4.さよなら現世
梨沙はどうにかこうにか反対側へと着地するも、フェンスにしがみつき続けた。
梨沙と屋上との境界を隔たるものはなにもない。眼前には空と、何にも遮られていない見慣れた校庭があった。四階だとはいえ、いつも教室の窓から見ている景色よりも、はるかに高い。足がガクガクと震える。
「このフェンス、越えるのなかなか大変だよね。わたしも最初、苦戦したもん」
詩織はそう言いながら、屋上の縁にゆっくりと腰をかけた。足をぶらぶらと揺らしている。
「ちょ、ちょっと、ほんとさっきからアンタ何やってんの? 落ちたら危ないってば」
「大丈夫だよ。梨沙ちゃんは心配性だね。ほら、いいから梨沙ちゃんもここに座って?」
詩織は梨沙を促すように、ぽんぽんと隣の地面を叩いた。
「絶対嫌」
「えー、そんなこと言ったら寂しくて、わたし落ちちゃうかも」
「メンヘラ彼女かよ」
「あはは。……でもさ、ここ本当に気持ちいいんだよ。他では味わえない解放感があるんだ。ここまで勇気を出して来たんだし、ちょっとだけでも、座ってみて欲しいな」
にっこりと屈託のない笑顔を向けられ、梨沙は生唾を飲み込む。詩織の髪が風になびかされ、ほんのり甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
怖い。だけど、少しだけ、本当に少しだけ、その解放感とやらに魅力を感じてしまった。
視界いっぱいに広がる空があった。少しだけ霞んでいるけれど、美しい空だ。目の前に広がる空は何者にも縛られていない自由そのもの。まさに、解放感だ。
詩織の横に座ったら、自由を感じられるだろうか。
わからない。わからないけれど、体験してみたい。
恐怖心よりも好奇心が勝った梨沙は、フェンスから手を離し、しゃがみながら、恐る恐る屋上の縁に腰をかける。そして、足を空に投げ出した。やっぱり怖い。少しでも強い風が吹いたら落ちてしまいそうだ。
恐怖で心が縮こまり、解放感なんて微塵も感じられない。
「ふふ、顔がこわばってる。怖い?」
「こんな高いところに命綱もなしで座るとか、怖いに決まってるでしょ!」
自分で座ることを決めたのに、半ば八つ当たり気味に怒鳴る。
「んー、それもそっか。……でも、ここにいると、みんなちっぽけに見えない? まるで、わたしが世界を掌握したみたいで、いい気分になるの」
こわごわと、目線を下に移す。校庭でさまざまな生徒が一生懸命、部活動に勤しんでいた。梨沙はそこに存在していない。急に疎外感を感じる。
「……全然、わかんない」
「そっか、わかんないか」
「……それで、見せたいものって何?」
詩織の右手が、床に置いていた梨沙の左手に、そっと重なる。そして、もう片方の手で、詩織自身の唇の前に人差し指を当てると、にっこりと微笑んだ。オレンジ色の陽の光が、詩織を引き立てる。あざとくて、可愛らしい。男の子だったら瞬殺悩殺イチコロで、恋に落ちてしまうだろう。
「んー、まだ内緒。ちょっとだけ、おしゃべりしようよ」
「アンタとしゃべることなんて、何もないんだけど」
「つれないなぁ……。ま、でも、本当は嫌だったのに、こうして隣に座ってくれてるんだもんね。それだけでよしとしようかな」
「それは、アンタが脅したからでしょ」
「脅しじゃなかったんだけどな……」
「嘘つき」
詩織は一瞬だけ驚いた顔をしたかと思うと、こくりと頷いた。
「……そう、だね。わたしは嘘つきなんだ」
「認めるんだ」
「うん。……だからね、わたしは梨沙ちゃんが羨ましいの」
思いもよらぬ言葉に、梨沙は一瞬、言葉に詰まった。ほんの一瞬だけれど。
「どういうこと? 『だから』に何も繋がってないけど」
「……だって、梨沙ちゃんって、嘘つかないじゃない」
「え?」
「自分に嘘ついてまで人と一緒にいないでしょ? 自分に嘘つくくらいなら、一人でいることを選ぶでしょ?」
「……なにそれ。いつもひとりぼっちでいるあたしへの当てつけ?」
「ううん、そうじゃなくて。……わたしは、無理だから。一人になりたいと思っても、その選択肢は選べないから……」
前を向いている詩織の髪がサラサラと揺れる。悔しいが、美しい。様になっている。詩織は淡々と話し続けた。
「一人は、寂しいでしょ? 孤独でしょ? 心が冷えちゃうでしょ? ……ここ最近思うの。人生は選択の連続だけど、自分が自分らしくいられるための選択をするのって、すごく難しくて、すごく勇気がいることなんだって。自分らしくいることよりも、周りに、時間に、身を任せて流されてる方が楽だから」
詩織の頬に赤みが差す。夕陽が反射して、陽の光を頬に映しているのだ。
「だから、周りに流されることなく、一人でいることを選べる梨沙ちゃんがすごいって思うし、羨ましいって思うの。わたしは、何があっても一人でいることは選べない。一人は、怖いから。一人だと、自分の存在意義がないみたいに感じるから……」
「ふーん、そう」
梨沙は大きく息を吐きだす。
どうやら詩織はかなりの詩人らしい。この女が詩人であろうがなかろうが、別にどうでもいい。が、梨沙自身が詩の中に組み込まれるとなったら話は別だ。
自身のことをよく知りもしない奴に勝手に決めつけられて、勝手にポエムの材料にされるのは、非常に不愉快だ。見た目だけで人を判断して、勝手に理想を押し付ける。本来の梨沙を見ていない。一人ぼっちで可哀想な女の子を憐れんで、羨ましがっている自分に酔っているだけ。そんな目で見られているなんて、不愉快以外の何者でもない。
詩織が横目で梨沙を見遣った。ぱちりと目が合う。梨沙は視線を逸らし、空を見上げる。
「わたしのこと、興味ない?」
「全然ない」
「そっか。うん、そうだよね。興味ないよね。梨沙ちゃんはわたしと違って、強い子だし」
「なにそれ。意味わかんないんだけど」
「強くて、かっこいい子だってこと」
「ほんと、意味がわからない」
気配で詩織が微笑んだのがわかる。詩織は隣で足をぶらぶらと揺らしていた。
「なんか、わたしばっかり喋ってて嫌だなぁ……。ねぇ、梨沙ちゃん、わたしと聞きたいこと、何かある?」
「いや、特にないけど」
「……そうだよね。……梨沙ちゃんはわたしに興味がないんだもんね……。わかってる。でも、お願い。一つだけでいいの。なにか質問して欲しい。そしたら、梨沙ちゃんに見せたいものを見せるから」
詩織が横を向き、じっと梨沙を見つめる。
この女はなんて自己中心的で、自分勝手なんだろう。きっと、この可愛さからいろんなわがままを許されてきたんだろう。だから、こうも厚顔無恥でいられる。だけど、そんな詩織に付き合ってしまっている自分もいた。乗りかかった船だ。こうなったら、最後まで付き合おう。梨沙は覚悟を決めると、重たい口を開く。
「はいはい、わかりました。質問しますよ。来た時からずっと思ってたんだけどさ、この屋上っていつも施錠されてるよね? どうやって、屋上の鍵を開けたの?」
「……質問はやっぱりわたし自身のことじゃないんだね。……でも、質問してくれたんだもん。多くを求めたら贅沢だ。よし、答えるね。実は、職員室から鍵、拝借しちゃったんだ。他の教室の鍵が置いてあるところと同じところに、屋上の鍵が置いてあるから。先生に質問しにいくフリして、こっそりと盗ったの」
詩織はそう言いながら、スカートのポケットから鍵を取り出し、悪戯っぽく微笑む。
クラスで見る小南詩織らしくない行動に、梨沙は数度目を瞬かせた。
「アンタ、意外と悪知恵の働く女なんだね」
「うん。クラスの時のわたしは偽物だから」
不意に強い風が真っ向から吹きつける。六月らしい、じめっとして生ぬるい風だ。
「さて、質問ありがとう。それじゃあ、そろそろ行こうか」
「行くって、どこに?」
「夢が何でも叶う理想郷」
「理想郷……?」
「そう。わたしたちの幸せの楽園」
やっぱり、小南詩織はポエマーだ。彼女の言ってることは、半分以上理解できない。
「よし、梨沙ちゃん準備はいい? 行くよ!」
「え、ちょ、どういう……。キャッ!」
ぐらり。
世界が突然、傾く。いや、違う。体が宙に解き放たれたのだ。
目線を詩織にやると、意地悪な笑みを浮かべていた。彼女は、梨沙の手を引っ張り、思いっきり、屋上の側面の壁を蹴っ飛ばす。今、梨沙を支えるものは、何もない。
ハメられた。心中だ。こいつは一人で死ぬのが嫌で、あたしを巻き込んだんだ。
心がそう叫ぶ。がっしりと詩織に手首を掴まれ、離せない。縋る場所もどこにもない。
体が完全に宙に浮く。落ちる。ゆっくりと落ちていく。
まるで映画のスローモーションなワンシーンを見ているみたいだ。
必死に屋上の縁に手を伸ばすも、届かない。
あぁ、もうおしまいだ。
享年十六。梨沙の人生は今ここで、幕が閉じようとしていた。
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