社長、中国で大変なことが!
相禅
中国で先物取引が始まったらしい!
1-1 北京烤鴨
薄曇りの空の下、私たちを乗せたタクシーは田園風景の中を進んでいた。空気が埃っぽく、沿道にはまばらに植えられた白樺が並ぶ。不愛想な運転手は言葉少なく、カーラジオから流れている歌謡曲は歌詞の意味が全く分からない。
「あんまり開けた場所じゃないね。この道で合ってるのかね?」
後部座席で松原専務は少し不安げにつぶやいた。ワイシャツにはネクタイをしていないが、髪を七三にセットしている。
「まあ、市内まで一本道みたいなものだから大丈夫でしょう。ただ、ホテルにちゃんと着くのかどうか。森脇の説明って通じてんの?」
その隣に座る酒井部長は、他人事のように聞いてくる。痩せて神経質そうな専務に対し、丸顔で日焼けした部長はゴルフウェア姿でリラックスしている。
「もう少ししたら、街並みが見えてくると思いますよ」
助手席で地図を片手に、時折通過する集落で見かける看板や道路名の標識と照合して道を確認しながら、私はそう応えた。
もちろん、私の付け焼刃の片言中国語など通じない。空港でタクシーに乗り込みホテルの名前を二度三度告げても、運転手は怪訝な顔をするばかりだった。英語も要領を得ない。仕方がないのでメモ帳に漢字を書いたらようやく納得した。筆談で通すのが正解のようだ。
田舎道に見えるが、先程からトラックなど行き交う車の数は少なくない。交通量が物語るように、これでも北京首都国際空港から市内に向かう幹線道路なのだ。とはいえ、ロバが曳く荷車も当たり前のように走っている。
タクシーが走る道に沿って、所どころで工事の行われている様子が目に入る。何となく眺めていると、運転手が指さしながら何か説明している。「
やがて周囲の建物の密度が増し、目を見張るような大通りに出た。三環路だ。交通量は一気に増える。ただ、走っているのはタクシーやトラックばかりだった。
三環路を南に進むと、私たちの宿泊先も見えてきた。万里の長城を模した外壁にチープな感じがあるものの、外資の運営する五つ星ホテルのはず。
「着いたようだね」
外壁の上に掲げられたホテル名を眼鏡越しに見上げて、松原専務がほっとしたように言う。
「シンガポールより飛んでる時間も空港からの距離も短くていいですね」
海外事業担当役員で東南アジアを頻繁に訪れる酒井部長が朗らかに応じた。私がタクシーの料金を払い領収書をもらっていると、ホテルの制服を着たボーイが来てトランクから荷物を出して運び始めた。
一九九三年初夏。我々は初めて中国を訪れたのだった。
チェックインを済ませ自室に荷物を置いた私たちは、ロビーに集まった。吹き抜けの立派な造りだ。奥の方にはラウンジがあって、酒が飲めるのだろう。
「これからどうする?」ソファに深く座る専務がぼんやりとした感じで聞いた。成田から三時間余りのフライトだ。疲れが出ているとも思えない。ホテルに着いて緊張が緩んだのか。
「今日は移動日で予定もないし、観光しますか? 今から万里の長城は無理なんで、故宮でも見に行きましょう。タクシーで向かえばすぐですよ。なあ森脇?」
業務資料よりも観光ガイドをよく読み込んできたと思われる酒井部長の提案で、故宮に行くことにした。北京市街は清朝時代の紫禁城、故宮を中心に広がっている。滞在するホテルのある三環路は、改革開放前までは郊外といってもよい場所だったが、車で向かえば中心部までそれほどの距離ではない。
ホテル前の車寄せにはタクシーが何台も待っていた。大通りを流しているタクシーは黄色く塗られた小型のバンが多いのだが、ホテルで客待ちしているのは普通車だ。色は同じように黄色い。ドアマンに外出を告げると、先頭の一台をすぐに車寄せに呼んだ。ついでに行き先も運転手に伝えてもらう。
タクシーは三環路から長安街を走り、天安門広場に着いた。薄曇の空に映える赤土の壁。テレビでしか見たことのなかった天安門が眼前にある。ここに来るまでは、道路に設けられた広い専用レーンを行き交う自転車の多さから横の広がりばかりが印象に残る北京の街だったが、天安門を覆う空の高さにようやく気づいた私は、静かに感動を覚えた。
周囲には地方から上京してきたと見られる観光客が大勢いた。時代から取り残された田舎から来たのか、人民服に人民帽という出で立ちの人々も見かけた。
彼らは大声で談笑しながら、天安門や人民英雄記念碑をバックに痰をまき散らしつつ盛んに写真を撮っている。
私たちもそんなお上りさんたちと大差はない。カメラこそ持って来ていないが、松原専務も酒井部長も好奇心を抑えかねるといった雰囲気で辺りを見回していた。
天安門を抜けて中山公園の脇を歩きながら故宮内部に向かう。通り沿いには、夜店の屋台のように氷を浮かべた水槽で冷やした飲み物を売っていた。コカコーラの瓶には、「
外貨兌換券とは、この頃の中国を訪問した外国人が米ドルや日本円などの外貨を人民元に両替すると受け取った、おもちゃのような紙幣だ。空港やホテルの両替所で交換してくれる。町中では普通の人民元と同価値で使えるが、お釣りはすべて通常の人民元を渡される。帰国時に日本円に両替できるのは兌換券だけで、お釣りにもらった通常人民元は現地の人にあげるか次回訪問用に持って帰るしかない。だが兌換券に比べて一般に流通する少額紙幣はとてつもなく汚くボロボロなので、持ち帰りたいとは思えない。
雪碧を飲み終え、午門を通って故宮に入る。楼門や宮殿の大きさと色彩には圧倒されるが、方々に雑草も目立ち、手入れが行き届いているようには見えない。社会主義中国のサービスの悪さからすると、仕方ないことなのかもしれない。展示されている美術工芸品も、予想したほどのものではなかった。もっとも、主要な国宝級の美術品は国共内戦を経て台湾の故宮博物院に持ち出されているという。
特に見入るわけでもなく順路に沿って歩くうちに、故宮の北の端である神武門に着いた。
「前に台北で中身は見たし、今回容れ物の方も見たから、これで故宮見学は完璧だな」酒井部長がうれしそうに言う。
「台湾の博物館は凄いものなの?」
「そうですね、書画に圧倒されますよ。教科書に載っているような作品がごろごろ展示されてますから」
専務の問いに酒井部長は得意気に答える。私はまだ台湾に行ったことがなかったが、いつか自分も故宮博物院の宝物を見てやろうと思った。
「結構歩いたけど、まだ晩飯には早いかな。そういえば専務、夕食は何がいいですか?」
酒井部長が聞いたものの、松原専務は何でもいいよと答える。
「せっかく北京に来たんだから、北京ダックを食べましょうよ。森脇、北京飯店ってここから遠いの?」
地図で見ると北京飯店は私たちの立っている故宮神武門から南東方向、途中で
神武門から大通りを挟んで向かい側に鎮座する景山には登らず、私たちは王府井を目指して通りを東に向かった。景山は明の最後の皇帝崇禎帝が李自成の反乱軍に追われて自殺した人工の丘だ。散策の途中、大通りから路地をのぞき込むと古い胡同の街並みが目に入る。胡同を取り壊して工事をしているところもある。
やがて王府井大街と書かれた標識が見えたので、右に曲がる。両側に商店が軒を連ねる目抜き通りは賑わっているものの、抱いていた高級なイメージは裏切られる。衣料品店などは軒先一杯に安っぽいハンガーで衣服を吊るしており、下町の商店街そのものといった感じだ。街角には丸い建物が立っており、電話を置いたカウンターには服務員が座ってる。公衆電話らしい。
しばらく行くと、長安街の大通り手前に北京飯店のビルが建っている。先程いた天安門広場から、長安街を東に一キロメートル弱移動した場所なのだ。故宮を縦断し王府井を回って、ぐるりと数キロメートル散歩したことになる。おかげで私たちはほどよい空腹を感じてきた。
「中に中華レストランがあるから行ってみよう」と酒井部長が先頭を切って入っていく。高級ホテルの中は英語が通じるから強気だ。
レストランでは外国人の私たちは上客と思われたのか、三人にしては広い個室に案内された。十人くらいで宴会ができそうな部屋だ。調度品も豪勢で、さすがは老舗ホテルのレストランと感心した。
「こんな部屋に通されて、チャーハン一杯食っては帰れないな。といって、何を頼んでいいのかよく分からないよ」
松原専務はメニューを眺めているが、料理の名前からその内容はイメージできないようだ。一応英語の解説もついているが、基本的に私たちにお任せということだ。
「予定通り、北京ダックは外せないでしょう。あとは何か肉料理と、チャーハンも頼もうかな。それに、ご当地のビールも飲まないと」
歩き回って腹を空かせた酒井部長の決定で、ビールとすぐに用意できる前菜、牛肉料理と炒飯に加えて、北京ダックを注文することにした。北京ダックは、家鴨一羽丸ごとを北京ダック、焼きそば、スープの三通りで調理するという。日本で食べたことのある北京ダックは、パリパリの薄皮を薬味と一緒に小麦粉の皮で包んだものだ。一人前の量も少ない高級料理だが、一羽分もあると少し食べ応えがあるのかなと期待した。
余り冷えていないビールを飲みながら前菜をつまんでいると、いよいよ北京ダックの登場だ。ところが、ウェイターの運んできた大皿は私たちの想像を超えるものだった。思ったような薄皮ではなく、皮にはかなりのボリュームの肉が付いている。さらに、その下にはスライスした家鴨肉が山盛りになっているのだ。運動部員の高校生ならともかく、オヤジの私たちに食べきれる量とは思えなかった。
「参ったね。本場じゃこうなのか……」
酒井部長が苦笑している。しかし、これで終わりではない。家鴨肉の焼きそばとスープが予想した量の倍くらいのサイズで出てくる。おまけに牛肉料理だ。炒飯まで頼むのではなかったと後悔したが手遅れで、ウェイターが大皿に山盛りの炒飯を運んできた。広すぎる個室に客は三人、それでもテーブルの上だけは賑やかになった。
私たちは出そろった料理にのろのろと箸をつけ始めた。どれも美味なのだが、食べても食べても終わりが見えない。たっぷりと使用されている油も、次第に気になってくる。
「俺はもう無理だな。君たち頑張ってね」
「森脇、お前若いんだからまだいけるだろう」
「こんなに頼んだのは部長でしょう……」
頑張ってみたものの、私たちは出てきた料理の半分も片付けられず、北京ダックはもうしばらく見るのも嫌という気分になっていた。残りを持って帰るかと聞かれたが、ゴミ箱に直行する事になりそうなので断った。はちきれそうな腹を抱えてなんとかホテルに帰りついた私たちは、バーで一杯飲もうという気にもならず、胃薬を飲んで早々に寝ることにした。
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