2-2 新人教育

 部長の話の後は、グループで集まって今日の連絡事項を伝える。

『さっきもブチョーが話していたように、中国とのビジネスが本格的に始まる。エリック、ちゃんと理解していたよね?』

『私の日本語能力を嘗めないで欲しいね。半分くらいは理解したよ』

『まあ、後でゆっくり説明するとして、リンちゃんがバック・オフィスから異動するよ、サリー。皆もよろしく』

『まかしといて』

『中国からの注文受けがあるからね。証拠金は来週くらいに送ってくるみたいだ。それまでに受注のテストをする。ファックスと電話を使って、実際の注文を出すタイミングで連絡してもらうよ。ファックス注文は英語で書くと言ってるけど、中国語で書いてくる可能性もある。まあ、不明瞭な英語で書いてくるより、中国語の方がいいかもしれないね』

『それで、どの商品を取引してくる予定なんですか?』ジョンヒョンが訊ねた。

 環期公司は当初様子を見ながら注文を出すと言っていた。市場規模が比較的大きい大豆の取引から始めるらしい。現在の中国は世界最大の穀物輸入国となっているが、九十年代初めのこの頃は食糧自給率が百パーセントなので、米国産大豆の価格と中国国内の大豆価格との相関性はよく分からない。何となく投機取引の匂いが感じられる。

『あとはいつも通りなので、皆よろしく。そろそろ神戸ゴムの取引が始まるぞ。円安の分、高寄りするだろう。ゴーさんが電話してくるかな。サリー頼むよ』

 サリーが「ОKラー」と言って席に着くと、すかさず電話が鳴った。前夜のニューヨーク市場での為替相場の値動きから予想される円建てゴム価格について彼女がシンガポールの顧客と話していると、館内放送で場電係の声が流れ始める。サリーはその内容を英語に通訳して顧客に伝えている。

「神戸ゴム寄り付きです。当限とうぎりは八十六円三十銭から。ヤマカネピン買い、マルエー三枚買い。売りハナ四枚、六円四ぐらい……五ぐらい。六ぐらい。サンシュー二枚売り、売りハナ二枚……七ぐらい……六円七十銭決まり! エスケー売って二枚。七月限は八円五から。声なし……バイカイ気配。八円五バイカイ。八月限は……」


 日本の商品先物取引はかつて、「板寄せ」という特殊なオークション形式で行われていた。取引所の高台にセリ人が立ち、その周囲を各商品取引員の代表である場立ちが取り囲んで一銘柄ごとに値決めのセリを開始する。場立ちはそれぞれの本店業務部からの電話の指示でセリが行われている銘柄の売り買いの数量を手振りで示し、壇上のセリ人はどの会社がどういう注文を出しているかを読み上げ、計算した売買それぞれの合計の数量差を「ハナ」という用語で場立ちに伝える。場立ちがその様子を自分の会社の業務部に伝え、それを聞いた場電係が社内の館内放送で各部署や店頭を訪れた顧客に伝える。私たちが聞いているのはそれだ。

 「売りハナ四枚」は買い注文の方が四枚多くて、誰かが四枚売れば売り買いの数量が均衡することを意味する。取引単位はどの商品でも「枚」と表現される。買いの枚数が多い売りハナの場合セリの値段は引き上げられて売りを誘い、反対に売りの枚数が多い買いハナになると値段を引き下げて買いを誘う。売り買いの枚数が均衡した時に高台のセリ人が唱えている値段が、この板寄せ取引で決定した価格だ。報告された売り買いはすべて、セリで決定した単一価格で取引成立となる。


 ゴムや大豆、白金などそれぞれの商品には現物商品の受け渡し時期ごとに「限月げんげつ」と呼ばれる区分があり、今月や来月に引き渡しが行われる当限から半年後や一年あるいは一年半後に受け渡しの行われる先限まで、一限月ごとに板寄せで値決めをする。当限から先限までの一回のラウンドを「節」と呼び、午前中の前場一節から前場二節と続き、午後の後場三節まで一日に四回または六回の節がある。前場一節は寄り付き、後場の最終節は大引けと言われる。

 一日の始まりは、午前八時五十分に始まる神戸ゴムの前場一節だ。欧米の先物市場では翌月や三か月後など受け渡し期限が比較的近い限月が取引の中心となるが、投機の博打場としての性格の強い日本の市場では、取引期間が長くその間の価格変動に対する期待値が大きい先限に人気が高い。

 場電係とつながる場内電話の前に座る事務の女子社員は、予め受けていた注文を伝え終えると帳簿の整理をしながらサリーや電話をしている他の営業社員の様子にも神経を向ける。セリを聞きつつ、流れを見て注文を出す顧客がいるためだ。


 セリが期先限月の佳境に近づいて次第に盛り上がる場電を聞き流しながら、私は事務の席に向かう。国際事業部に所属する事務社員は二人居て、二十代後半の田崎さんと高卒三年目の倉本さんだ。応礼はこの二人の仕事を手伝いながら業務の流れを覚えている。私は田崎さんに声をかけて応礼を借りる。

 椅子を私のデスクの横に持ってきて手招きすると、応礼は少し緊張した面持ちで腰かけた。

「向こうで挨拶とかいろいろ中国語で話してみたけど、やっぱり上手くいかなかったよ」

「どう言いましたか?」

 私は応礼にセミナーでの挨拶など、使った中国語を話してみた。何と言っているかを紙に書いて見せる。

「係長の発音は、時々三声で話すところが二声に聞こえますね……」

 中国語の発音には四つの声調があって、これを間違えるとほとんど通じなくなる。日本語のアクセントは高いか低いかしか意識しないので、日本人には意識的な四つの声調の使い分けは難しい。その点英語は発音が雑でも比較的通じるので、会話するには使いやすい言語ともいえる。

「前途多難だな……」

「練習しないと難しいですね。大学の同期の日本人に、留学したらものすごく上手になった人がいました」

「量をこなすしかないようだね。それはともかく、前から話した通りフロントでお客さんの対応をしてもらうよ。ちょっと早めになったけど。とはいえ、実際の商売は証拠金が届いてからだから、まずはテストだね」

「電話がかかってきますか?」

「基本はファックスで、急ぎの注文は電話ということだね。約定通知もファックスで送ろうと思うけど、文章を考えるから、中国語に翻訳してくれるかな」

 応礼はメモを取りながらうなずく。

「それと、明日からは朝のチーム・ミーティングにも出てくれる? 英語で話しているから、分からないことはサリーか私に聞いてくれたらいいよ」

「はい、それで今やってる事務の仕事はどうしますか?」

 元々研修のような形で事務仕事を覚えてもらっているだけだから、応礼が抜けても問題ないはずだ。しかし、急に外れると問題があるかもしれない。課長と相談して調整するか。

 そう考えていると、客と通話中のサリーが突然大きな声を上げる。

とお枚買ウ!」

 彼女は人差し指を立てて握った手の甲を、事務の女子社員に向けて横に振っている。

 倉本さんがすかさず場内電話の受話器を取ってオウム返しに場電係に伝えた。応礼もサリーの声に反応してそちらを見ている。注文は場電係から取引所の場立ちに伝達される。サリーのやった仕草は、場立ちの手振りの真似だ。相手に手のひらを向けるのが売りで、甲を向けるのが買い。人差し指一本を立てるとピンで、それを左右に振れば十、グルグル円を描けば百を表す。

「とりあえず、今日のところは今まで通り事務をやってくれるかな。来週から完全にフロントに移ってもらうけど、今すぐやることもあんまりないしね。環期さんへの通知ファックスの原稿ができたら渡すから、翻訳にかかってくれると助かる」

「わかりました。原稿ができたら教えてください」

 応礼が事務の席にもどり、私はワープロに向かって出張の報告書を書き始めた。隣では、エリックが難しい顔をしてタイプライターで客先への手紙を書いている。

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