2-3 図々しい男

 途中で打ち合わせに駆り出されたため、報告書とチーム閲覧用の英文概要を書き上げる頃には十一時を回っていた。昼飯は会社の食堂で食べるのが安上がりなのだが、今日は社外に出て居酒屋のランチでマグロの中落ちでも食うとしよう。

 社員用の通用口を出たところで、後ろから呼ぶ声がある。

「よう、森脇。今から昼メシなら一緒にどうだ?」

 ワイシャツの腕を捲った、体格のいいギョロ目の男が追いかけてきた。法人営業部の西岡弘だ。私より数か月早く城東に中途入社した彼とは、年齢が一緒で役職も同じ係長ということもあり比較的仲良くしている。食事は一人でという主義でもないので、同道することにした。私が混雑を避けて十二時より前に昼食に出かける事が多いのを知っているから、それに合わせて情報収集に来たのかもしれない。西岡は商社を担当しており、客先への土産話になりそうな大口顧客情報にはいつも興味を持っている。


 商社は、先物市場と現物市場の価格の乖離を利用した裁定取引を活発に行っている。投機の買い人気が高い先物を乖離の広がったところで売って同時に割安な現物を買い、先物の受け渡し期限まで待って購入済みの現物を引き渡せば利益が確定する。現物取引を行っている商社のトレーダーから見たら、大勢の素人が買いで参入して割高になりやすい日本の先物相場は貯金箱のようなものだった。

「出張お疲れさん。どうだ、中国は? 面白い話はあったか?」

 歩きながら西岡が話を振ってくる。

「どうかな、お前が面白いと思う話かどうかわからんけど」

 念のため少し遠出して同業者のいなさそうな店にした。この季節だと食事に出かけるときはワイシャツ姿だが、上着を着るような気候だったら用心のため襟に着けた社章のバッジは外すところだ。当時のサラリーマンはスーツにネクタイ、そして襟の社章が正装だ。酒井部長など役員は金バッジの社章を付けていたが、ヤクザみたいなので止めてほしかった。店に入るとランチにはまだ早いのか空いているが、隅のテーブルに陣取って注文する。


「今はシカゴの穀物とニューヨークの原油を中心に取引してるようだな。建前は国有企業のヘッジだから、国債ボンドみたいな金融系はできないだろう」

「日本でも穀物か? やっぱり」

「穀物、砂糖、ゴムあたりかな。貴金属は難しいだろうね。銅みたいな非鉄があればよかったけど」

 この頃、日本の商品先物市場ではエネルギーや非鉄金属の取引はまだ行われていなかった。台湾や東南アジアでは仕手戦が多く値動きの荒い生糸や乾繭の相場が人気だが、中国ではどうだろうか。

「一応、商品価格のリスク・ヘッジ目的ってことになってる。あと、客情報は秘密だからな」

「分かってるって。提携話自体は業界じゃ皆知っているからいいだろうけど、手口教えろとまでは商社も言ってこないよ」

 そんなことを言って、仕手筋や大口当業者の売買動向分析を商社にご注進しているのが法人営業部だ。商品取引員が商社との取引を勝ち取るのは、情報分析力と現物市場から乖離した先物の価格を崩さずに商社が希望する数量の売買を執行できるディーリング力によるからだ。


「一応ってことは、投機取引もそれなりなんだろう?」

 西岡の予想は正しいだろう。香港や台湾の株式相場見てれば想像は難しくない。

「まあ、最初からドカドカは来ないだろうよ。様子を見ながらじゃないか? 板寄せで取引するのも初めてなんだろうし」

 あまり期待させても仕方ないので、控えめな話をしておく。西岡のことだ、どうせ来週になったら各部署の預かり金残高の変化を見て売買量の予想を立てて来るに違いない。

「森脇は吹かしてこないから詰まんねーよな。お前さ、もうちょっと景気よく話さないとツキも回ってこないぞ」

 テーブルの上でおしぼりを弄びながらそんなことを言う。ただし、こいつは虚勢を張る相手に対しては小馬鹿にした態度を取る。法人部の派手な仕事に対するやっかみに加え、そういう性格もあって西岡は個人営業部門の連中からは好かれていない。周囲からの悪意を意に介さない所も西岡を嫌う連中の癇に触るのだろう。私は無用な摩擦が面倒なので、万事控えめにしている。簡単な情報交換をしつつ昼食を終え、連れ立って会社に戻る。本格的なランチタイムになったのか、通りには人通りが増えていた。


 事務所に戻ると、他のスタッフはまだほとんど昼休みで出払っているようだ。私は業務端末で前場の各市場のコメントを流し読んでから、自席で再びワープロに向かう。午前中に書いた報告書の校正をするためだ。少し時間を置いてから見直した方が効率は良い。校正を終えてプリントし、田端課長が戻ったら提出だ。

 報告書が一段落したので、お茶を飲んで一服する。朝一番は女子社員が全員に淹れてくれるくれるが、その後は自分が飲みたい時に給湯室で勝手に用意する。他部署には毎回女子社員にお茶を頼む親爺もいるが、そういう昭和の風習は次第に廃れつつあった。

 飲み終えたら湯飲みを洗い、応礼に翻訳させる約定通知やその他の文案を考える。環期公司で現在使っている相場用語のメモも添えてとりあえず完成だ。ちょうど昼休憩から戻った課長が業界誌を読み始めたので、報告書を持って行く。

「課長、いいですか? これが出張報告書で、こっちがチーム内回覧用のまとめです。あと、この原稿はリンちゃんに翻訳させて環期さんへの通知に使います。バックの仕事は外して、もう翻訳にかかってもらっていいですかね」

「いいよ。事務の連中にはさっき話しといたから」

 話を通しておいてくれたのか。早速事務のチームのところに行く。

「係長、リンさんって、もうバックの仕事はしないんですか」 

 倉本さんが聞いてくる。彼女は会社では応礼より先輩になるが、年が下なのでリンちゃんとは呼ばない。

「いきなり忙しくなることもないから、しばらくはこっちも手伝ってもらうと思うけど」

「リンさん覚えが早くて最近は割とあてにしているから、いてもらった方が楽なんですよ」

「君らの指導が良いからでしょ。まあ、様子を見ながら判断だな」

「指導が良いと思うなら、何かご褒美がないとねー」

 田崎さんが笑ってそういうと、倉本さんもうんうんと頷いている。山査子煎餅のお土産は気に入ってもらえなかったようだ。お菓子の差し入れが必要なようなので、了解しておく。そして応礼を伴って自分の席で翻訳用の原稿と資料を拾い上げ、応礼の席に移る。サリーの隣だ。

「翻訳してほしいのはこの内容です。資料はこっちを見てくれるかな。ざっと見て分からないところはある?」

 応礼は紙をパラパラとめくって首を横に振り、とにかくやってみますと言った。困ったら声を掛けるように言って、私は自席に戻る。応礼が手書きで翻訳したものは、私がワープロに入力する。もちろん中国語は入力できないので、日本語の旧字体で漢字を打つのだ。私の日本語ワープロは、中国で使われているような簡体字には対応しておらず、現代日本で使われている漢字は中国とは簡略化の方法が異なる。環期公司の人たちには少し不便をかけるが、今は仕方がない。


 一時間半ほどで、応礼は翻訳を終えた。日頃見ている伝票や帳票に使われている用語なので理解は難しくはない。ただ、ものによってはそれを中国語で何というのかが分からないので、辞書や台湾の経済用語辞典を利用して何とか仕上げたようだ。

 また、どこの国でも市場用語には独自の言い回しがある。例えば日本語の「売買」は、中国語でも簡略化の形は違うが元は同じ漢字を使う。日本語の場合大和言葉で「うり」「かい」と言い代えて区別できる一方、中国語ではどちらも「マイ」「マイ」と発音するしかない。買は日本語標準アクセントの「埋蔵金」のマイの発音に近く、賣は「マイク」のマイの発音に近いので、聞いて区別ができるとはいえ分かり難いのも確かだ。そこで買いは「買進」売りは「賣出」と表現される。「進」は中国語だと、入るという意味になる。

 続いて、城東通商の会社案内と業務マニュアルの翻訳を応礼に指示した。既に英語版はあるが、中国語版ができていないのだ。事務の仕事で馴染みのある業務マニュアルの翻訳は比較的スムーズに進んだものの、会社案内の翻訳には苦戦したようだ。応礼からの質問が増え、移動が面倒なので席を並べて説明することが多くなった。注文のテストも進めた。受け取ったファックスに返信してどちらも明瞭に届くことを確認し、応礼は電話で環期公司の担当者に挨拶もした。もう、抜かりはないはずだ。


 そうしているうちに環期公司の証拠金が届き、翌日には初注文のファックスを受信した。ご祝儀相場というのが中国にもあるのかは分からないが、結構な数量だ。約定後に応礼が先方の担当者に電話し、懸念点などを確認した。今のところ問題ないということだった。ご苦労さまと私が言うと、応礼はこちらを見てくすぐったそうに笑った。一仕事済ませた満足感の余韻に浸っていると、西岡がひょいと現れる。

「なあなあ、国際事業部の預かり金がえらく増えてたみたいだけど、今日の大豆とかの注文が中国のなんだろう?」にやけた顔でそんなことを言ってくるので、余韻が台無しだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る