8.翳り



「……そういえば、アンタは何回かここに来たことあるんだよね。てことは、何度も死にかけてるってこと?」


「うん、そうだね。サリエルも言ってたようにわたしはここでの記憶を所持したまま生き返ったの。なんでも願いが叶うって最高でしょ? だから、そうだなぁ……。多分、五、六回はここに来てるんじゃないかなぁ」


「つまり、アンタって自分から五、六回死にかけたってわけ?」


「うん、そうなるかな」


 詩織は華奢で美しい手を梨沙の前に差し出しながら、「空の木箱、貸して?」と梨沙に微笑みかけ、受け取った梨沙の木箱を消してみせた。


「ちょ、何勝手に消してんの! それ、持って帰りたかったんだけど!」


「あっ……。ごめん。でも、ここのモノは残念ながら現実世界に持っていけないの。だから、手で持ってたら邪魔かなって思って」


「そっか。そうだよね。ここは死後の世界なんだもんね。わざわざお節介をどうも。……ていうか、気になるから聞くけどさ、五、六回死にかけてるって言ったけど、毎回あんな感じで飛び降りてたの?」


「まさか! 毎回そんなことしてたら、流石に大騒ぎになっちゃうでしょ? そんなことしないよ。大抵は、リスカして意識が遠くなった時にここに来てるって感じかな。初めて来た時も、リスカして意識が飛んだ時だったし……。でも、リスカってそこまでちゃんと死にかけるわけじゃないから、ここに着いたとしてもすぐ現実に引き戻されちゃうんだよね。だから、死にかけ損だな、って思っちゃうことも何回かあったの。最初なんてサリエルの説明聞いてる時に目覚めちゃったんだよ? すごく勿体無いって思わない?」


 話している内容とは裏腹に、朗らかに話す詩織に違和感を覚える。自分のことなのに、まるで他人事のようだ。胸のあたりがざわつく。学校で一番可愛いとまで言われている詩織が、リストカットをしていた。


 どうして? なんで? みんなに好かれてるアンタがどうしてリスカなんてしてんの?


 頭の中に、好奇心という名の興味が湧いてくる。人の黒い秘密が気になるなんて、一番下衆な感情だと分かっていても、止められない。


「アンタって、リスカしてんの……?」


「質問ばっかりだ。えへへ、梨沙ちゃんがわたしに興味持ってくれて嬉しい」


「誤魔化さないで」


「あはっ。ごめんごめん。でも、屋上で話した時は、これっぽっちもわたしに興味持ってない感じだったから、こうやって興味持ってもらえるのが嬉しくて」


 詩織の優しげな視線を受け、梨沙は身じろぎする。詩織が屋上でどれほどポエムを唱えても、興味はなかった。口先だけならなんとでも言えるから。でも……。


 梨沙は屋上で詩織の翳りを見た。屋上の詩織はクラスにいる時と別人だった。もしかしたら、彼女は本当に飛び降り自殺をするほど、深く悩んでいたのかもしれない。それならば、詩織の話を一考する価値がある。


 そこまで考えて、梨沙はハッとした。詩織の話を空っぽでつまらないと一蹴しておきながら、不幸話が真実味を帯びた途端、同情し、興味を持つ。それって、話題になったからと興味本位で話題の物に集るミーハーな奴らと同じだ。対象が人間なことを加味すると、ミーハーの奴らよりも下衆な人間かもしれない。梨沙は急に恥ずかしくなって、俯く。


「わたしたちの生きる世界って、地獄でしょう。でも、どうやって地獄を抜け出したらいいかわからなくて。もがけばもがくほど、足を掬われ、地獄に沈んでいくの。そんなとき、リストカットをすると、なんでかな……。ほんの少しだけ楽になれるんだよね。息ができるっていうか、痛みがわたしを慰めるというか……。上手く言えないんだけど、リスカは、現実という地獄での酸素ボンベみたいなものなの。それで、たまにリスカしてたところ、運良く、刃が深くまで刺さって、この世界にたどり着くことができたんだよね」


「それって運が良いっていうの?」


「うん。わたしにとってはこの世界の存在を知れたから、運が良かったんだよ。……だけど、こうしてどこからか飛び降りたのは、今回が初めて。梨沙ちゃんがわたしの初めて奪ったんだよ」


「……なにそれ。そんな初めて、いらないし」


「……だよね。ごめん。でも、屋上でも話した通り、梨沙ちゃんはわたしの憧れの人なの。だから、どうしてもこの世界を教えてあげたくて。……それに、梨沙ちゃん、いつもつまらなそうにしてるでしょう? だから、この世界に来たらきっと、幸せを感じられるんじゃないかなって」


 詩織はうるっとした瞳を梨沙に向けて、言葉を紡ぐ。その顔があまりにも儚くて、「守ってあげたい」と日頃騒いでいる男子の気持ちが少しだけ分かってしまった。


 詩織は両手を梨沙の手に重ねて、俯く。


「でも、ごめんね。ちょっと打ちどころが悪かったのかな。いつもならこれくらいで目が覚めるんだけど、なかなか起きないね……。やっぱり四階から飛び降りるのは無茶だったのかも。その、ごめん」


「無茶だったって、死んじゃうかもしれないってことでしょ? ごめん、じゃないよ。アンタ、最低なこと言ってるの分かってる? 人殺しだよ」


「うん、そうだよね。ごめんなさい」


 詩織は潤む声を飲み込み、顔を上げた。悲しい顔ではなく、覚悟を決めた凛々しい顔をしている。重なる手に加わる力が強くなった。


「でもさっ、死んだら死んだでいいと思わない? なんであんなに辛いところで生きる必要があるの? 生きることに執着する必要、ある? 地獄みたいな毎日から抜け出せるなら、死ぬことは救いじゃないかな?」


「は? なに言ってるの……?」


「梨沙ちゃんも、そう思うでしょ?」


 詩織は必死な形相で梨沙に問いかける。何かを求める子供のような無垢な顔から出てくる話が、死についてだなんて誰が想像できよう。


 詩織にとって、それほどまでに現実は辛いものなのだろうか? 誰もが羨む美貌と、誰もが羨む学力の高さと、誰もが羨む経済力の持ち主がそれほど死を望む理由があるだろうか? そうだとしても、簡単に生を諦めることができるものなのだろうか? 諦められるのは、この理想郷を知っているから? それほどまでにここはいいところなのだろうか? 自分が死ぬことは怖くないのだろうか?


 疑問が次々に湧いてくる。


けれど、梨沙はそれを詩織に問おうとはしなかった。詩織の懐に踏み込みたくなかったからだ。相手の懐に入り込むためには、それなりの覚悟をしなければいけない。重たい話を聞いてしまったら、自分までその話を背負わないといけない……ような気がするのだ。


 それに、梨沙は腹が立っていた。詩織の話を聞いてあげるほど、余裕がなかったのだ。


 だって、今、あたしは現実世界で死にかけてる!


 その事実が梨沙の体に重くのしかかる。


 最悪だ。本当に最悪だ。


 詩織は自分が死にたいだけなのに、無関係な梨沙まで巻き込んだのだ。それも、憧れてたからとかいうよくわからない理由で。意味がわからなかった。イライラした。


「あたしはそう思わない」


「えっ?」


 詩織が拍子外れの声を上げる。


「だから、あたしは死んでもいいなんて思わないって言ったの」


「……どうして? 生きることはこんなに辛いのに?」


「残念だけど、あたしはアンタみたいに現実世界を地獄だなんてこれっぽっちも思ってないし、生きること自体は辛いと思ってない。だから、あたしは死にたくない」


 詩織の手を振り解いて、立ち上がる。詩織を思いっきり、睨みつけた。


 惰性で行く学校に飽き飽きしていたのは事実だ。つまらないとも思っている。だけど、別に生きるのが嫌いってわけじゃない。つまらない、と言いながらやるソシャゲはそれなりに楽しいし、毎週木曜日に見ているドラマが今後どうなるのかも気になる。それに、もしかしたら、何かの才能がパッと開花して、人生大逆転するかもしれない。もしかしたら、宝くじが当たって、一生遊んで暮らせるかもしれない。人生は、もしかしたらで溢れている。学校は退屈だけれど、人生自体を諦めたわけじゃない。


「そうなんだ……。うん、そっか……。やっぱり、梨沙ちゃんは強い子だね」


 詩織は梨沙から視線を外し、意味ありげに頷くと、ピョンっと飛び跳ねるように立ち上がった。くるり、と梨沙の方を向く。


「梨沙ちゃんが生きたいって思ってることはわかった。……でも、わたしたちはもう飛び降りてしまって、生きるか死ぬかの報告をここで待たないといけない事実は変わらない。だったら、目一杯楽しもうよ! わたし、この世界の先輩として色々案内してあげる!」


 梨沙がこの世界で目覚めた時と同じように、詩織は満面の笑みで右手を差し出す。


 梨沙はピシャリと、その手を振り払った。腹立たしい。怒りが沸々と込み上げてくる。


 梨沙は詩織に背を向けると、知りもしない街並みを早歩きで歩き始めたのだった。

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