香港から投資ブローカーが来たらしい!

3-1 規制は好機

 環期公司との取引が始まって三か月余りが過ぎた。商いはまずまず安定している。競合他社でも中国の業者からの注文を受けているという噂も聞こえ始め、複数の中国企業が日本市場に参入しているようだ。一方で、中国での規制の噂も環期公司からもたらされた。中国では余りにも無秩序に取引所や先物ブローカーが乱立し、詐欺まがいの商売も目立つため、政府が基準を設定して免許制導入を計画しているという。

 そうなると多くの怪しい取引所や会社が淘汰され、生き残った会社にはそれなりの機能や実績が求められるようだ。海外商品先物の取引は原則禁止となり、取引するには優良な海外企業との契約による委託実体が必要になる。


 そんなある日、酒井部長が田端課長と私を呼ぶ。二人で部長のデスクの前に椅子を持って行って座った。

「昨日代議士の菊川先生のパーティーに行ったんだけどさ、秘書から香港のコーディネーターを紹介されたんだよ」

 商品取引業は経済産業省や農林水産省の監督下にある許認可事業で、また陳情などの窓口にもなるため普段から国会議員との付き合いは欠かせない。政治資金集めのパーティー券を購入し、会場に顔を見せるのも取締役である酒井部長の仕事の一つだ。議員やその秘書に挨拶して支援していることをアピールし、後は顔見知りの業界人や他業種の参加者と雑談して帰ってくるのが普通だが、この日は私設秘書の一人に声を掛けられたという。

 秘書は馬志元と名乗る香港人を部長に引き合わせた。馬氏は日本留学の経験があり酒井部長の大学の先輩に当たるらしい。香港と中国大陸、そして日本を行き来しながら投資関係の仕事をしているということだった。馬氏の中国側のパートナーがいくつかの中国企業から相談を受けており、日本市場に商品先物の注文をつなぐ伝手を探しているという。規制のハードルを越えるのに懸命な企業があらゆる所に声を掛けて、その一環で日本にパイプのある馬氏にも話が回ってきたのだ。城東と環期公司との提携は業界誌にも報じられていたため、秘書からはその手の話に意欲があると思われたのだろう。馬氏が案内するから、広東省広州市と深圳しんせん市の企業を訪問して話をしてみないかという誘いを受けた。

「社長に報告したら、菊川先生のところからの話だから無下にできないし、環期さん以外にも大口客が増えれば儲けものじゃないか、だとさ」

「その馬さんって人、信用できるんですか?」

 そう聞いた課長の疑念はもっともだ。代議士秘書の知り合いという属性は信頼性と全く関係ないどころか、むしろ胡散臭い人物も少なくない。とはいえ、私たちにも北京での環期公司との取引だけでなく、発展する中国南部の深圳や広州の状況を見てみたいという気持ちはあった。それに秘書や馬氏にしても是が非でも取引をと希望しているわけではなく、面子が立つようにして欲しいだけだ。結局酒井部長と私が出張することになった。前回の北京出張時に、再訪の可能性が高いため数次ビザを取得したのが役に立つ。出発は二週間後らしいので、その前に馬氏を交えて打ち合わせをする。


 菊川事務所に連絡すると、日を置かず馬氏が城東通商を訪れた。五十がらみで大柄な馬氏は穏やかな表情の紳士だが、眼鏡の奥には隙の無い目つきがうかがえる。油断のならない海千山千の投資ブローカーなのだ。

「今回は助かりました。ワタシも日本の銀行や証券会社とは付き合いがあるのですが商品先物には疎くて困っていたのです」

 馬氏は愛想よく話す。私の先入観のせいか黙っていると威圧感もあるが、場慣れしているようでこちらの警戒心を取り除いてくる。とはいえ、トラブルになると強面の姿を見せるのかもしれない。 

 馬氏によると、訪問予定の会社は深圳に一社、広州に二社あるという。馬氏の中国側パートナー企業が背景を調べたところ、政府機関や人民解放軍の支援などはないようだ。規制のせいで実務上の要件が必要になっているのだが、環期公司のような政府の強力な後ろ盾がないと苦労が多いようだ。私たちも先方の会社名を聞いたが、インターネットも無い時代のことで馬氏からの情報以上のことを短期間に調べる術が無かった。

 先に帰国して訪問の手配をする馬氏とは香港で待ち合わせて、鉄道で深圳を経由して広州に向かう予定だ。中国での旅費と滞在費に加えて馬氏へのガイドや通訳の謝礼は営業経費として城東側の負担となる。馬氏にケチ臭いと思われて菊川事務所に報告されても面白くない。城東と訪問先との提携が成功したら、馬氏には両方から報酬が支払われる。中国側からはその後の取引に対するキックバックもあるのかもしれない。


 出発までに何かお土産を用意しよう。今回は二日間の日程で駆け足の訪問となるため、レクチャーを行う時間はない。既に作成済みの会社案内に加えて、簡単な罫線のガイドブックでも作ることにした。いつものように書き上げた原稿を応礼に手書きで翻訳してもらう。

「森脇さん、ここはどういう意味ですか?」

 翻訳に困った応礼が罫線の説明について、頻繁に質問してくるようになった。入社から半年余り過ぎて業務の流れは概ね理解しているが、相場の分析などに関してはまだ素人だ。いや、新卒で商品取引員に入社する社員には、相場が好きで詳しい者などほとんどいない。中途採用も同様だろう。私や西岡のように相場に興味があって入ってくる奴の方が圧倒的に珍しいのだ。


 応礼が就職活動をしたとき、他に内定が出た会社は将来的に台湾に勤務して現地でのビジネス展開の戦力にすることを彼女に提示したという。東京本社採用で台湾に行けばエリート・コースと言えるのだろうが、応礼はずっと日本で働きたいと考えた。辞退したそれらの会社はどれも城東通商より規模が大きく知名度も高いが、そんなことは余り気にしないようだ。大学で知り合った台湾人の友人たちは、就職した日本企業の本社で研修が終わると台湾現地法人に派遣されているそうで、自分が東京に残れていることに満足しているという。

 しかし、日本で働きたいという事と相場が好きになることは別の話だ。もっとも、相場好きが嵩じて手張りで破滅する者もいる世界だし、好きなものを仕事にしない方が幸せなのかもしれない。

 また、彼女も私を係長という役職では呼ばなくなった。トレーディング・チームのミーティングでは誰も係長とは言わず、モリワキサンと呼ぶからだろう。チームに馴染んできたとはいえ、オフィスでは引き続き制服を着ている。男子社員はスーツにネクタイなのに対し、女子社員は全員制服着用だからだ。

 応礼に限らず、私たちと同世代の総務の大卒女性主任も制服を着ている。事務の女の子たちの私服はそのまま渋谷や六本木に遊びに行くような格好なので、仕事中は制服が必要だろう。しかし応礼やサリーは顧客が来たら会う必要があるため、私服はスーツで出勤している。制服を着る意味はあまりないとも思われたが、九十年代の会社ではそうした特例は許さなかった。


 香港への出発の日が来た。成田から五時間弱のフライトを終え、市街地のビル群をかすめるように着陸した飛行機を降りて啓徳空港のターミナル・ビルから出ると、辺りは湿った熱気に包まれている。秋を迎えた日本との気候の違いを実感させられた。翌日は九龍駅から鉄道で深圳に向かうため、尖沙咀チムサーチョイに取ったホテルにタクシーで向かう。九龍湾に突き出した立地の啓徳空港からはそう遠くない。

 地下鉄で香港島に足を延ばして部長お勧めの店で晩飯を食った後、ホテルに戻りバーで翌日以降のスケジュールを確認する。部長はカナディアンクラブ、私はメーカーズマークをハイボールで飲むのが定番だ。窓の向こうには香港島の夜景が見える。

 翌朝の予定はホテルのロビーで馬氏と落ち合い、令和の現在では紅磡ホンハムと名を変えている九龍駅から深圳の手前の羅湖まで向かう。四十分程度で羅湖に到着すると入国手続きを行って中国入りする手筈だ。羅湖駅の目の前は広州行きの汽車が出る深圳駅となっている。午前中のうちにタクシーで最初の訪問先に向かう。深圳には地元の商品取引所ができて活況を呈しているそうだが、残念ながら今回は見に行く時間がない。午後の汽車で広州に移動するのだ。

 私が香港に来たのはこれが二回目だ。前回の香港出張は同地で開催された金融国際会議で、私たちは展示会にブースを出してファンドマネジャーらに日本の商品市場での取引を売り込んだ。日本市場の価格データと現物市場との乖離についての分析資料を配布し、いくつかのファンドの興味を引くことができた。今回の話の遠因には、環期との提携の件だけでなくそのときのことが馬氏の目に留まっていた可能性もある。

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