3.屋上にて


 

 ゆっくりとした足取りで、階段を登っていく。学校特有の一段の高さが低い階段が、今日はとても高く感じられる。


 冷やかしだったら、誰かが勘違いして入れただけだったら、いじめだったら、カツアゲだったら……。階段を一段一段上がるごとに、緊張と不安で心拍数が上がっていく。


 引き返そうか。


 ここまで来たんだ。行って、手紙の主の顔を拝んでやろうじゃないか。


 二つの相反する感情がせめぎ合う。


 もし、冷やかしだったらすぐに逃げよう。呼び出し主とは一定の物理的距離を保とう。


 そう固く心に誓い、階段を上る。一歩、また一歩と昇っているうちに、屋上の入り口まで着いてしまった。重苦しい一枚の鉄扉が目の前にある。以前はドアノブに手をかけても、ピクリともしなかった重厚な鉄の扉だ。梨沙は深呼吸をして、ドアノブに手をかける。


 カチャリ。ドアノブが動いた。軽く力を込める。だけど、開かない。梨沙は体重を鉄扉に乗せた。すると、グギギギギと鈍い音を立てながら、重い扉が少しずつ開いていく。


 鋭く細い風が隙間から入り込んできた。梨沙は思い切り踏み込み、全体重を乗せる。


 不意に、解放感に包まれる。爽やかな風が梨沙を包みこんだ。


 難攻不落の扉が、開いた。

 

 扉から手を離して、前に出る。先ほどまで光の入らない廊下前にいたからか、太陽の光が眩しい。前がよく見えない。目をゴシゴシと擦って、屋上を見渡す。だだっ広い空間に、建築物は何もない。あるのは、屋上の縁にある落下防止のための銀色のフェンスだけ。


 そこに一つの人影があった。おそらく、梨沙を呼び出した人物だろう。


 その人影は、フェンスに手を添えて、校庭を眺めていた。


 少女だ。長い髪がサラサラと風で揺れている。


 彼女はこちらに気づいたようで、なびく髪を耳にかけながら、ゆっくりと振り返った……気がした。逆光でよく見えないのだ。真っ黒なシルエットだけで、彼女の所作の優美さがわかる。彼女は近づくでもなく、首元で自分の髪を押さえながら、梨沙を見つめている。


 こっちにこいってこと?


 梨沙は訝しみながら、そろりと人影に近づく。近づくごとに、じわりじわりと少女の顔や体に輪郭が帯びる。


「梨沙ちゃん、来てくれたんだ」


 彼女まであと五メートルといったところで、声をかけられた。ねっとりとまとわりつくような甘ったるい声に、ゾワリと足先から鳥肌が立つ。


「……アンタは、誰? 下駄箱に手紙を入れたのはアンタ?」


 梨沙は立ち止まった。立ち止まって、彼女を睨む。


「うん。そう。ねぇ、そんなところに立ち止まってないで、もうちょっとこっちに来てよ」


 柔らかく甘い彼女の声を梨沙は知っている。今日も彼女の声をどこかで聞いた気がする。必死に記憶を辿り、目を細めながら、恐る恐る近づく。


 徐々にしなやかな輪郭と、大きい瞳、筋の通った鼻が現れる。パーツパーツのバランスがいい。どれも乱れることなく、彼女の美しさを引き立たせている。そう、梨沙はこの人を知っている。太陽光でよく映える彼女……。


「……小南詩織?」


 声に出してしまった。


「うん、正解」


 詩織は愛嬌のある顔で微笑む。近づいたおかげで、彼女の表情がよくわかった。


 クラスで人気の少女、そして、梨沙が好ましく思っていない少女が目の前にいる。しかも、そいつが匿名で呼び出してきた。想像もしていなかったことだ。この状況を理解できず、言葉を発することができなかった。先に口を開いたのは、詩織だった。


「ごめんね、突然呼び出して」


「ほんとに意味わかんない。どういうこと? なんで屋上に呼び出したわけ?」


「教室ってガヤガヤしてうるさいから。わたし、梨沙ちゃんとゆっくり二人で話したかったの。だから呼び出させてもらいました」


 屋上に呼び出した理由になってない。けれど、とりあえず話を聞くことにした。


「……よくわかんないけど、なんの用? 早く帰りたいから、さっさと用件言って」


「あぁ、うん。そうだよね」


 詩織はふっと息を吐き出してそう言うと、足を揃えて梨沙を真っ直ぐに見つめる。


「梨沙ちゃん。梨沙ちゃんは学校生活、楽しいって思ってる?」


「は? 何、急に……」


「わたしは……楽しい、なんてまったくも思わないの。ねぇ、梨沙ちゃんもそうでしょ?」


 詩織が無垢な顔を横に傾ける。世の中の悪意に晒されたこともないような純真な顔に、目が釘付けになる。


今、詩織は一体何を考えているのだろう。表情や声音からは見て取ることができなかった。それに、クラスにいる時と雰囲気が全く違う。まるっきり別人のようだ。


「別にあたしは」


「楽しい? 楽しくない? どっち?」


 詩織が柔らかい声音で尋ねる。責めるでもなく、怒るでもなく、ただ疑問に思ったことを親に聞く子供のように尋ねている。


「そりゃ……。楽しくはない、けど」


「やっぱり!」


 パンッと詩織が両手を合わせた。満面の笑みだ。


「梨沙ちゃんも絶対そう思ってるって思ったの! この世界のこと好きじゃないよね? この世界って地獄みたいだよね?」


 詩織の言葉の勢いに圧倒されてしまう。数歩、後退る。コイツは一体、なんなんだ?


「いや、そこまでは……思ってないけど」


「嘘。だって、梨沙ちゃんっていつもつまらなさそうな顔してるもん。この世の全てを悟ったような、そんな退屈な顔」


「なにそれ。貶してんの?」


「あ、悪口じゃないんだよ。褒めてるの。人の目も憚らず、ありのままの自分でいる梨沙ちゃんがすごいなって」


「褒めてる? どこが? 明らかに皮肉じゃん。人の目も憚れない女で悪うございますね」


「あぁ、本当に違うの! 貶してるとか、皮肉ってるとかそんなつもりは本当になくて……。わたしは一人でいる梨沙ちゃんの姿を見るのがすごく好きだから……」


「……は?」


「わたしね、梨沙ちゃんのこと、すごく、すっごく、憧れてるんだ。梨沙ちゃんはわたしの理想なの。理想の女の子なの」


 梨沙と詩織を隔たるように温かく湿った南風が吹く。


「さっきから、ほんと意味わからないんだけど。あたしがアンタの理想の女の子? 冗談やめてよ。アンタはクラスの人気者。あたしはクラスの日陰者。……ほら、どっからどう見てもアンタの方が勝ち組、理想の姿じゃん」


 梨沙は鼻で笑う。


「梨沙ちゃん、大丈夫だよ。そんなに物分かりの悪いふりしなくても」


「アンタ、さっきからなに言ってんの……?」


「だって、梨沙ちゃんはわかってるでしょう? 目に見えているモノだけが真実じゃないってこと。みんなから好かれてる人が、満たされていないこともある。富や名誉を持っている人が、心に傷を抱え死を選ぶこともある。この世界は見えてるものだけが全てじゃない。梨沙ちゃんにはそれがわかってるはずだよ」


 なんなんだコイツは。


 梨沙は薄気味悪さを覚えた。目の前の少女は、梨沙のことをよく知っているかのような口調で断定的に話す。今まで一度も話したこともないのに。彼女の口ぶりからは皮肉も嫌味も見下しといったようなマイナスな感情は感じられない。本気の本気で尊敬の念を梨沙に送っている。


 こんな美少女が、なぜあたしなんかに……?


 その意味がわからなくて、嬉しいという感情よりも先に、得体の知れない恐怖を感じる。早くこの場を立ち去らねば。そんな気さえするのだ。


「なに? そんなことを伝えるためにあたしを呼び出したの? こんな屋上にわざわざ?」


「あっ、ごめんね。本題からズレちゃってたね。……あのね、梨沙ちゃんをここに呼んだのはね、梨沙ちゃんに見せてあげたいモノがあるからなの」


「見せたいもの?」


「うん。……ねぇ、こっちにきて?」


 詩織が胸元で小さく手招きをする。その仕草はほんのりと艶やかだった。


「アンタの見せたいものってやらはそっちにあるわけ?」


「うーんと……。どうだろう? そうでもあって、そうでもないかも?」


「は? どういうこと?」


「ごめん。説明がちょっと難しいの……」


「じゃあ、なにを見せたいのか教えてよ。そしたら、そっちに行ってあげるから」


 詩織の表情からスッと笑みが消える。梨沙から視線を外し、フェンスに手をかけた。


「ごめん。それもうまく言えない」


「なんで?」


「きっと、信じてもらえないから」


「……はぁ。うまく説明できない。信じてもらえない。さっきからなんなの? あたしと会話する気、ある?」


 梨沙は腕を組んだ。そして、指でトントントンとリズムをとる。この女は一体なにが言いたいんだ。要領得ない話にイライラが募る。彼女はなにがしたいのか検討がつかない。


「あぁ、ごめんなさい。そんなにイラつかせるつもりはなかったの。ただ本当に説明が難しくて……。だから、こっちにきて実物を見てもらったほうが早いかなって……」


「そっちに行ったら、何かわかるわけ」


「すぐにわかるってわけじゃないけど……うん」


 先ほどまでと打って変わり、詩織は断定的な物言いを避けているように思えた。このままこうしていても埒があかない。詩織の見せたいものとやらを見て、さっさとこの場から離れよう。ここで帰って、後々、「梨沙ちゃんに冷たくされちゃったの」なんて、コイツに泣かれてしまったら困るからだ。そんなことされた日には、ただでさえ終わっている梨沙のスクールライフが完全に終わる。


「わかった。アンタの見せたいものを見たら、帰るからね。それでいい?」


 詩織がこくりと頷く。梨沙は軽く肩をすくめると、渋々、詩織の近くへ寄った。


 歩くごとに、空がグッと近くなる。いつも施錠されているという学校側の慢心か、屋上を囲む柵は肩くらいまでの高さしかない。そのため、視界は開け、空が近づいてくるのだ。


 美しいと思っていたのも束の間、詩織が突然、低いフェンスに足をかけ始めた。


「ちょ、ちょっと! 何してるの!」


 詩織は梨沙の声も無視して、「ヨイショ」と大きく足を開き、フェンスを跨ぐ。梨沙は咄嗟に詩織のブラウスを掴んだ。詩織がバランスを崩し、ゆらりと揺れる。


「うわわっ!」


 詩織はフェンスにしがみつき、ちょうど真ん中で上手にバランスをとった。


「……っと。ふぅ。危なかった。……もう! 梨沙ちゃん危ないでしょ? 大丈夫だから、見てて?」


 梨沙は詩織に言われた通り、詩織から一歩離れる。


「ああ、そう。あたしは助けたからね。落ちてたとしても、自業自得だから」


 思いっきり毒づいてやる。人の親切心を無碍にしやがって、という思いがあったのかもしれない。詩織はそんな梨沙の言葉を物ともせず、慣れてる手つきで、軽々とフェンスを超えてしまった。柵の反対側の幅の狭い床に足をつけると、乱れたブラウスを整えてから、詩織はくるりと優雅に一回転する。


「ねぇ、スカートがふわって広がってなんだか綺麗だと思わない?」


「ちょっと、なにやってんの! 一歩間違えたら、校庭に真っ逆様なのわかってる?」


「梨沙ちゃん、わたしの心配してくれるんだ。嬉しい」


 詩織は口元に手をあて、悪戯っぽく笑う。


「でも、大丈夫だよ。慣れてるから、落ちないの。それに、落ちたとしても構わないんだ。だって、この世界は本当に取るに足らないから」


 彼女の姿を見ていると、目を話した隙に飛び降りてしまいそうで不安になる。クラスにいる時の生命力に溢れた小南詩織とは違う。触れたら壊れてしまいそうなほど、脆く儚い。


「なにバカなこと言ってんの。……気が済んだら、早くこっちに戻ってきて」


「そうしたいのは山々なんだけど……。実はね、わたしの見せたいものって、このフェンスを超えないと見ることができないの。……だから、梨沙ちゃんも、こっち側に来てほしいなぁ、なんて」


「は? なに言ってんの。嫌だよ。怖いし。無理。絶対行かない。それなら、アンタの見せたいものなんて別に見なくてもいいわ」


「それ、本気?」


「当たり前でしょ。自分の命が一番大事なんだから」


「でもね、わたし、梨沙ちゃんが来てくれないと、ここから落ちちゃうかも」


「……は?」


「だから、ここにきてくれないと、落ちちゃうかもなって」


「なにそれ、脅し?」


「んー……どうだろう。脅し、ではない、かな。だって、本気だから。梨沙ちゃんが来なかったら、わたしは落ちる。その覚悟はできてる」


 ふっ、とろうそくの火が突然消えるように、詩織の顔から笑みが消えた。彼女の顔から生気が消え、彼女の瞳に闇が翳る。


 お前が来なきゃ、ここから飛び降りるぞ。


 これは十分な脅しだ。これが脅しでなければ、なにが脅しになるのだろうか。


「本気で言ってる?」


「うん」


 飛び降りるわけがない、と思う。冷静に考えれば、詩織のはったりだってわかる。けれど、狼狽えてしまう。この話をしている時の詩織の瞳から、どこか暗く深い狂気が垣間見えた気がして、足を動かすことができない。


 直感が、彼女は本当に飛び降りる、と言っている。


「梨沙ちゃん、こっちに来て?」


 フェンスの向こう側で、詩織が幼げな顔を緩める。先程までの翳りはもうなかった。


「……わかった。そっちに行けばいいんでしょ」


 梨沙は大きく深呼吸をして、フェンスに手足をかけた。


 仮に詩織が本気だとして、目の前で飛び降りられてしまったら後味が悪い。その事実に耐えられる自信が梨沙にはなかった。梨沙が行くことで止められるなら、それでいい。


 梨沙の動きに合わせて、フェンスがカタカタと音を立てて揺れる。フェンスを越えるだけでも一苦労だ。風に煽られ、紙屑が飛んでいく。詩織からの手紙だ。ぶるりと背筋が凍る。恐怖からくる手足の震えは、一向に止まらなかった。

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