12.上昇


 

「やば…。高…」


 雲が上昇したあと、梨沙は膝をお腹に抱え込み、雲にしがみついていた。雲は不安定で立っていられなかったのだ。雲の端から街を見下ろし、下腹に力を込める。


「あはは。梨沙ちゃん、なにその格好」


 怯えてる梨沙とは裏腹に、雲の端に座り込んで足をぶらぶらとしている詩織は、余裕そうな顔で笑っている。


「何って……。アンタは、この状況が怖くないわけ?」


 発する言葉が震えた。詩織もミウもバランスの悪い雲の上にいるというのに、恐怖なんて知らない幼子のようにケロリとしている。


「梨沙ちゃんって、高いところ苦手? 屋上の時も怖がってたよね? この雲、ふわふわして不安定だけど、ふかふかで気持ちいいし、気をつけてれば、落ちることなんてないよ」


「そうだよ、梨沙お姉ちゃん。ほら、肩の力を抜いて? このくりきんとんはすっごく賢くて、絶対落ちないようになってるんだから!」


 そう言うとミウは突然立ち上がり、両手を広げて雲の外へと飛び出した。咄嗟に体を起こし、「危ない!」と、梨沙が叫んだのも束の間、雲がびにょーんと伸び、ミウの体を包み込む。


「ほら、ね?くりきんとん、頭いいでしょ?」


 雲に引き寄せられながら、ミウが満面の笑みをこちらへと向ける。梨沙はホッと息を一つ吐いた。体全身の力が抜けていくのがわかる。


「あぁ、もう。びっくりした。……この雲が頭いいのも安全なのもわかったけど、心配だから危ないことしないで」


「え、あ……、うん。その……、梨沙お姉ちゃんごめんなさい」


 思いの外、語尾が強くなってしまった。怒られたと思ったのか、ミウの顔からは笑顔が消え、黒目が微かに揺れる。


「ごめん。怒ったわけじゃないんだ。お姉ちゃんはただミウちゃんが心配だったの。乗り物から体を出すのは危ないことなんだよ? だから、もうやっちゃダメ。わかった?」


 梨沙は膝立ちになり、怖くならないように努めながら、ゆっくりと丁寧に柔らかな口調で諭す。ミウはこくこくと何度も深く頷いた。


「はぁい! 真面目なお話はおしまいっ! この雲の上が安全だってわかったことだし、みーんなで空の旅、楽しもう!」


 調子はずれな声が耳に掠る。眉が微かに寄った。こういう詩織の空気を読まないところが嫌いだ。文句の一つでも言ってやろうか。そう思った時、ミウの両手に頬を奪われた。


「ほら、見てみて!」


 梨沙の目線は雲の下へと強制移動させられてしまう。


 あっ……。


 息を呑んだ。壮観な景色が目の中に飛び込んできたのだ。青空の下、怪しげな雰囲気を醸し出しながら、ノスタルジックで美しい色合いを携えている街がオレンジ色にチカチカと光り輝くその光景はまさに、圧巻だった。世界一高い電波塔から見る景色よりも、苦労して辿り着いた日本一の山頂から見える景色よりも、美しいと感じる。


 胸が締め付けられ、息苦しい。こんなに美しい風景が見れるなんて。


「ね? くりきんとんから見える景色って、キレイでしょ?」


 ミウの言葉に梨沙は素直に頷いた。


 息を思いっきり吸い込む。くりきんとんのかけらが口の中へと入ってきた。綿飴のような甘さが口の中にじんわりと広がる。


 ミウが思いを込めて作り出した雲だから甘いのだろうか。小さい頃、梨沙は綿飴のことを雲だと思っていた。ミウも同じように考えて、甘い雲を作り出したのだろうか。


 脈略のないことを考えながら、雲の下を眺める。梨沙から少し離れたところで座っていた詩織が、梨沙にすっと体を寄せた。そして、街中を指差し、話し始めた。


「ほら、見える? あの大きな道路。あそこがわたしと梨沙ちゃんが目覚めたところ。この理想郷のメインストリートで、そこを線対称として左右対象になってるんだよ。わかるかな? ……あっ、今通り過ぎたあのお店はカフェになってるの! あっちは本格的なレストランがあって、その横には美容室があったり、お洒落な洋服屋さんやコスメショップ、あの高い建物のあるあたりにはオフィスがたくさん入ってるんだよ。死んでまで働きたい、死んでからも変わらない日常を送りたいって思う人がいるから、オフィスとかお店とかがあるんだって。わたしにはその感覚、わかんないなぁ」


 梨沙は詩織の方を見向きもせずに、詩織のガイドに耳を傾ける。


 死してもなお、変わらない日常生活を送りたい。


 詩織に共感するのは癪だが、梨沙も詩織の発言に頷いてしまった。何にでもなれるなら、理想の自分になった方がいい。理想の生活を送った方がいい。そう思ってしまうのだ。


「すごい。詩織お姉ちゃんって、この街に詳しいんだね!」


「え? あーっと、そうかも。サリエルにたくさん説明を聞いたからかな」


 詩織は頬を掻き、目線を泳がせる。本当のことを話してもいいものか迷っているのだろう。詩織は理想郷に行きたいからというひどい理由で自殺未遂を繰り返しているのだ。そんな話を不運にも死んでしまった小さな女の子に聞かせられないと思うのは当たり前だ。


「ふーん。そっか。でも、お姉ちゃんたち、生きてるよね? どうしてここにいるの?」


 唐突に、無邪気で鋭い質問がぶつかってくる。 思ってもいなかった質問に身が縮んだ。梨沙と詩織の首には白い糸が巻かれていない。死者ではないと、当然にバレてしまう。


「えっと、それは……」


 梨沙が口をもごりと動かし始めた時、「あれ、学校じゃない?」という詩織の声で、梨沙の声は上書きされた。助かったと思った。五歳ほどの少女に詩織とのゴタゴタを聞かせたくはない。


 ミウも梨沙も詩織の指差す方を、目を細めて見つめる。そこにはくすんだ赤い屋根の大きな木造平屋があった。地震がきたら崩れてしまいそうなほどボロボロの見た目の建物の前には校庭らしき空間がある。古き良き木造校舎だ。


「すごーい! あれが高校! ガラスの窓たくさんある! おしゃれでステキーっ!」


 ガラスの窓……? おしゃれで、ステキ……?


 ミウの言葉に、疑問が浮かび上がる。梨沙が目にしている高校はお世辞にもお洒落とは言えない代物だ。それにガラス窓なんてどこにもない。


 そこで、はたと梨沙はこの街の特性を思い出す。


 そうだ。この街は人によって見えている世界が違うんだ。


 思い出すと同時に、梨沙はぎゅっと目を瞑った。目を瞑って、心から願う。


 ミウちゃんの見えている校舎になりますように――。


 それは一瞬の出来事だった。木造校舎は音も立てずに細かなキューブ状になり、コロコロと面を変えて、見ていた景色が差し代わる。突然の光景の変化に頭がくらりとする。


 ノスタルジックな茶色い世界に聳え立つ、真新しいガラス張りの白っぽい校舎。それは、お金をかけて新しく作った私立高校の校舎といった容貌で、美術館や大学だと言われても違和感のない佇まいだ。階段や渡り廊下、あらゆるところがガラス張りになっている。


「わっ、すごい!ミウちゃんには学校がこんなふうに見えてるんだね!」


 詩織が感嘆の声を上げた。梨沙の景色に合わせている詩織の景色も変わったのだろう。


「うん! カッコいい! あれ? お姉ちゃんたちも、ミウとおんなじに見えてるの?」


「うん、そうだよ! 梨沙お姉ちゃんもわたしもミウちゃんの見ている景色に合わせたの」


「わぁ、そうなんだ! えへへ。おそろいだね!」


 ミウの声は弾んでいた。はしゃぐミウに梨沙は疑問を投げかける。


「ミウちゃんの学校のイメージはこういう感じなんだね。もっとこう、普通の小学校とか中学校とかを想像してるかと思った」


「だって、一般的な学校だと、つまらないでしょ? 行くならドラマに出てくるようなカッコいい高校がいいと思ったの!」


「えっ?」


 違和感が脳裏を掠めた。しかし、その違和感が脳にとどまったのは一瞬だった。ミウが急に立ち上がり、勢いよく叫んだからだ。


「そんなことより、はやく行こう! わたし、もう待ち切れないの! くりきんとーん! 急げ急げー!」


 ミウの声を皮切りに、筋斗雲の『くりきんとん』が急激に速度を上げる。


「きゃっ!」


 梨沙と詩織は同時に悲鳴を上げ、くりきんとんにしがみつく。風が頬を切り、怒号のように唸っている。心臓がヒュッと浮かび、手以外宙へと放り投げられてしまう。


 怖い。怖い、怖い、怖い。


 ジェットコースターのような浮遊感が続く。突然の急降下に冷や汗が止まらない。


 景色は急速に過ぎ去り、梨沙の抱いた違和感も景色とともに流れ去ってしまった。


 あっという間に、くりきんとんは校門の前へ到着した。石造りの立派な校門の前にくりきんとん自ら寄って行き、梨沙たち三人を滑り落とす。地面に足がついた。ぐらり、と体が揺れた。真っ黒塗られた鉄の門にもたれかかる。地に足がついている感覚に脳と体がついていけてないのだ。心臓がドッドッドと激しく鼓動している。まだ自分自身が雲の上にいるような感じがして、気持ちが悪い。


 梨沙の横では、「くりきんとん、ありがとう」と、慈しみを込めた口調でミウがくりきんとんに語りかけている。優しい手つきで、くりきんとんを撫でている。その仕草だけで、この子が優しい子なのだと、愛に溢れているのだとわかる。


 撫でられることに満足したのか、くりきんとんはそっとミウの手から離れると、ふわりと天高く舞い上がり、真っ青に染まる空の中へと消えて行ってしまった。


 梨沙は気息を落ち着かせると、ぐっと身体を起こした。だいぶ、陸地に慣れたみたいだ。


「さてと、準備は万端! ミウちゃん、学校見学の準備はいいかな?」


「うんっ!」


 詩織がミウに右手を差し出し朗らかに話しかける。詩織の愛嬌も相まって、その姿は面倒見のいい可愛いお姉ちゃんそのものだ。ミウは大きく頷くと、詩織の右手を取った。そして、「梨沙お姉ちゃんも!」と、梨沙に空いてるもう片方の手を差し出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る