7-3 仕手戦?

 その後取り立てて動きがないまま年を越し、九十六年を迎えて早々に応礼の妊娠が分かった。彼女の働いていた子供服メーカーが前年秋に放漫経営のため廃業し、それを機に私たちは南大井から横浜に転居していた。応礼は中華街に近い山下町の小さな会社で経理のアルバイトを始めていたが、妊娠中も六月くらいまでは勤め続けることにした。

 出産予定は九月で、ニュージーランドの親元で出産する計画を立てている。台湾のパスポートを使ってビザなしで滞在できるのは三か月間のため、七月に渡航と決めたのだ。

 私が水天宮で安産祈願をして腹帯を買うなど落ち着かない日々を送っている一方で、横浜の生糸相場に異変が起きていた。


「エクセレント三十買い、ナカミチ五枚買い、売りハナ六十枚。ストップ高気配……ストップ高抽選!」

 場電が伝える生糸相場のセリは今日も一日の制限値幅上限のストップ高で、もう五日連続だ。値動きの荒っぽい乾繭や生糸の先物がストップ高やストップ安を繰り返すのは珍しいことではないが、問題はプレーヤーにある。エクセレント商事だ。同社は仕手筋や商社の機関店ではなく、新興急成長の大衆店なのだ。そのため、普段生糸市場で目立つことはなかった。一般の投資家が手を出すには余りにも危険な市場のため、大衆店が生糸相場を主導するのは難しい。

「どこかの仕手筋が目くらましで資金を入れて使っているのかと探ったけど、結局該当無しだよ。やっぱり中国 ぎょくか? 先月もカモと見て売り向かった連中を散々踏み上げさせたけど、最後は崩れる相場から離脱できなくて自分が大損だったろう? 何がやりたいんだろうな……」

 全限月ストップ高を付ける横浜生糸相場の価格ボードを見ながら、西岡がぼやく。エクセレント商事といえば、広州のヘルメット総裁が率いる富盛期貨が思い浮かぶ。だが、環期公司や他の中国企業の取引店が目立って生糸相場に参入している気配はない。富盛期貨単独の行動であって、中国で生糸相場ブームが起きているわけでもなさそうだ。

 更に、西岡が言うように先月エクセレント商事からの大量注文は生糸相場を買い煽った挙句、離脱に失敗して損失を出している。今も捲土重来を狙ったかのような更に大きな仕掛けで連日のストップ高だが、エクセレント商事は売り抜けている様子が無くこのままでは前回の二の舞だろう。

 結局、翌週崩れ始めた生糸相場はストップ安の連発で上げ幅を帳消しにするに止まらず、エクセレント商事の売買は再び大損害で幕を閉じた。仕手戦は大衆心理を操作して相場を煽り、上手くこっそりと売り抜けることが鍵となる。中国玉はこのところ市場で存在感を強めているものの、生糸のような玄人相場に手を出すのは早すぎたな、というのが市場の大方の見方だった。


 しかし、広州鴻隆期貨の梁総裁によるとそう単純な話ではなかった。

『今、こちらは大混乱ですよ』と梁氏は嘆く。

 富盛期貨はエクセレント商事を通じた横浜生糸先物の取引で、億単位の損失を連続で出した。それは私たちも良く知る話だ。一方で、東南アジアや中国現地のブラック・マーケットでは同社は巧みに売りに回り、巨額の利益を上げたのだという。

 自分たちが日本で操作している市場の価格を使って値段の決まるブラック・マーケットだ。答えが分かっているテストのようなもので、ブラック・マーケットで十分に高値売り玉を積み上げたタイミングを見計らい、稚拙な手仕舞い売りを仕掛けて横浜市場の指標相場を崩壊させる。日本では数億の損失を出しながら、ブラック・マーケットではその何倍もの利益を荒稼ぎしたのだ。

『ブラック・マーケットに関わっていた会社がいくつか破綻しました。大損した投資家も多く、ちょっとした社会問題になっています。更に悪いことに、軍や党の関係者の資金を扱っている会社にも問題が波及しています……』

 詐欺的な手法で中国社会の多くの企業や人に損失を与え、利益の一部を損金として海外市場に流出させるというのは由々しい事態だ。梁総裁は、海外先物取引に対する風当たりが強くなっているので、しばらくは自重が必要かもしれないと言った。

 武漢弘達期貨の邱総裁に連絡したら、『中国の商売は、見切りどきが重要ですよ』と普段テンションが高くイケイケの邱氏の言葉とも思えない。

 環期公司も、当然事態を把握していた。同社はブラック・マーケットには関与していないが、通常のゴム先物取引で損をした顧客の一人が報道に影響されて広州支店に怒鳴り込んできたらしい。周さんらが論破して追い払ったそうだが、そうした風評被害も出始めているのは深刻だ。


 悪いニュースは続く。出産を控えた応礼がニュージーランドに出発して久しぶりの一人暮らしを始めた頃、南京から羅主任失脚の情報が届いた。規律違反で解任され、取り調べを受けているという。

 南京環期の胡総経理から聞いたところでは、国有企業でトレーダーとして活躍していた羅主任の息子が銅取引で大きな損失を出したらしい。彼は一九九三年以降の銅の上昇相場で成功を収めて一躍名を挙げたのだが、上昇が一服した九五年からは苦心していた。今橋商事の吉崎部長にアドバイスを求めたのも、そうした背景があったわけだ。

 価格が一定水準に留まるボックス圏に入ったので、それまでの上昇トレンドを追う順張りから相場の上下の振れを狙う逆張りに変えた。順張りよりも一取引当たりの利益幅が小さいので儲けのために取引量を拡大し、社内規則による取引制限も自身のそれまでの実績と省政府幹部である父親の威光により骨抜きにしてきたという。そこに世界的な銅相場の急落があって損失が膨らみ、意地になって買い下がっているうちに相場は更に下落して取り返しがつかなくなったという顛末だ。

 この銅相場急落、実は今橋商事が引き金を引いている。この年の六月に同社非鉄金属部長吉崎氏による巨額の簿外銅取引が発覚し、パニックに陥った経営陣の判断は、簿外取引の迅速な処理のため吉崎氏が隠してきた膨大な買い玉を一刻も早く処分することだった。マーケットを無視した連日の投げ売りで銅相場は下落を続け、今橋商事は最終的に二千億円を超える特別損失を計上することになる。


 羅氏の息子は、その混乱に巻き込まれたことになる。憧れたスター・トレーダーは自分と同じように苦しみと闇を抱えており、結果として吉崎氏の負の遺産に引導を渡されて自らも市場から退場という形になった。

 もっとも、当時の世界の需給状況から見て銅相場の大きな下落は不合理と考えられ、また世界的な大手商社が損得勘定も長期的な展望もなくパニック的な処理を断行することも想像できないだろう。不運の要素も大きい。

 とはいえ、羅主任の威光を笠に着た規則違反がなければ、取引量は限定的で損が膨らまなかったのも確かだ。その件で羅氏親子の責任が問われるのは当然だろう。ただ、こうした形で一度拘束されると、罪状は次々に膨らむことが多い。中国の役人や企業幹部であれば、誰もが程度の差はあれ不正や違法な便宜供与に手を染めているからだ。違法とは分かっていても、潤滑油である賄賂などの不正抜きには組織も社会も回らないのが中華の伝統と言える。

 全員が脛に傷を持っているからこそ、権力闘争で隙を見せると風向き次第で突如弾劾される可能性を抱えているのだ。羅氏の失脚により江蘇省では海外取引規制派が勢力を伸ばすが、全国的にも規制強化の流れに傾きつつあった。逆に言うと、全体にそういう大きな流れが始まったので、羅氏は普段ならもみ消せるような失敗で地位を追われたとも考えられる。

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