2.呼び出し
学校に着いてからは、いつものように時が過ぎていった。そこら中から聞こえる同級生の中身のない雑談から始まり、特に大事なお知らせのない朝のホームルーム。いつ役に立つのかもわからない退屈な授業と、そして、梨沙以外の全員が楽しそうに笑って過ごしているお昼休み。広樹に話しかけられても全て無視した。本当に何もかも変わらない、つまらない日常。梨沙はヘッドホンを付け、頬をつきながら、トントンっと指で机を数度叩く。教室扉すぐ横の一番後ろの席。嫌でも人の出入りが目に入ってきて煩わしい。
「それでね、わたしったらそのとき……」
ふいに、ヘッドホン越しに聞こえてくる甘ったるい声が耳についた。声の持ち主の方に視線を向ける。教室の真ん中のあたり、円を描くように七人くらいの少女が集まっている。その円の中心に、一際目立つ少女がいた。声の主、小南詩織だ。
人形のように整った幼さの残る顔立ちの彼女は、クラスの人気者だった。彼女はおどけたように笑い、可愛らしく首を傾げ、顔すぐ近くで手振りしている。詩織が動くたびに色素の薄い柔らかそうなブロンドの長髪がふわりと揺れ、見てるものの心を誑かす。全身で愛嬌を振りまいているような、愛されるためだけに生まれてきたような、そんな少女。
彼女が優れているのは顔だけではない。頭脳明晰、スポーツ万能。そして、どこぞの会社の社長令嬢。神は一人の人間に、何物も与えるものなのだと詩織を見て実感した。
彼女は、いつだって人と話題の中心にいる。
梨沙はそんな詩織が大嫌いだった。強者であるくせに、謙虚なフリをしながら愛想を振り撒いて、思ってもないことをペラペラと喋り続ける彼女にイライラしたのだ。
『人の本当の性質は悪である』と、中国だかどこかの偉い人が言ったらしい。たしか、性悪説、という思想だったと思う。この思想を世界史の授業で知った時、これはまさに世の真理だと思った。この世界には根っからの善人などいない。優しい言葉は、全て嘘。いるのは善であるフリをする偽善者だけだ。だから、詩織の笑顔も、言葉も、行動も、全て嘘なのだと思う。聖人君子のようになんでもできるような顔をして、腹に一物を抱えているに違いない。人に優しくできている自分に酔い、周りにチヤホヤされることに快感を覚えているだけのつまらない女に過ぎないのだ。
梨沙はそう決めつけて、遠くから詩織を鋭い目で睨みつける。
群れて何になるんだ。梨沙は詩織からスッと目線を外す。
友達がいることがそんなに大切なのだろうか。人とおしゃべりするのがそんなにえらいことなんだろうか。人は分かりあうことなど不可能なのに。いつかは嫌われてしまうのに。
胸の奥がズキズキと痛む。梨沙は力強くヘッドホンを押さえつけて、机に頬杖をついた。
部活動をする野太い声と吹奏楽部の楽器の音色が廊下中に響き渡り、否応なしに耳に入ってくる。梨沙は生徒たちの声に覆われながら、廊下を歩いていた。
夏も近づくこの時期はクーラーも効いておらず、どことなく蒸し暑い。部活動に励む声も、楽器の音色も、生徒の楽しげな声も、全てが暑苦しく感じられる。そのどれもが梨沙にとって関係のないモノで、興味のないモノだからそう感じるだけなのかもしれないけど。
梨沙は終了を告げるチャイムとともに、下駄箱へ直行する。
学校は嫌いだ。だから、部活にも入っていない。勉強さえしていれば、将来はなんとかなる。家に帰ったら、受験のための勉強をしよう。受験の準備は早いに越したことはない。忙しい梨沙には人と群れている時間はないのだ。
カサッ。下駄箱のドアを開けた時、何かがひらりと動いた。一枚の小さな紙切れだ。
梨沙は神奈川県の県立の高校に通っていた。梨沙が入学する一年前に、高校が大型リニューアルをしたおかげで、校舎のほぼすべてが新しくなった。下駄箱も例に漏れない。木製の薄茶色をした小洒落た見た目の靴箱で、ひとつひとつに扉がつき、小さな小窓までついている。まだ新しい木の匂いがし、手触りもツルツルで、高級感を醸し出していた。
そんな高級感溢れる下駄箱にそぐわない紙が一枚、梨沙の靴箱内に存在している。下駄箱に紙、ここから推測されるものはただ一つ。
ラブレター。
まさか、そんなはずはない。
友人の少ない梨沙が寡黙な美人であれば、ミステリアスだなんて噂され、ラブレターが下駄箱に入っていることもあるだろう。だけど、梨沙はいたって普通の女だ。もしかしたら、普通より下かもしれない。女らしさを削ぎ取ったようなメリハリのない華奢な体と、短く切られた髪。隠しきれない喪女感と陰キャ感。もう六月も半ばになろうとしているのに、クラスの男子どころか女友達ですら作っていない女に、誰が告白なんてするだろうか。
梨沙は不審に思いながらも、紙を取り出す。それは正方形のメモ帳を折り畳んだシンプルな紙だった。そっと、紙を広げてみる。
『堀川梨沙さんへ。放課後、屋上に来てください。』
調和の取れた綺麗な字が並んでいる。整然と並べられている文字に思わず、どきりとしてしまう。文字からは男なのか女なのか、はっきりと読み取ることができなかった。わかることはただ一つ、字が綺麗な人、ということだけだ。
差出人はどこにも書いていない。裏や表を何度見ても、ただ、『屋上に来い』という旨が書かれているだけでそれ以上のヒントはない。
「なんなの、コレ……。人のこと舐めてんの……」
梨沙はだんだんと腹が立ってきた。
匿名で呼び出すなんて、なんて卑劣な奴なのだろう。自分の正体は明かさず、安全圏にいたまま、人を呼びつける。これをずるいと言わずして、何をずるいというのだろう。
手紙をくしゃりと片手で潰す。こんな卑怯な奴の呼び出しには屈しない。しかも、この学校の屋上は常に鍵がかかっているはずだ。高校一年のとき一度だけ、屋上へ行こうとしたことがある。もちろん、鍵がかかっていて開かなかった。それもそのはず。青春の代名詞とでも言える屋上が常に解放されていたら、青春を存分に謳歌したいくだらない若者たちで溢れかえってしまうだろう。放課後も昼休みも五分休憩ですら、渋谷のスクランブル交差点レベルで、人でごった返してしまうのは火を見るより明らかだ。
こんな意図も意味もわからない手紙、無視してしまおうと、梨沙は下駄箱に入ったローファーに手をかける。
でも。
チラリと、左手に握ったままの紙屑に目線を移す。
人生初の呼び出しだ。気にならないと言えば、嘘になる。
この綺麗な字の主は一体誰なのだろう。学校の屋上の景色はどうなっているのだろう。
梨沙の中の好奇心が沸々と湧き上がる。青春なんてもの、とっくの昔に諦めたつもりだ。今更、青春を謳歌したいなんて気持ちもさらさらない。だけど、この『呼び出し』という、いかにもな機会を逃すのはなんだか、惜しい気がする。
靴から手を離し、手紙を再び広げる。くしゃくしゃの紙の中に、整然とした字が浮かぶ。
「冷やかしだったら、タダじゃおかないから」
梨沙は紙を軽く睨みつけ、昇降口に背を向け、歩み出した。
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