7.願望
『堀川梨沙様、貴方がが叶えたい夢はありますか?』
「夢……」
頭の中に自分の願望を浮かべてみる。
……何も思い浮かばない。
叶えたい夢なんてそんなふわふわとした現実味のないもの、とうの昔に置いてきた。強く願えば願うほど、叶わなかった時の辛さを梨沙は知っていた。だから、梨沙は夢を持たない。願望を持たない。失った時に、痛みを伴いたくないから。
「夢、なんてそんなくだらないもの持ってないよ」
梨沙はサリエルから目を逸らし、告げる。
『……そうですか。そうしましたら、些細なコトでも構いません。例えば、これが食べたいとか、これが欲しいとか。そういった類の願望はございますか?』
それならば、ある。梨沙は東京丸の内に店を構えている和菓子屋を思い起こした。
「……常花亭の生菓子。常花亭の生菓子を食べてみたい」
常花亭の和菓子は完全予約制で、発売日一ヶ月前の十時から予約を受け付けるのだが、一分足らずで予約がいっぱいになるという大人気商品だ。
和菓子の中に洋菓子の風味を取り入れた常花亭の和菓子は、 老若男女問わず、人々を魅了している。見る者を楽しませる工夫が至る所に施されている彩豊かな和菓子セットが、常花亭の大人気商品だ。三種類のグラデーション豊かな季節ごとに変わる水羊羹は、その季節の空模様を表しており、昼夕夜を表現している。夏になれば、青空に伸びる白く大きな入道雲や、夜空に浮かぶ夏の大三角形を、小さな水羊羹に閉じ込める。あまりにも美しい見た目故に、和菓子好きだけでなく、インスタ映えを狙う若者たちにも大人気というわけだ。梨沙も毎週土日に予約戦争に挑んでいるが、惨敗している。
……もし、叶うなら、常花亭の水羊羹を食べてみたい。
「えっ、なになに? 梨沙ちゃん、願い事を叶えるの?」
いつの間にティータイムが終えたのか、詩織がパタパタと軽い足取りで梨沙に駆け寄る。
「いや、別に……。サリエルが願いが叶うとかいうから、常花亭の和菓子が食べたいって言っただけ」
「常花亭……? あっ、わたしも知ってるよ! すごく綺麗な和菓子を売ってるお店でしょ? インスタ映えするとか言ってネットで話題だよね。……でも、意外。梨沙ちゃんもそういうお店、興味あるんだ」
「は? 違うから。あたしは和菓子が好きなだけ。アンタたちみたいな低俗な理由で、常花亭の和菓子が食べたいわけじゃないから」
胸のあたりがムカムカとする。流行りでしか好きな物を決めることができない奴と一緒にして欲しくない。SNSで流行る前から、常花亭の和菓子は人気商品で買えなかった。ずっと前から食べたいと願っていたのに、にわかと同じに見られるなんて、最悪だ。
梨沙は目を鋭く細め、詩織を思い切り睨みつける。
だけど、詩織は梨沙のそんな様子を全く意に介さず、「そうだよね。そうだと思った。梨沙ちゃんは自分をしっかり持ってる子だもんね。それにしても、常花亭の水羊羹かぁ……。わたしもたべてみたいなぁ……」なんて、自分の世界に入っていってしまった。
梨沙はため息をついて、サリエルに向き直る。
「そんなわけで、アタシは常花亭の和菓子が食べたい。これが願望」
『わかりました。では、堀川梨沙様、手のひらを出して、心の中で常花亭の和菓子を思い浮かべてください。そして、それが食べたいと、今、心の底から願ってください』
「想像するだけで、常花亭の和菓子が食べられるってこと?」
『はい、そうです。ここは夢の叶う楽園、人間たちの理想郷ですから』
半信半疑になりながら、瞼を閉じる。瞼を閉じて、常花亭の和菓子を想像する。
みずみずしい水羊羹。その中に煌めく美しい四季折々の空模様。
ああ、食べたい。常花亭の菓子を食べずに死ぬなんて、絶対に嫌だ。ネットに踊らされている奴らが有り難みもなく、極上の菓子を口にしているのが許せない。上辺だけの薄っぺらい奴らの口に入るよりも、最も本気で欲しいと願っている者に行き渡るべきだ。
食べたい。心の底から、食べたい。
ポンっ。突然、サリエルが登場した時と同じ音がした。それと同時に、手のひらに重みを感じる。触った感じ、四角い箱のようだ。梨沙は恐る恐る、瞼を持ち上げる。目を開けると、花模様が右端に彫刻されている細長い木の箱が手のひらの上にあった。
「……これ、常花亭の外箱」
『ふふ、驚いたでしょう? どうぞ、中をご確認ください』
ゆっくりと蓋を開け、中を確認する。そこには、梨沙が恋焦がれていた和菓子が、三つ整然と並んで入っていた。
「……常花亭の、水羊羹だ」
『そうです。堀川梨沙様の願いが具現化したのです。この現象こそが、この世界の特色です。心から望んだものが出てくる場所、望んだものになれる場所。今回の生の最後の楽園であり、理想郷なのです。例えば、あなたがアイドルになりたいと願ったら、アイドルになれます。こういう顔になりたいと願ったら、その顔になります。ここは望めばなんでも叶う夢の場所、なのです』
「本当に最高の場所だよね」
何故か詩織も常花亭の木箱を持ち、一口サイズの水羊羹を、摘んで食べていた。
「……なんでアンタも、それ食べてんの?」
「なんでってわたしも食べたいって願ったから?」
「……本当に、ここでは、欲しいと思ったモノが手に入る……んだね」
『先ほどから、そう言ってるじゃないですか。ささ、堀川梨沙様もどうぞ。恋焦がれていた常花亭の水羊羹、お食べになってみてください』
サリエルに促されるまま、付属していた二又の爪楊枝で羊羹に穴を開け、それを口まで持っていき、口の中に含ませる。口の中にふわりと甘さが広がった。ほどよい甘みが口にすっと馴染み、溶けていく。優しい柔らかさだ。
「美味しい……」
思わず、感嘆の声がこぼれる。
『堀川梨沙様の願いが叶ったこと、喜ばしく思います。さて、今体験してもらったように、この生と死の狭間の世界では、なんでも夢が叶います。しかし、それは生き返る、または、最後の審判を受けるまでの時間だけです。残念なことに、生き返った際はこちらで過ごしたひと時を忘れてしまいます。稀に、小南詩織様のように記憶を所持したまま、生き返ってしまう人もいますが、それはそれとして、放置していることにしています。人は愚か故に、死後の世界の真実を話しても信じないでしょうから』
最後の羊羹を食べ終えた詩織は、
「それに、こんな素敵な世界のこと、誰にも教えたくないもん。わたしだけで独り占めしたいから。多分、わたしみたいなタイプの人間は余計なことを口外しないから、神様が安心して記憶を所持したまま生き返らせてくれるんだと思うよ」
と、悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、付け加えた。
『……なぜ記憶を保持できる人間がいるのかは、私たちには知る由もありませんが、小南詩織様のような方も稀にいるということを知っておいてください。……この世界では、皆が平等です。最後の審判にかけられる者の大抵は、また新たな生を歩み出さねばならない。いわゆる、輪廻転生と呼ばれるものをすることになります。また、地獄行きが決まった者は新たな生を授けられたとき、『正しく』生きられるように、決められた期間、地獄にて、言葉通りの地獄の苦行をさせられます。地獄に行こうが、輪廻転生をしようが、魂が俗世に戻ろうが、ここで起こったことは全て無かったことになります。最後の楽園、理想郷であり、蜃気楼のような場所でもあるのです。皆の夢が叶い、皆がこの夢を最後には手放さなくてはならない、という意味でこの世界は皆平等なのです。……さて、長々とした説明になってしまいましたが、説明はこれで以上になります。何かご質問はありますか?』
サリエルは、数字の『1』のように目を開き、口元に弧を描きながら微笑んで、梨沙が反応するのを待っていた。
「夢が叶うってことはわかったし、ここが不思議な世界なことも、わかりました。だけど、あたしが昏睡状態とか、そういうの、イマイチピンとこないです」
『なるほど、確かにそうですね。でも、堀川梨沙様が理解ができなくとも、私はかまいません。理解してもしなくても、信じても信じなくても、時は進んでいきます。たとえこの世界が嘘や夢だったとしても、いつかは冷める夢。それならば、この世界を楽しんだ方がお得だと思いませんか?』
「サリエルの言う通りだよ。願いが叶うのは事実なんだし、この素晴らしい場所を謳歌した方が絶対楽しいと思うよ」
口をもごもごとさせながら、サリエルの話に割り込む。
「それは、確かに、そうかもしれないけど……」
梨沙は二人の言葉を前に口ごもった。
だけど、自分が生きるか死ぬかなのだ。きちんと今の状況を理解したいと思う。『生と死の狭間の世界』なんて、そんな非現実的な説明されても、素直に納得できるわけがない。
『質問は以上でよろしいでしょうか? それでは、束の間の時間をお楽しみください。何かございましたら、心の中で『サリエル』とお呼びください。駆けつけますので。それでは、また会う時まで、この素晴らしい世界をお楽しみくださいませ』
「えっ、ちょ、ちょっと!」
梨沙の沈黙を質問がないと捉えたのか、サリエルは、出てきた時と同じように、ポンっと音を立て、唐突に姿を消した。
「本当にサリエルって、不思議な生き物だよね。毎回突然現れて、突然消えるんだもの。……大天使とか言ってたし、人智を超えた存在なのかもしれないよね」
さりげなく梨沙の隣に立ち、呑気に感想を述べる詩織の手元を見ると、さっきまで持っていたはずの常花亭の木箱がなくなっている。手元に視線があるのに気が付いた詩織は、「木箱? あ、ポイ捨てとかしてないよ! この世界は、欲しいものが出てくるし、いらないって思ったものも消すことができるんだ」と、明るく甘い声で説明してくれた。
「……全然話についていけないんだけど。ここが変な場所で、あたしが死にかけてるのはわかったけど……全然、わかんない」
梨沙は手に持っている木箱をぎゅっと握る。
「うんうん。その気持ちわかるなぁ……。わたしも最初、夢だって思ったもん。なんでも願いが叶う夢なんて、なんて素敵なんだろうって。だけど、二回目にここにきた時、『あ、これ、夢じゃないんだ』って気が付いたんだ」
「……二回目? そういえば、サリエルが、記憶を所持したまま、アンタが生き返ったって言ってたけど、ここに何回か来たことあるの?」
「んー……そうだねぇ……」
詩織は頬をかきながら、気まずそうにぎこちなく笑む。だけど、ぎこちなさはすぐに消え、いつもの愛嬌だらけの笑顔に戻った。
「ねぇ! 立ち話もなんだし、せっかくだから座ってガールズトークでもしよ! そんなにわたしのことが気になるなら、梨沙ちゃんには特別に、なんでも話してあげる!」
「ちょ、ちょっと! 急に引っ張んないでよ!」
詩織は、梨沙の両手を自身の両手でぐいっと引っ張り、茶屋の長椅子の前に行くと、手を離し、すとんっと椅子に腰を下ろした。
「ほら、梨沙ちゃんも、座ろ?」
「ねぇ、勝手に座ってもいいの? ここ、お店でしょ?」
「いいのいいの。お店みたいな外観だけど、実際にはお店じゃないから。もちろん、梨沙ちゃんが望むなら、お店役割をする建物になるんだけどね。それに、その手に持ってる羊羹も早く食べないともったいないよ?」
詩織の顔と羊羹が入った木箱を見比べ、ため息を吐くと、梨沙は詩織の隣に腰掛けた。残っている水羊羹を口に含む。じんわりと甘さが広がり、口の中から幸せが体中に広がる。
美味しい。常花亭の水羊羹は食べたことないけれど、わかる。この味は、本物だ。
梨沙は残りの羊羹を味わって食べる。この意味のわからない世界のことを忘れてしまうほど、美味しい。
「ふふ、本当に食べたかったんだね、そのお菓子」
梨沙が食べ終わるのを黙ってまっていた詩織は、目を細め、包み込むような柔らかな瞳で、梨沙を見つめる。
「うん……、まぁ。それに美味しいし」
「うん、たしかに美味しかった。見た目だけじゃなくって、味も本当に美味しくて、和菓子があんまり好きじゃないわたしでもサラッと食べられちゃった。人気になるのも頷ける」
詩織の言葉に少しだけムッとする。和菓子が好きじゃないのに、なぜ食べたいと願うんだ。こういうミーハーな人たちがいるから、ネットの予約は戦争になるし、本当に欲しい人の手に渡らないんだ。
身体中に巡った幸福感が、スッと引いていく。この話を続けていたら、余計に腹が立にそうだったので、梨沙は話題を変えた。
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