6-4 溶けたソフトクリーム

 この頃の応礼と私は明示的に恋人とは言えないのかもしれないが、ただの同僚の範疇でも無くなっていた。二人で色々な事を語り合い、応礼の家族のことにも随分と詳しくなっている。もう一歩踏み出さないといけない気がした。結婚を前提に付き合うのか。しかし、応礼と知り合ってもう一年余りが過ぎ、仕事でストレスの掛かるときも含めて多くの時間を共有してきた。そしてプライベートで会う時間も増えている。これから更に時間をかけて、これ以上お互いを知り合う過程など必要なのだろうか。


「リンちゃん、結婚しようか?」

 休日ランチの後、公園の木陰のベンチでソフトクリームを食べながら話しているとき、私は突然切り出してみた。応礼は戸惑って目を逸らす。

「嫌かな?」

「嫌、じゃないです。急に言われると思わなかったから。私、家族には性格がきついと言われてるし、結婚して上手くやって行ける自信がありません」

 自分の爪先の方を向きながらそう言ってから、不安そうにこちらを見る。

「森脇さんは、私でいいんですか?」

「もちろん。リンちゃんと一緒に居ると嬉しいし、居ないと寂しい。未来永劫そうだという保証はないけど、無理しないで付き合って行けると思うよ。君は、私に合わせて無理している?」

「してないです。森脇さんのことは好き。こうして会えるのは楽しいです。でも、私には結婚する価値はないと思います」

 応礼は余り自己評価が高くない。童顔で大人しい風貌に似合わず言うべき主張はするので、周囲から可愛げがないという評価をされてきたのかもしれない。

「私が考えるリンちゃんの価値は大きいよ。相場の仕事をしているから絶対なんて言葉は信じない。だから絶対幸せにするとは誓わないけど、二人で幸せになる努力をするよ。そういう努力は無理しないでもやれるだろうし」

 そう言って、私は自分のソフトクリームを食べてしまったが、黙って聞いていた応礼の持つソフトクリームは溶けて垂れ始めている。

「ソフトクリームを食べている途中でこんな話をする森脇さんは酷いです」

 応礼は、クリームの垂れた手を気にしながら儚げに笑う。私はポケット・ティッシュを応礼に渡し、一部が垂れ落ちてしまったソフトクリームを受け取った。そして「片付けちゃうよ」と言って応礼のソフトクリームも食べてしまう。

 立ち上がった私は、ベンチに腰掛けたままの応礼に手を伸ばした。彼女はおずおずと私の手を握ったので、ゆっくり引いて立ち上がらせる。拭いきれていないソフトクリームで、二人の手がべとべとになった。何だかおかしくなって笑いかけると、応礼も今度は明るく笑っている。公園のトイレで手を洗い、連れ立って応礼のマンションに向かう。北千住の駅前で買い物をして、家までの道中では自然と手をつないで歩いていた。


 応礼と結婚することは、会社にも伝える必要がある。昭和の会社では女子社員は男子社員のお嫁さん候補という意味合いもあって、社内結婚は歓迎された。平成になってもそういう風潮はまだ変わっていなかった。しかし、結婚すると妻の方は寿退社するのが慣例だ。そして夫には家族手当が支給される。子供ができると更に家族手当が増え、結婚して子供が出来て一人前という考え方に基づいて、所帯持ちを優遇し独身を続ける者にプレッシャーを掛けるのだ。

 私たちの結婚により、城東通商は中国語人材を失うことになるが、幸い許君がいる。来春には彼が入社するので、それまで乗りきれば何とかなる。酒井部長らもそれならば、と納得した。エリックたち同僚は何となく甘い雰囲気を感じていたようだが、「展開が急過ぎないか」と呆れている。応礼はサリーに軽く相談したが、「モリワキサンは誰にでも優しいけど、恋人や旦那にするのは違うんじゃない?」と言われたらしい。

 結婚前には他にもやることがある。御徒町の宝飾店で婚約指輪と結婚指輪を買い、台湾に行って応礼の家族にも挨拶した。念願の故宮博物院も見ることができた。応礼の親は数年前にニュージーランドに移民しており、私に会うために台湾に戻ってくれた。親が既に現地に居ないことも、応礼が台湾赴任ではなく日本で働き続ける理由の一つだろう。

 応礼を伴って私の実家にも行った。国際結婚だが、どちらの親も取り立てて反対はしない。留学を終えても帰国しない娘と、上京したきり滅多に郷里に寄り付かない息子だ。人並みに結婚してくれてホッとしていたのかもしれない。

 新居も考えないといけない。私の向島の住まいも、応礼の北千住の部屋も二人暮らしには手狭だ。南大井に良さそうなマンションを見つけた。良くある田の字型の間取りではなく、玄関から伸びる廊下の突き当りを曲がった先に各部屋がある。風水が良いと応礼が気に入った。

 引っ越しを済ませ、品川区役所に婚姻届けを出しに行く。結婚したことで、私の戸籍が親元から独立して作成されるのだが、外国人の応礼が入籍することはない。私一人の戸籍に中国籍の応礼と結婚した事実が記載されるだけだ。台湾は「中華民国」なので中国籍と言っても間違いではないが、釈然としないものも感じる。


 ともあれ、こうして二人の新世帯が誕生した。入籍ではないので応礼の名前は林応礼のままだが、これまで通り「森脇さん」や「リンちゃん」と姓で呼ぶのも変だ。応礼は家族や台湾人の友達から「小礼」と呼ばれている。「礼ちゃん」というようなニュアンスだ。私は「礼」と呼ぶことにした。応礼は「ダーリンって呼んでもいい?」と言う。台湾のドラマなどでは夫婦は「親愛的」と呼び合っているらしい。これは英語だとダーリンで、日本語の「あなた」より親しみが深い。

 新居も落ち着いたところで、応礼が仕事を見つけてくる。日本橋堀留町の繊維街にある子供服のメーカーだ。中国蘇州に工場があるという。名刺には「デザイナー」という肩書が記してあるが、実際には営業先の問屋や量販店のバイヤーからの要望と自社のデザイン担当者との仲介をし、そして中国の工場に指示を伝える仕事だ。

 そして引っ越しを機に、私は自転車通勤をやめた。向島からなら三十分足らずで職場に着くが、南大井だと一時間はかかる。雨の日は更に大変だ。それに、新居から京急の駅は遠くなかった。通過して行く特急や快速特急は酷く混んでいたが、私たちの乗る普通電車は比較的空いている。

 結婚してからは飲みに行く回数も減り、代わりに仕事帰りに新橋や品川で待ち合わせて応礼と外食することもあった。付き合いが悪くなった私に対し、幼な妻との新婚生活が大事かと西岡は茶化す。しかし、応礼は童顔だが幼いという年齢ではない。

 翌年入社してきた許君は応礼が退職したと知り、先輩がいるからいろいろ教わって楽ができると思ったのにとこぼしていた。

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