7-2 南京からの呼び出し

 調査団の帰国からしばらくして、私は九月の初めに夏休みを取りシンガポールとマレーシアを訪れた。まだ新婚旅行をしていなかったのだ。シンガポールでは、城東シンガポールの人たちと会う。私は何度もシンガポールのオフィス来ているが、応礼が現地のスタッフと会ったのは初めてだ。それから、マレーシアのリゾート・ホテルに向かいのんびり過ごした。


 楽しい旅行が終わると、また中国出張が待っている。江蘇省政府から会議に招待されたのだ。地元政府の規制方針を巡る議論の参考人として、意見を聞かせてほしいと言う。旅費まで出してはくれないが、現地の滞在費は先方持ちということで、許君と二人で南京に向かうことになった。

 上海で一泊してから鉄道で南京に入る旅程だ。許君は入社前に一度帰省したそうなので、半年振りの上海となる。地元出身の許君と一緒ということもあり、シーズンの始まった上海蟹を食べに行くことにした。ホテルの近くから、開業したばかりの上海地下鉄で人民広場駅に向かう。少し見ない間に変化する中国には驚かされるばかりだ。

 許君に連れられ、清朝時代末期に創業という老舗のレストランに入った。上海蟹は秋から冬にかけて旬を迎え、九月の下旬のこの頃にはメスが卵を抱えている。許君に教わりながら足を取り外し、甲羅を開いて濃厚な味の味噌と卵を味わう。黒酢がよく合って、味に変化を付けられる。身はタラバ蟹などに比べると少量だが、風味がしっかりしていて非常に満足度の高い食材だ。


 翌朝は再び地下鉄で上海駅に移動だ。列車に乗り込み、駅のホームの露店で買ったミネラル・ウォーターを一口飲んだ許君が顔を顰める。

「これ、水道水ですよ! 中国に帰ってきた実感ですね。日本暮らしが長くなると、つい油断します」

 日本でも場末の安い飲み屋に行くとミネラル・ウォーターが水道水なんて話はよくある。だから私はどこへ行ってもソーダ割しか飲まないのだが、日本ではたとえ水道水であっても飲んで顔を顰めるほど不味くはない。日本生活が長くなった中国人が里帰りして飲料水や食用油で腹を壊すという話はよく聞くので、許君も気を付けないといけないだろう。

 上海を出発した列車は、蘇州や無錫などを経て南京に向かう。上海蟹は有名な陽澄湖や太湖以外にも、これら江蘇省南部諸都市周辺の湖で広く養殖されている。蘇州は高校の漢文で習う「楓橋夜泊」の舞台だ。「月落ち烏啼いて霜天に満つ」で始まる漢詩は多くの教科書に掲載されているが、そこに描写される「姑蘇城外寒山寺」は清朝時代に再建されたものが現存している。

 中国人にとって不思議なのは、日本人が中国の古典や漢詩に馴染みが深いことだ。必須科目の国語で習うため、ある程度真面目に勉強していた人であれば漢詩や古典の一節が口をついて出てくるのは珍しくない。しかし、実用性の乏しい古典外国語を学ぶのは理解に苦しむようだ。

 四時間ほどの鉄道の旅で南京駅に着いた。軟座のシートとはいえ、長時間座り続けると疲れる。南京駅は街の北側に位置しており、線路は更に続いて以前見に行った長江大橋を渡って安徽省方面に向かっている。前回泊まったホテルは駅から近そうだが、今回は省政府の手配なので夫子廟地区という観光地の真ん中で宿泊だ。着いてみると老舗の佇まいを見せる落ち着いたホテルだった。景観地区なのでガラス張りの高層ホテルは建てられないのだろう。


 夕食をどうしようかと思案していると、許君が夜市に行ってみようと言う。ホテルの近くに有名な場所があるらしい。川沿いに公園や古い建物が並び、数多くの露店が出店している。

 屋台で買ったファーストフードを摘まみながら、露店を見て回る。書画や硯などを売る店も多い。印材屋を眺めていると、鶏血石が目を引いた。鶏血石は岩石に含まれる赤鉄鉱が酸化して鶏の血のような鮮やかな模様が入った石で、昔から印材として人気がある。

 台上に置かれた幾つかの鶏血石のうち、赤色部分の面積は大きくないが美しい入り方をした一点が気になったので手に取ってみる。ひんやりとして重量感もある。いくらだと聞くと、店主は『七百元』と答えた。日本円にして一万円を超える。

「そんなにするものなのか……」

 是が非でも欲しいわけではないので、少し興味が薄れた。夜市の露店なので、偽物という恐れもある。しかし、私に未練があると思ったのか、許君が「値切ってみましょうか」と言い『三百五十元でどうだ』と交渉する。

 店主は笑って首を横に振る。どうやら日本人と思しき私なら出せる金額だと考えているのだろう。二人は交渉を続けるが、中々決着しないようだ。許君が「じゃあ、もういいよ」というような態度を示し、私に「行きましょう」と言って踵を返して歩き始めると、途端に店主が根負けしたように『ちょっと待って、分かった』と声を掛けてきた。結局四百五十元で鶏血石の印材を入手した。偽物かもしれないが、それも旅の醍醐味だ。


 夜市巡りの翌日、江蘇省政府のビルの会議室で、私は役人たちが会議をするのを所在無く眺めていた。環期公司の胡総経理と、初めて会った先物取引会社の代表も同席している。

 話し合っているのは、先般日本を訪れた羅主任ら発展改革委員会のメンバーと市場の監督管理をする組織だ。羅氏らは海外先物取引を育成しようとしており、監督管理局は規制を強化しようとしていると胡総経理が説明した。それぞれの勢力には関連する業界が居て利権構造があるため、両者の利権確保や拡張を巡ってせめぎ合っているようだ。環期公司は、羅氏を中心とする利権グループに属している。

 一九九二年から九三年にかけて、中国の先物市場は取引所や取引会社の乱立で混乱を極めた。そこで規制が行われて国内市場や企業の淘汰が進められる一方、海外先物市場の利用についても制限を強化する議論が続いていた。一応原則禁止となっているはずなのだが、環期公司など条件を満たす優良企業は海外での取引を続けている。

 監督管理局としては、自分たちの縄張りである国内市場を整備してきたのでそこを更に育てるべきだと主張する。また、発展改革委員会の庇護下にある先物取引会社が自らの監督の及ばない海外市場でビジネスを続けるのも面白くないのだ。北京の中央政府は大まかな方針を示しているが、実際の運用は各省の政府の裁量に任されることもあり、こうして省の方針について意見交換が行われている。

 私の証言が求められ、日本では取引員が許認可制なため法令違反には厳しい処罰があること、顧客との取引や資金管理の記録内容は長期保管が義務付けられており、当局の求めに応じて提供が可能であることなどについて説明した。監視や情報収集はいつでも可能なのだ。

 どちらの側も決め手になる話題は無く、すぐに結論の出るような話でもないので、会議は双方意見を出し合って閉会した。胡氏の感触では、こちらが優勢でしばらくは現状が続くのではないかということだったが、彼の希望が含まれた見解かもしれない。


 夜になると今日の会議の参加者で宴席が設けられた。遥々外国から来た私は主賓のような扱いとなっている。羅主任と監督管理局の唐局長の挨拶で乾杯して宴会が始まった。二人の地位は、序列で言うと羅主任の方が上のようだ。

 早速監督管理局の人々が私の来訪を祝してと、乾杯攻勢を掛けてくる。胡総経理は外国の客人に無暗に酒を勧めるのはどうかと窘めたが、監督管理局員の一人が『遠来の客をもてなさない方が失礼』と意地悪く笑いながら、蛇の血を垂らした白酒を『名物なのでどうぞ』と勧めてきた。白酒は高粱などを原料とする穀物酒を蒸留して無色透明になったためそう呼ばれており、アルコール度数六十度の強い酒だ。会議が思い通りに進まなかったので、嫌がらせに私を酔い潰そうというのだろう。

 守勢に回るのは良くないなと思った私は「訪日団の方々とは先日交流しました。監督管理局の皆さんとは今日初対面ですので、よろしくお願いします」と宣言して、次々と飲み比べを挑んだ。最初は盛り上がったものの、案の定五人目くらいのところで『酒ばかりで折角の料理が進まないのはもったいない』という愛想笑いと共に飲み比べは終わった。顔色も変えない私に対し、胡氏は『森脇さんは海量級ハイリャンジーですね』と感心している。「海量」は大酒呑みを意味する。


 私は酒に弱い方ではないが、決して酒豪というわけではない。かなり飲んでも泥酔することこそないのだが、翌日胃の具合が著しく悪くなる。この日も無事に宴会を終えてホテルに戻り、シャワーを浴びてベッドに入るまでは良かったが、夜半から嘔吐のためトイレへの往復が続く。胃の中はすぐに空になり、水を飲んでは胃液と一緒にまた吐き戻すという過程の繰り返しだ。翌日は昼近くまでダウンしていた。

 二日酔いと言っても頭痛などはなく、ひたすら嘔吐を繰り返して胃が落ち着くのを待つしかない。普段から金曜の夜に飲み過ぎると、土曜が終日潰れてしまうことも珍しくなかった。会社でも私が偶に酷い二日酔いのため会議室で寝ていることを知る許君は、朝起きて来ない私の事情を察して声を掛けた後一人で南京を散策したようだ。

 昼食にお粥を食べると、胃の具合は次第に回復してくる。午後は南京市街を見て回り、翌朝早い時間の列車で上海に戻った。上海市街の手前となる上海西駅で降りてタクシーを拾い、虹橋空港に向かう。市街地に入らないので比較的スムーズに移動できた。ところが空港の出国審査のところで、許君だけ別室に呼ばれた。戻ってきた彼は憤慨している。

「予防接種を打たないと出国できないと言われて、お金を払わされました。打たれたのは、どうせビタミン注射か何かでしょう。自国民からお金を巻き上げることしか考えていない。がっかりですよ」

 確かに空港職員の小遣い稼ぎなのかもしれないが、海外に出る国民の健康のためという大義名分がある限り、強く文句は言えない。これもまた中国の日常だ。

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