30.偽善者



「しおりん、おはよう!」

「詩織ちゃんは今日もかわいいね」

「って、そのヘアピンかっわいい〜! どこで買ったの?」


 女の子たちが持て囃す。


「小南さんって、まじで美人だよな」

「器量良し、頭良し、スタイル良し。欠点なんてないんじゃね?」

「あーぁ。小南さんと付き合いてぇ」


 男の子たちが熱賛する。


 いつもの光景。いつもの日常。頭が痛む。


 ――うるさい。全部全部、うるさい。


 ――でも、仕方がないの。わたしは小南詩織だから。みんなの憧れ、小南詩織だから。みんなの望むわたしにならなくっちゃ。でなきゃ、一人になる。呆れられる。愛されない。


 ――一人になるのは嫌。期待されないのも嫌。愛されないのも嫌。


 ――でも、本当は……。一人になりたい。期待が重い。虚像の愛なんていらない。



 大量の詩織の声が体中にドロドロと流れてくる。


 あぁ。そうなのか。


 梨沙は気づいた。


 詩織の感情が、あたしに流れ込んできてるんだ。ここは詩織の思い出の中だから。


 だから、わかってしまう。詩織の思考、詩織の感覚、詩織の思い……。全てが自分のことのように感じ取れる。


「ほんっと、詩織はいいよねぇ。金持ちで、可愛くって、頭もよくて、才能もあってさぁ。悩みなんて一つもないでしょ」


 くぐもった声が梨沙に届いた。いつの間にか場所が変わっている。梨沙は詩織とともに、女子トイレの洗面台のところにいた。最近建て替えられた校舎のトイレなため、高級ホテルばりに明るく綺麗なトイレだ。詩織の隣にいるのは詩織の一番の友達、三浦柑奈だった。


「えぇ、そんなことないよ! わたしだって、人並みに悩んでるよ」


「まったまたぁ! じゃあ、詩織は何に悩んでるっていうのさ」


「えっと……みんなの期待に応えなくちゃとか、成績のこととか、将来どうしようかなとか、そういうこと」


「ちょっと、それ、みんなが普通に悩んでることじゃん! 大抵の人はその悩みに加えて、可愛くなりたいとか、お金が欲しいとか、人間関係うまくいきたいとかで悩んでるわけ。詩織はそこら辺、気にしなくていいわけじゃん? やっぱり金持ち美人はお得だよね」


「えー? そうかなぁ……」


「そうだよ! 詩織はお金持ちで美少女だから意識したことないかもしれないけどさっ。……てか、私たち親友だよね? 私は詩織に嫉妬したりしないからさ、悩みないなら、素直に悩みないって言ってくれていいんだよ? 私は僻んだりしないからさ」


 嘘つき。


 空間に声が響いて反響する。


 梨沙は柑奈の顔を見やった。陽気な口調と口元とは裏腹に、目つきは尖り冷ややかだ。ぞわりと気味の悪い悪寒が走る。


 柑奈は笑っていない。明るい声を響かせながら、少しも目は笑んでいないのだ。


 嫌だ。


 親友といいながら、己の内に本音を隠し、親友のことを蔑んでいる。居心地が悪い。気持ちが悪い。


 一体、わたしが貴方に何をしたっていうの。わたしは貴方のことを本当の友達だと思っていたのに。


 声にならない叫びが、梨沙の胸中に渦巻く。


 梨沙と詩織は今、一つだった。詩織の思考が、まるで梨沙の思考かのように、脳内で意識が混濁する。


「あっ、やばっ! 次、音楽室だよね? 私、ピアノの伴奏頼まれてたのに、楽譜忘れてきちゃった……! 取りに戻るから、先に音楽室に行ってて!」


「あ、うん、了解! 先行ってるね!」


 柑奈がドタバタと嵐のように去っていく。


 詩織は誰もいなくなったトイレの鏡で、自分の顔を見つめてみる。


 今日も、わたしは可愛い。可愛いわたしは可愛く行動をして、可愛いわたしはそれに見合う教養を身につけて、可愛いわたしは……。


 自分自身を見つめながら、心の中でつぶやく。


 そう。可愛いわたしは幸せなんだ。可愛く生まれて、お金もあって、親は仕事で忙しいけれど、いつでも好きなものを与えてもらえて、家に帰れば優しいお爺ちゃんとお祖母様がいて、幸せな家庭なの。通り一遍の幸せがある。みんなが羨ましがるような人生。それなのに、何か欠けてるなんて感じるのはどうして? わたしが贅沢で、傲慢だから?


 ……なんて、考えても無駄かな。


 鏡から目を背ける。


 そして、踵を返して、トイレの扉を開けて外に踏み出そうとしたとたん、


「うわっ!」

「きゃっ」


 軽い衝撃を受けた。誰かにぶつかったのだ。詩織は二、三歩、くらりと後退り、体勢を立て直す。


「いたた……。あの、ごめんなさい」


 ぶつかったおでこに手を当てながら、片目を開けて相手を確認する。


 えっと、この人は、誰だっけ。たしか、同じクラスの……。


「いや、あたしもボーってしたから」


 そうだ。堀川梨沙。いつもヘッドホンをして一人でいる女の子……。


「堀川梨沙さん、だよね? 大丈夫? どこか怪我してたりとか……」


「平気」


 梨沙の声が詩織の問いかけに重なる。トゲトゲしく冷たい声に胸の奥がひやりとした。心臓の鼓動が速くなる。彼女の気に触るようなことをしまっただろうか。


「えっと……あ、そろそろ音楽室に行かないとだし、わたし、行くね。もし、怪我しちゃってたら遠慮なく言ってね。治療費とか出すから……。じゃ、また音楽室で!」


 今度は梨沙にぶつからないよう上手くすり抜け、そそくさとトイレを後にしようとした。そのとき、


「……偽善者」


「……えっ?」


 それはとてもとても小さな声だった。硬く、鋭い刃物のような一言だ。


 詩織は振り向く。


 尖った一言を放った少女はいなかった。代わりに空いていたトイレの個室が閉まっている。


「偽善者って……わたしに言った?」


 突然の悪意に、呆然と誰に問うでもなく詩織はつぶやいた。


 それから、詩織は梨沙を自然と目で追うようになっていた。どうして悪意を向けられたのか、どうして偽善者などと言われてしまったのか、気になったのだ。


 梨沙はいつも一人でいる。調和とか、協調とか、そういった種類の単語の外にいるような女の子だった。人は、とりわけ、学校という場所では、はみ出ている者をひどく嫌う。人と違うことは悪なのだ。特出した個性持つ者や同調しない者は、協調性を大事にする学校で邪魔者でしかない。だから、変わっている者は爪弾きにあう。『みんな同じ』を美としている学校という場所で、梨沙はいつだって枠の外側にいた。友達と一緒にいるところも見たことがない。時折、同じクラスの男子、安藤広樹が梨沙を気にかけている様子を見せるけれど、彼女はそれも軽くあしらっていた。一人なのに、堂々としている。弾かれても、一人でも、彼女は彼女らしく、折れずに凛としているのだ。


 一匹狼、異分子、型破り、そんな言葉がよく似合う。


 わたしとは、真逆だ……。


 詩織は梨沙を見るたびに、胸奥が騒いだ。騒いで、詩織を攻撃する。


 わたしもああなりたい。わたしも人の目を気にしたくない。わたしも梨沙ちゃんのように……。


 梨沙を見ていると、なぜか自分が惨めな存在のような気がする。


 梨沙が自由な鳥のように見えたから。梨沙が詩織の持っていないモノを全て持っているように見えたから。


 梨沙のような人間が、自分の未来を自分の手で切り拓くことができるんだ。


 今だったら、梨沙の言ってた偽善者という意味がわかる。


 偽物なんだ。


 わたしの幸せは、見せかけの偽物。わたしの好意、行動、笑顔、すべて見せかけの偽物。


 でも、わたしは偽物をやめられない。


 梨沙ちゃんのように強い子じゃないから、わたしは偽物の笑顔と偽物の幸せがなければ生きていけない。素直に生きることは自分自身を傷つけることだから。偽物という皮は心を守るのに役に立つ盾だから。


 あっ……。


 梨沙と目が合った。それほど親しくない友人と話している時だ。梨沙は見下したような表情で詩織を見つめている。詩織は慌てて目を逸らす。心を見透かされた気がしたからだ。


 彼女の黒々とした瞳は、人の心の深淵を覗き込むことができるかのような得体の知れない怖さがあった。


 この瞳を詩織は知っている。


 曾お祖父様の瞳だ。曾お祖父様だけが詩織の本来の姿を見出してくれたのだ。


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