10.少女



「おかぁさぁーん……! どこぉ…!」


 女の子は人々の視線も気にせず、泣きじゃくる。泣いて、泣いて、泣いて、そこらじゅうに泣き声をこだまさせる。それなのに、人々の視線は次第に女の子から外れていった。みんな、泣いている女の子なんていないかのように、自分の世界に入っていってしまう。


 どうして? 女の子がこんなに泣いているのにどうしてみんな無関心でいられるの?


「ねぇ、どうしてみんな女の子に声かけないの?って思ってるでしょ」


 詩織が梨沙の心を見透かしたように顔を覗き込んできた。


「ここは有限の理想郷。無限に続くわけじゃない。だから、みんな自分の世界を楽しむのに精一杯なの。それに、みんな、あの女の子がこのあとすぐにお母さんに会えることも知ってる。だから、みんな話しかけないの。といっても、会えるお母さんは本物じゃなくて、理想が作り出した幻覚なんだけどね」


「だとしても、みんな冷たすぎじゃない? だってあんなに小さい子が泣いてるんだよ? よく無視できるよね……」


「しょうがないよ。ここにいるほとんどの人が四十九日間しかここにいられないんだもん。自分の時間が一番大切なの。他人に構ってる暇なんてないんだよ」


 詩織が物悲しげに女の子を見つめて、答える。しかし、その視線はすぐに明るいものとなり、梨沙へと移された。


「にしても、梨沙ちゃんが子供に優しいなんて、知らなかった。いつも学校では人に興味ない感じでしょう? だから、ちょっとびっくり」


「は? なに、嫌味?」


 梨沙が睨みを効かせると、詩織は小さく後退りをして、両手をブンブンと振った。


「あっ、違う違う! 本当にびっくりしただけ! だって、学校だと話しかけるなオーラがすごいっていうか、他人に興味ないって感じだから。意外だなって。ほんと、嫌味とかそういうつもりは……」


 まだ話を続けている詩織を背に、梨沙は女の子に歩み寄る。


 詩織と話していると、腹の底からムカムカが迫り上がってくる。一つ一つの可愛らしい行動も、声も、話している内容も、なにもかも頭にくる。イライラが爆発して、詩織にぶつけてしまいそうだ。だから、距離を取る。他のことをして気を紛らわせたい。


「ねぇ、どうしたの? 大丈夫?」


 泣いている女の子に手を差し伸べた。梨沙の手にはいつの間にかハンカチがあった。


 あぁ、そうか。ハンカチでこの子の涙を拭いてあげたいって思ったから出てきたのか。


 納得してしまう。梨沙の頭は徐々にこの世界に慣れてきている。


「梨沙ちゃん、無視しないでよ……! ……っと、こんにちは」


 少し屈んでいる梨沙の背中をポンっと叩いて、詩織は女の子に挨拶した。横目から見た詩織の顔には満面の笑みが貼り付いていた。


 女の子は鼻をすすりながら、梨沙と詩織を交互に見つめる。


「あのね……、お母さんが、いないの」


 小さく、今にも消えそうな声だった。女の子は目線を落とし、自分の足先を見つめる。不安なのだ。突然、理想郷だなんだと言われて、知り合いが誰一人いない世界に放り投げられる。不安にならないわけがない。それに、この場所にいるということは、危篤か、または、命を落としているということだ。こんな小さな少女がそんな悲惨な目に遭っているなんて考えると、居た堪れない。梨沙はスカートの裾をギュッと握り、しゃがんで女の子に視線を合わせる。手に持っていたハンカチで女の子の涙を拭った。女の子がゆっくりと顔をあげる。丸襟のついたブラウンのワンピースがよく似合っていた。


「お母さんとはぐれちゃったんだ?えっと……、キミはいつからお母さんと……」


「ミウ」


「え?」


 声を遮られた。女の子は大きい黒目を涙できらめかせ、梨沙を凝視する。


「ミウ、マエダミウっていうの。キミじゃない……」


「あっ、そっか。ミウちゃん、だね」


「うん……」


 ミウがまた下を向いてしまった。震える小さな手を握りしめて、肩を揺らしている。今にも泣き出してしまいそうだ。そこに口を挟んできたのは詩織だった。詩織も屈んでミウに語りかける。


「ねぇ、ミウちゃん。お母さんね、絶対見つかるよ。『おかぁさーん、会いたいよぉ!』って心の奥からお願いしてみて? そうしたらね、絶対お母さん現れるから」


「ちょ、ちょっと! そんな無責任なこと言っちゃダメでしょ! もし、お母さんが来なかったらどうするの!」


 慌てて詩織に耳打ちする。詩織はチラリとこちらを見ると、小さく息を吐いた。


「そうだね。……お母さんは来ないってわたしだって思う。でも、仕方ないことなの。……ほら、彼女の首元見て。白い糸が巻き付いてるでしょ?」


 梨沙にしか聞こえないほどの小さな声で、詩織が囁く。少女の首元には細いミシン糸のような白い糸が四、五重に巻き付けられていた。


「二回目にこの世界に来た時に、サリエルに教えてもらったんだけど、この糸はね、死んだ人の首に現れるんだって。つまり、この子は死んじゃってるんだよ……」


 詩織は憐れむような眼差しでミウを見る。


 ミウちゃんはもう死んでる。


 梨沙は息を飲んだ。その可能性が高いことはわかっていた。わかっていたけれど、真実を知ることはあまりに重い。


「だから、ミウちゃんのお母さんが死んでいない限り、彼女はここで本物のお母さんと会うことはできない。会えるのは幻のお母さんだけ……。でも、幻のお母さんには会えるの。だったら、お母さんに会えるって言っても問題ないはずでしょう?」


 そうなんだろうか。


 梨沙は胸の内で自分自身に問いかける。


 それは悲しい嘘にならないだろうか。お母さんに会えたとしても、そのお母さんは偽物で本物ではない。……あたしだったら、本物だと思っていたものが偽物だってわかったら、嫌だ。だけど、だからといってこんなに小さい女の子に「貴方は死んでしまっていて、お母さんに会うことはできないのよ」なんて、残酷な真実を告げる勇気もない。


 梨沙は唇を噛み、目線を地面に向ける。


「お姉ちゃんたち、何話してるの……?」


 不安げに声を震わせて、梨沙たちを見つめる。梨沙が口を開く前に、詩織が「あ、ごめんね。なんでもないの。きっと、すぐお母さん現れるからね。大丈夫だよ」と微笑んだ。


 それがただの気休めにしかならないことを知りながら、梨沙はなにも言うことができなかった。


「……ねぇ、もしかして、ミウが死んじゃってるって話?」


 唐突に沈んだ声を出すミウに、梨沙も詩織も息が詰まった。


「……知ってたの?」


 梨沙がそう尋ねると、ミウは頷いた。寂しげな顔だ。


「サリエルがここに来た時に教えてくれたの。ミウは死んでて、それで、四十九日間、ここにいなきゃいけないんだって。元の世界には戻れないんだよって……」


 ミウの黒目がスッと下に動いて、切なげに目を伏せた。声も先ほどよりも震えている。


「お母さんに会いたいって、サリエルに言ったらね、強く願うとと出てくるんだよって、教えてくれたの。だから、ミウね、お母さんに会えるように一生懸命、願ったの。そしたら、お母さん、出てきたんだけど……。そのお母さんはニセモノで、ニセモノのお母さんで、違くて、だから……」


 耳を塞ぐように頭を抱え、さらに深くしゃがみ込む。呼吸を荒げながら、支離滅裂に言葉を発し続けた。

「お母さんはもっと優しいの。あんな人じゃないの。全然違うの。全部ニセモノなの。お母さんは優しいの。もっと優しいの。あんな風に怒鳴ったり、叫んだり、叱ったりしない。お母さんはいつだって笑顔で、優しくて、なのにここにはニセモノしかいなくて。ああ、ニセモノ。優しいのに。お母さんはもっと優しいのに。本当に優しかったのに」


「ミウちゃん、ミウちゃん。落ち着いて」


 梨沙の体は勝手に動いていた。小さく縮こまるミウをギュッと抱きしめ、背中をさする。その背は細かく震えていた。ミウの絶望と恐怖が手のひらから伝わってくる。


「あ……っ、あ……」


 荒い息が胸元で吐かれる。少女の背中が大きく上下した。


「ごめ、ん、なさい……。わたし、わたし……」


「ううん、大丈夫だよ。こんなところにいきなり連れてこられて、不安になるよね。寂しいよね。大丈夫。お姉ちゃんたちがついてるから」


 ミウの不安は痛いほどよくわかる。知らない場所、ニセモノのお母さんと、淡々と伝えられた自分の死。こんなに小さな子が抱え込むには、あまりに苦しすぎるじゃないか。あまりにも理不尽じゃないか。


 梨沙は胸の内に湧く同情と憤りをぶつけるように、強い力でギュッとミウを抱きしめた。


 遠くの方で人々の笑い声が聞こえる。誰もが無関心にこの場を過ぎていく。理想郷なのに、無関心が蔓延っている世界だ。居心地が悪い。


「お姉ちゃん、ありがとう。……ミウ、もう大丈夫」


 いつのまにか呼吸が整っていたミウは、ゆっくりと梨沙の体を押し込んだ。


「お姉ちゃん、すごく、すごく、優しいね。でも、ミウ大丈夫。きっと、本物のお母さん、ここにいるから。ミウ、もう少し探してみるね」


 ふにゃりと笑うミウの顔は青白く、その声は今にも消え入りそうなほど小さい。


「え、でも」


 梨沙は躊躇った。


 ミウの母は、おそらくここにはいない。探しても見つかることはないだろう。それなのに、亡霊のようにお母さんを探し歩くことは、ミウにとって幸せなことなのだろうか。


「本物のお母さんが見つかるまで、諦めたくないの」


 ミウがゆっくりと立ち上がる。ワンピースから覗く小さな手足はとても細く、弱々しい。梨沙はミウに合わせて立ち上がった。


「お姉ちゃんも探すの手伝ってあげる」


 口から出たのは、そんな言葉だった。どうしてそんなことを言ったのかわからない。梨沙は正義感の強い方ではない。お節介を焼くタイプでもない。でも、目の前にいる少女が不憫で可哀想でならなかったのだ。


「えっ」


 詩織とミウが同時に声を上げた。


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