梨沙を追って、申し訳なさそうに口を出す。
「あ、いや。すんません。……そう、ですよね。起きたばっかりなのに、俺、りっちゃんを混乱させるようなこと……。ホント、空気読めてないっすよね。ごめんなさい」
「ううん。いいのよ。それより、広樹くん、毎日お見舞いに来てくれてありがとう。きっと、広樹くんの祈りも届いて、こうして梨沙も目覚めることができたんだと思うわ」
「……いえ。俺はずっと、りっちゃんのそばにいたのに、何もできなかったので」
広樹が唇を噛んで下を向く。悔しくて仕方がないという表情だ。
そういえば、広樹はさっきから『堀川』ではなく、『りっちゃん』と呼んでいる。小学校の頃に呼び合っていたあだ名だ。どうして今になってあだ名なんかで呼ぶのだろう。
その広樹にゆっくりと手を伸ばす。けれど、腕が異様に重い。思うように動かない。母と広樹は梨沙を蚊帳の外に置いて、話を続けている。
「そんな。広樹くんはよくしてくれてるわ。いつも梨沙を気にかけてくれてありがとう」
「いや……。はい……。俺にできるのはこれくらいなんで」
「本当に、助かるわ。本当私はダメね。梨沙の苦しみに何も気がつけなかった。梨沙は強い子だからって、思春期だからって、話も碌に聞いてあげれてなかった……」
「……おい、自分をあんまり責めるな。この件に誰が悪いとか、ないだろう。それに梨沙も聞いているんだ」
父も口を挟み、梨沙を見た。視線が合うとサッと逸らされてしまった。
「あの、さ。さっきから、なんの話をしてるの……?」
ここにいる全員が訳のわからないことを話している。言葉自体は理解できるのに、内容がうまく理解できない。
「まるで、あたしが何か悩んでるみたいな言い草して……。あっ」
ここまで口にして気がついた。彼らは何かに思い悩んだ梨沙が、自殺するために屋上から飛び降りたと思っているのだ。点と点が線で繋がる。
学校で浮いている少女が学校一の美少女を逆恨みして、心中を図る。
それはそれはよくできた物語じゃないか。だけど、そんな勝手な推測、失礼にも程がある。梨沙は巻き込まれた側なのだ。実際には詩織が全てを企てた側なのに。
だから、飛び降りたあとの世界で詩織といる間、ずっとむしゃくしゃしてた。だから、詩織に「アンタだけ死ねばよかった」なんて、ひどいことを言ってしまった。
……まって。それっていつの話? だって、あたしはずっと昏睡状態だったんだ。死ねばいいなんて、いつ……。
「梨沙、混乱してるのね。そりゃそうよね。四階から落ちたんだもの。ゆっくりでいいの。ゆっくりで……」
「そうだ。今は怪我を治すことだけを考えなさい。小南詩織さんのことは……追々、な」
小南詩織。
何か、頭の隅に引っかかっている。
小南詩織。
その名前が梨沙の脳内をつつき回す。
詩織がなんだっていうんだ。アイツは、あたしを殺そうとしたクソみたいな女で、聖女のふりをした偽善者だ。
……本当に? 詩織は本当に偽善者なの?
「梨沙ちゃん。お母さんとお父さん、売店で買い物してくるわね。広樹くんも何か欲しいものあるかしら?」
「お気遣いなく! 大丈夫です!」
「そう? そしたら、梨沙ちゃんをお願い。すぐ帰ってくるから」
母はヒラヒラと手を振り、病室を後にする。機械音と広樹の声だけが残った。
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