最終話 終わりと始まり

 中国からの注文は止まりこそしなかったが、勢いが無くなってきたのは明らかだった。政府の方針を睨んで、慎重になっていることがうかがえた。そうするうちに夏が終わり、応礼が無事出産した。『女児が生まれ、母子ともに健康』というファックスが応礼の実家から届き、私もファックスでお礼を返信した。

 私は電話で中国語会話をすることはできないが、ある程度読み書きができる。一方、応礼の親世代は生まれた時には日本統治下であっても、学齢期には中華民国になっていたので日本語を習っていない。ずっと年配の伯父や伯母には日本語が分かる人たちも居るようだ。

 娘には「春海」と名付けた。北半球とは季節が逆のニュージーランドでは春を迎えているのだ。将来、漢字圏では九月生まれなのになぜ春海? というストーリーで自己紹介ができる。男女どちらに付けても問題の無い名前なので、四季のシリーズで続けてもよいだろう。実際、二年後の一月に生まれた次女には夏海と名付けた。

 ニュージーランド生まれの春海は、出生地主義のニュージーランドと血統主義の日本の二重国籍になった。中華民国籍も取れなくは無いが、届出の面倒さとメリットの無さでやめておいた。成人するときにどちらかを選ぶことになる。選択は本人の自由だが、子供の教育のためには将来一家で移民することも応礼とは話し合っていた。


 娘の誕生に浮かれていると、中国で遂に海外先物委託全面禁止が通達された。元々原則禁止のところをあの手この手で押し返してきたのだ。今年になって逆風が続き、それも難しくなった。それだけのことだ。今までよく続けられたと言っても良いかもしれない。予期されていたことだけに、寝耳に水といったようなショックはない。

 普段の通り、ヘッジ・ファンドや東南アジアの顧客の相手は続く。インドネシアの新しい顧客との商談も控えている。しかし、この三年余り大きなエネルギーを傾けて関わってきた中国のビジネスが、予兆はあったと言え唐突に終わったことに空虚感が無いとは言えない。

 そんな頃、外資系通信社の新藤記者から取材の申し込みがあった。例の、私のポジション・トークが効かない人だ。欧米市場でも中国の先物取引会社からの海外委託取引停止が話題になっており、背景について記事を書きたいという。私は市場関係者の一人として新藤さんの取材に応じ、同社の複数支局の合作による長文の記事が配信された。それは私にとっても、中国業務を総括する心の区切りになった。

 十月に入ると遅い夏休みを取り、ニュージーランドに渡る。応礼と春海を迎えに行くのだ。まだ生後一か月の娘は、泣き声も弱弱しかった。帰国便では壁の前の席で簡易ベビーベッドを利用した。初めて乗った飛行機で春海はむずかることも無く、旅慣れた大人になることが予想された。それからは子育てに追われて、中国での仕事のことも次第に意識が向かなくなってゆく。


 翌九十七年の春になって、私は課長昇進の内示を受けた。西岡も一緒らしい。また、ジョンヒョンは主任になるということだった。彼は親族の勧めで在日韓国人女性と見合いをし、結婚することになった。特別永住者の配偶者になれば在留資格取得も楽になり、これまでのように毎年就労ビザを更新する必要がない。

 ただ、私には迷いがあった。子供の就学前にはニュージーランドに移住する必要がある。このまま城東通商でキャリアを重ねて行って良いものだろうか。相場の仕事は好きだし、収入も悪くない。業種柄世間体は良くないが、職場の環境は気に入っているのだが……

 ある日、市況について新藤さんの取材を受けていると突然「森脇さん、たまには飲みに行きませんか? 去年の中国の記事のお礼もしてないし」と誘われた。

「最近、森脇さんの話にキレが無いような気がするんですよ」ショット・バーで飲みながら、新藤さんは失礼なことを言い始める。

 課長の内示があって現場を離れるかもしれないと言うと、「現場を離れると、気安く取材できなくなるんですか? つまらないですね」とむくれている。

 更に移民のこともあって、このまま城東に残るかどうかも迷っていると話してみたら、「だったら、うちに来ませんか?」と新藤さんが言う。

「近く、ポストに空きができるんですよ。若い連中はマーケットの取材が詰まらないのか知りませんけど、続かないんです。森脇さんは情報収集力や分析力があって、マーケットを動かすような話に鼻が利くし、絶対向いてますよ」

 何か凄く良いアイデアでも思い付いたかのようにまくし立てる。

「人手が足りなくて、困ってますか?」

 そう聞くと新藤さんはちょっとバツが悪そうに「いや、困っていないことは無いですが……」と言い、「それとは関係なく、森脇さんに来てもらえると助かります。私はこう見えて社内でそれなりに力があるので、採用は全然問題ないです。あ、英文の履歴書は出してくださいね。オファー書類を作るのに必要なので」と続ける。

「海外移住の予定なんでしょう? うちなら大洋州にも支局がありますよ」

 勝算があるような顔で、殺し文句を言ってきた。

 どうしたものかと応礼に相談すると「ダーリンが決めたことについて行くよ」と言うばかりだ。収入がどうなるなどといった生活の不安を気にしないので助かる。


 他にも声を掛けてくる人がいた。元外資銀行ディーラーの甘粕さんだ。城東通商が貴金属のディーリング部隊を設立するときに、金融先物取引を引き受けてもらった。

 円価の東工取先物の建玉たてぎょくに対応する数量のドル価の現物貴金属を商社と取引し、金利や通貨の先物を使って東工取先物相場と同じ決済期日である一年先の円建て価格に仕上げるオペレーションだ。さして多くもない取引に面倒がらず応じてくれる甘粕さんと飲みに行って話すうちに意気投合し、不定期に会っては相場や世情を論ずるようになった。

 外銀を辞めた彼は、不動産投資やコンサルタント業などで活躍している。久しぶりの再会で旧交を温めた後、甘粕さんが本題に入る。

「森脇さんは中国に詳しいでしょう? 奥さんは台湾の方で華僑のコミュニティーにも繋がっているし」

「どうなんでしょうね。あまり意識したことは無いですけど」

「今ね、上海で飲食ビジネスを考えているんですよ。それで、現地の状況を聞けないかと思いまして」

 甘粕さんはこのところ飲食業に乗り出し、独創的な手法である程度の結果を出しているという。今後は自分なりのアイデアで付加価値を付けた飲食業を通じて、中国市場に進出してみたいとのことだ。世間的には虚業と言われるビジネスで成功を収めてきた甘粕さんには、実業での成果に対する渇望があるのかもしれない。


 私は三年半の体験を甘粕さんに語った。わずかな期間に変化するダイナミックな社会の様相と、利権が重要な一方でそれにより足を掬われることも。

「まあ、ビジネス書にも書いてあるような体験談ですけどね」

「いや、経験者の口から直接聞くのは違いますよ」

 甘粕さんの中国での飲食ビジネスは、親族の人が手伝ってくれるという話だ。親族は頼りになるが、時として他人より冷淡で厄介なことがある。そんなことも脳裏をかすめたが、やり手の甘粕さんなら心配は無用だろう。

 今日はありがとうございましたと笑顔で別れを告げる甘粕さんの姿が、少し眩しかった。二十一世紀に向けて、中国は更に経済発展を加速するだろう。その中国市場にこれから挑戦する者と、既に退場した者。

 ただ、自信に満ちた甘粕さんと話して、今の自分の迷いについて背中を押されたような気がした。

「いつまでも、感傷に浸っている場合じゃないな」

 とりあえず、英文の履歴書でも書くか。私は星空を見上げて深く息を吸い込み、それから前を向いて歩き始めた。


(完)

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社長、中国で大変なことが! 相禅 @Sozen

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