中国から注文が来るらしい!

2-1 外人部隊

 北京から帰国した翌日、いつものように出勤する。私は、墨田区向島のマンションから日本橋の会社まで自転車で通っていた。浅草で地下鉄に乗ってもよいが、駅まで十五分余り歩いてそこから電車に揺られるより自転車の方が速いのだ。また、団塊の世代が働き盛りの現役だった時代の生産年齢人口は今より遥かに多く、通勤電車の混雑も酷いものだった。

 向島の街並みを抜けて首都高の高架をくぐり墨堤通りに出る。川沿いにペダルを漕いだ後は、吾妻橋か駒形橋を渡る。厩橋より先の下流に行くと、隅田川の両岸の道がだんだん河岸から離れて行くからだ。江戸通りを進んで浅草橋の交差点で靖国通りを越え、馬喰町の繊維問屋街を通り抜ける。

 その先の地下鉄日比谷線小伝馬町駅を過ぎた堀留町には国内最大の商品先物取引市場、東京工業品取引所があった。そこから少し南に行った水天宮界隈の蛎殻町には農産物先物を扱う東京穀物商品取引所があり、日本橋川を渡った兜町には東京証券取引所が聳え立つ。この辺り一帯こそ日本のマネーゲームの中心地だったのだ。


「おはようございます」と挨拶しながら国際事業部の部屋に入ると、田端課長が煙草を吹かしながら日経新聞を読んでいた。私は毎朝七時半に出社していたが、スタッフの多くは八時半の始業時間ギリギリに来ていた。先物取引の営業というと早朝から深夜まで長時間の拘束というイメージだが、個人相手の営業はともかく私たちの部署では、特別なイベントがない限り残業や早朝出勤をすることは稀だった。それでも、他部署の目もあるため管理職は早く来る。向島から自転車で三十分足らずの私は良いが、取手に買ったマイホームからバスと電車を乗り継いで二時間近くかけて通勤している田端課長は大変だろう。

「おう森脇か。おはよう。中国はどうだった? 小姐シャオジエの居る店で接待してもらったか?」

「いや、そういうのは期待してませんでしたよ。というより、酒もあまり飲まない連中で、ちょっと拍子抜けですかね」

「へー、カンペイ、カンペイって一気飲みで潰されるんじゃないの?」

 田端課長は、台湾で一度そういう洗礼を受けたことがある。私も同じ目に遭ったのだろうと思っていたようだが、当てが外れて鼻白んでいる。

「で、商いの見通しはどうなんだよ?」

「全国に八支店あるそうですよ。今はシカゴとニューヨーク中心に取引してますけど、うちとの取引が始まったら時間帯も近いし期待できるかもしれませんね」

 本社の営業部員の数からみて、環期公司の営業社員は全国で三百人余りといったところだろう。現在彼らが扱っている米国市場とは異なる見慣れない商品や円建ての取引に最初は違和感を覚えるかもしれないが、北京とわずか一時間の時差しかない東京は中国人の業務時間中に値動きがある市場だ。十分に興味を引けるだろうと私は見込んでいた。

「証拠金は結局どうなった? 外貨の持ち出しが厳しいようだし、やっぱりバンク・ギャランティーか?」

「いえ、日本円で送金できるそうですよ」

「マジかよ。じゃあ、条件は東南アジアよりいいな」


 証拠金というのは、先物取引を行うために差し入れる担保だ。顧客は取引員に預けた委託証拠金の範囲内で取引を行う。

 先物取引がなぜ高リスクなのか。それは、商品の売買代金のほんの一部に過ぎない委託証拠金を担保にその何倍もの取引額の売買をするからだ。証拠金の額は、取引する商品の総額に対して五パーセントから十パーセントとなっている。例えば五万円の証拠金を預けるだけで、総額百万円の商品が買える。買った商品が九十三万円に値下がりした場合、現物取引なら百万円分あった資産が七万円目減りしたに過ぎない。しかし、先物取引の場合投資資金の五万円が丸ごと消えた上に、追加担保を差し入れないと強制決済後に二万円の借金を抱えることになる。

 逆に商品が百五万円に値上がりした場合、現物取引だと百万円の投下資金に対して五パーセントの利益だが、先物取引では五万円の投資資金に対する五万円の利益なので、元本が倍になるという寸法だ。

 この委託証拠金は、現金か有価証券で取引員に預けるルールとなっている。現金はもちろん日本円、有価証券も日本国内のものだ。欧米のファンドの場合、彼らの顧客資金を管理する金融機関が日本円や日本国債などを用意して差し入れてくる。しかし、東南アジアの顧客らにはそういう伝手がない。そこで、私たちの会社のシンガポール現地法人が間に入るのだ。

 城東通商のシンガポール法人は、現地で先物ブローカー免許を持っている。顧客から注文を受け、それを本社に取り次ぐのが彼らの役割だ。東南アジアの顧客の日本での取引は、城東のシンガポール法人名義で行われる。シンガポール法人は本社に委託証拠金を預けるが、多くの顧客は城東シンガポール法人に証拠金を預けない。その代わりに銀行が債務を保証するバンク・ギャランティーを差し入れるのだ。顧客は定期的に損益をシンガポール法人とやり取りするが、損失が大きくなって顧客が払いきれなくなっても銀行が補償してくれる。

 いわば城東シンガポール法人が銀行を保証人にして、顧客に委託証拠金を貸しているようなものだ。取引員が日本国内で顧客に委託証拠金を貸し付けることは禁止されているが、城東通商本社の直接の顧客である城東シンガポール法人はちゃんと証拠金を差し入れているので、グレーとはいえ合法とみなされていた。

 今回環期公司は城東通商本社と直接取引をし、委託証拠金も直に送って来る。私たちにとって立て替えの手間やコストが不要な良い条件だ。


「注文はファックスで送ってきます。電話の場合もあるそうです。基本的に英語で注文してきますけど、中国語の分かる者が受けた方が安全ですかね」

「セリを聞きたいとか言わないの?」

 東南アジアの顧客には、市場での取引の動きを感じ取るために「セリ」と呼ばれる売買唱えの内容を聞きたがる人たちもいる。「立ち合い」と呼ばれるセリの最中は社内に館内放送で場立ちによるセリの実況が流れているので、私たちはそれを英語に通訳して電話で顧客に伝えている。これは結構な手間なのだ。

「いえ、そういう特殊な要望はないですね。ただ、電話の注文は立ち合い開始ギリギリに来ることもありそうです」

「そうか、じゃあ中国語で対応できた方がよさそうだな。サリーと、お前もできるの?」

「サリーはゴムの立ち合い中掛かりっきりですよ」

 天然ゴム先物の取引は一時間に一回東京と神戸の取引所でそれぞれ行われ、そのセリの様子を通訳して東南アジアの顧客を相手にする必要がある。その仕事を主に担当しているのがサリー・テオだ。シンガポール国籍の福建系華僑で、度の強い眼鏡をかけた才媛といった雰囲気を持つ。シンガポール訛りの英語であるシングリッシュと福建語に加え、少し怪しい日本語と北京語を話す。

 シンガポールの日系企業勤務を経て日本語が堪能という触れ込みで城東シンガポール法人に採用された後、東京本社勤務となっている。テオは漢字で書くと「張」だ。北京語では「ジャン」に近い音なので、日本語読みの「ちょう」の方が福建語に近い発音と言える。

「そうかー、じゃあリンちゃんに頼むか」

 台湾人の林応礼は日本の大学に留学し、この春に新卒で入社した。国際事業部に所属しているがまだトレーディング・チームの一員ではなく、今は事務をやっている。日本語が堪能なので普通に事務仕事ができるのだ。外国人社員の中で唯一外務員試験にも受かっている。小柄でドングリ眼に幼さが残った風貌もあって、皆からリンちゃんと呼ばれている。

「ちょっと早いかもしれませんけど、フロントの仕事もやらせる時期ですかね。今日のミーティングで皆に話しますか?」

 顧客と直接交渉して売買に関わる業務をフロント、注文伝票や帳簿の事務処理業務をバック・オフィスと呼んでいる。バック・オフィスの仕事は基本的に高卒女子社員が担当しており、大卒の彼女は一通り業務全般を覚えたらフロントに回す予定となっていた。

「そうだな、サリーとも仲良くやってるし、何と言っても中国語ネイティブだしな。少しずつ任せていけばいいんじゃないの」

 田端課長は部下への態度が適当だ。叱りも意地悪もしないが親身になって世話をするわけでもない。酒を飲んで語る人生観も愉快だが一般とは少しズレており、あまり模範にならない種類の人間だ。ただし、他人から嫌われることが少なく、トラブルがあっても上手く収めて世渡りは上手い。またお世辞にも男前とは言えないのに、意外と飲み屋の女性にもモテるのだ。


 田端課長と話していると、チーム・メンバーのチェ・ジョンヒョンが出勤してきた。ソウルにある彼の実家は、中堅企業を経営する一族だ。私立のお坊ちゃん高校に入学後は浮かれて遊んでいたため、ソウル大を頂点する一流大学への苛酷な受験戦争にはついて行けず、早々と米国留学に逃れた。米国の大学を辛うじて卒業した後は、親族の在日韓国人実業家の紹介で城東にやってきた。祖国に戻ると兵役が待っており、外国で呑気に生きたい彼にはとても耐えられない。とりあえず韓国人に就労基準の甘い日本でそれなりに働き、永住資格を取って徴兵の年限を逃げ切ろうというわけだ。経歴を聞くとダメ人間のような感じのジョンヒョンだが、英語も日本語もかなり流暢にしゃべるので言語の才能はありそうだ。人当たりがよいので軍隊でも仲良くやれそうな気もするが、兵役はそんな彼ですらウンザリするようなものらしい。小太りの体型も厳しい訓練には向いていない。

「おはようございます。森脇さん、出張はどうでしたか?」

 課長と一緒にいるので、ジョンヒョンが日本語で聞いてくる。

「決マッテル。飲ミスギテ二日酔イ。タブン、ソウネ」

 後からやって来たエリック・テムズリーが茶化す。エリックは米国テキサス州出身だ。母国で大学を卒業した後、海外を見て回るために日本に来て英会話学校の講師になった。ハンサムな白人だが身長は百七十センチメートルに足りず、これは米国人男性にしては小柄の部類に入る。加えてアジア文化好きなエリックは、米国の学校でのステータスはあまり高くなかったようだ。そうしたエリックを日本で待っていたのは、顔立ちが整っている白人はモテまくるという天国だった。それに、日本人に混じると彼も低身長とはみなされない。

 早速講師仲間の友人たちと六本木を遊び歩いて日本の生活を謳歌し、可愛い日本人の彼女ができた頃には腰掛けの英会話講師ではなく、日本企業に就職して長期滞在したいと考えるようになった。それが城東に入社したきっかけだ。仕事は比較的実直にこなすが、彼女にも私たち同僚にも甘やかされて難しい話はいつも英語で行うため、なかなか日本語が上達しない。

『でも、今回はセンムやブチョーとずっと一緒だったんでしょう? 絶対美味しいもの食べてるよね?』

 オフィスに入ってきたサリーが羨ましがっている。

『そうそう、本場の中華料理でしょ? 私も食べたかったなあ』

 ジョンヒョンまで同調する。

『君らが経験できなくて残念だよ。特に薬膳。一緒に行く機会があったら、これは必ず奢ってあげるからね』

 まあ、アリとかカエルの卵とかサソリなどが気に入ればいいけど。

『あっ、でもお土産があるよ』

 私が買ったのは山査子さんざしの煎餅。百円コイン大の薄い円盤状に固めたドライフルーツだ。このお菓子にはいくつも難点があった。まず包装の外見が胡散臭く、日本で山査子の知名度は低い。更に私たちの周囲にドライフルーツを好む人少ない。それでも私がそんな土産品を買ったのは、安くて嵩張らないからだ。味は自分でも試していない。

 受け取った皆は当然胡乱な表情をする。そして、一口食べてみてやっぱり、とあきらめる。

 自分で処分する気のないジョンヒョンが、事情のよく呑み込めていない他部署の女子社員たちに配っている。

「森脇係長のお土産。何か珍しいお菓子で、漢方薬みたいに体にいいらしいですヨ」

 そうするうちに、部の全体朝礼が始まった。酒井部長が中国側の熱気を伝え、これからの希望を膨らませて話す。夢のような大風呂敷ではなく、できそうなことに留めるあたりが上手い話しぶりだ。

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