5-3 通訳は損な役

 水曜日の朝早く、私たちはホテルを出立して空港に向かった。趙さんらから、渋滞に巻き込まれたら大変なので、なるべく早めに行くことを散々忠告されたからだ。当時上海に高速道路はほとんどなく、あちこちで工事が行われていることもあって、空港までの二十キロメートル余りの移動の所要時間はまったく計算できなかった。

 結局懸念したほどの渋滞は起こらず、私たちは余裕をもって北京行きの飛行機に搭乗できた。中国の国内線は初めてなので落ち着かない。僻地では人知れず整備不良の機体が事故を起こしているのかもしれないが、外国人も頻繁に利用する北京と上海間のフライトなら安全だろうと思う事にした。二時間余りの飛行はそんなことを考えているうちに終わり、北京首都国際空港に着いた。

 宿泊は建国門外にある日系のホテルだ。昔の北京の城壁に沿った二環路に近く、かなり都心部と言える。応礼がタクシーの運転手に行き先を告げ、車は遅滞なく出発する。既に空港からの高速道路は開通しており、市内までの所要時間が短くなっていた。


 チェックイン後、社長と部長は会社に国際電話を入れて打ち合わせをするという。役員の話に混ざる訳にもいかない応礼と私は、近所のショッピング・モールに行ってみることにした。ホテルから大通りを挟んで反対側に十分ほど歩く。通りにはトロリー・バスが走っている。拡声器で何やら叫びながら走行しており、応礼に何と言っているのか聞いてみた。

「どいて、どいて、と言ってます」

 バス走行の妨げになるタクシーや自転車を追い散らそうとしているようだ。トロリー・バスは架線から大きく離れては走行できないので、走路を空ける必要がある。

 モールの古めかしいビルに入ると、雑多な店が軒を連ねて様々な物を売っている。全体の雰囲気は時代を感じさせるが、なかなかに興味深い。高級そうな紹興酒や茅台酒が信じられないような安値で販売されている。立地からして比較的高級店なのだろうが、それが当時の日本と中国の購買力の差なのだ。

 多彩な商品を見て応礼が少しはしゃいでいるが、結局私たちの購入意欲を刺激するようなものは見当たらなかった。応礼は会社へのお土産のお菓子を買っていたが、私はまだ翌週も中国各地を訪れるので荷物を増やしたくなかった。夕食の時間近くまでいろいろなフロアを見て回り、ホテルに戻る。


 北京のセミナー会場は上海より大きなホールで、聴衆の規模も大きいように思われた。しかし、通訳は蔡さんがそつなくこなすので、応礼は他の中国側の出席者が話している内容をかいつまんで社長や部長に伝えるだけだ。二回目という慣れもあってか、落ち着いているように見える。

 しかし環期公司の人たちとの夕食時には社長も部長もそれぞれ別の相手と話しが弾み、社長の通訳には蔡さんが当たり部長の通訳は応礼が掛かり切りになる。酒井部長はある程度英語を聞いて理解できるものの、流暢に話せるわけではない。そのため環期公司の人たちとも応礼の通訳を介して互いに母国語で話すことになる。会話の途中で器用に食事を取る蔡さんと違って、応礼は余り料理に手を付けられずにいたようだ。

 会食が終わってホテルに着くと、応礼が私の袖を引く。

「森脇さん、お腹が空きました」

「リンちゃん、今日は本当にお疲れ様。森脇、どこか食べに連れて行ってあげなよ」

 自分はすっかり満腹になった部長がいくらかお札を渡してくる。外国で日が暮れてから女子社員一人を出かけさせるわけにはいかないので、エスコートしろということだ。私も、李さんたちとの話に集中して食事量をセーブしていたので腹には余裕がある。

「どうしようか。何が食べたい?」

「見てから考えてもいいですか?」

 ホテルの周辺にはレストランがいくつもある。「麦当労マイタンラオ」と表記されるマクドナルドもあった。辺りを少し見て回った後、小奇麗な中華ファーストフード店に入ることにした。私は大抵のものが食べられるので、応礼が気に入ったものを注文する。

「思ったより大変だったみたいだね」

「はい、セミナーの通訳はそうでもなかったですけど、食事が全然食べられないのは辛いです」

 会話をしている人たちは、相手が話しているときと応礼が通訳をしている間に料理を口に運ぶ時間がある。しかし通訳はずっと話を聞きつつ翻訳をするので、結局高級中華にはほとんど箸が付けられず、今ファーストフード店で安い料理をつまんでいる。

「でも、ここの料理も美味しいですよ。私は、高級じゃなくても美味しいものが食べられたら満足です」

「じゃあ、普段食べ歩きとかしてるの?」

 学生時代は友達と出かけることもあったが就職すると友人たちは台湾に赴任してしまい、会社で仲の良い同期は千葉の自宅から通っているので食事に行く機会は乏しいらしい。一人で飲食店に入る度胸はないようだ。

「リンちゃんは、どこに住んでいるだっけ?」

「北千住です」

「私は向島だから近所だな。浅草に行ったことはある?」

「日本に来たばかりのときに、はとバスで行きました」

「釜飯の有名な店があるんだけど、帰ったら行ってみようか」

 応礼は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに「はい」と微笑んだ。

「そのためには、無事に帰らないとな」

 応礼が頷き、釜飯を食べに行く約束をするため、私たちは電話番号を交換した。

「そう言えば、明日はどうするんだっけ?」

「部長と楊総裁が話して、頤和園いわえんに連れて行ってもらうことになりました」

「頤和園って知ってる?」

「歴史の授業で習ったような気がします。西太后に関係あるような……」


 頤和園とそれに隣接する円明園は共にアロー戦争で欧米列強に破壊され略奪されたが、清末の権力者西太后の住まいである頤和園は国の海軍予算を流用した巨費を投じて再建された。昆明湖という人口湖の周囲に壮麗な建物が並ぶ。西太后による浪費と専横が清朝の命運を縮めたのだが、国を傾けるほどの情熱を込めて整備された庭園は見事なものだ。

 ただ、鹿島社長は三国志マニアなので、中国近代史への興味は強くない。多くの日本人の中国史への関心は、文芸が基になっている。三国演義や水滸伝などが江戸時代に庶民に広く読まれてそれを基にした作品も数多く書かれ、現代では歴史小説がその伝統を引き継いでいる。そのため、古代史や中世史のファンがどうしても多くなる。

 社長は劉備や張飛の故郷で桃園の誓いの舞台となった涿州たくしゅうに興味があるようだったが、北京から車で片道三時間はかかる田舎町で、行っても特に見るものはないということで断念した。史跡のようなものは、文化大革命ですべて破壊されたそうだ。

 頤和園を回りながら清朝の歴史に思いを馳せつつ、昨日の李さんとの話を思い出した。

「李宣さんの曾お爺さんは、清王朝の科挙に受かったんだそうです」

「大したものだな。凄い倍率だったんだろう」と部長

「高級官僚になる未来が約束されますからね。と言っても、すぐに清朝が滅亡してキャリアもふいになったそうです」

「そりゃ惜しいことをしたね」

「それどころか、文化大革命のとき一族は大変だったと思いますよ」

 科挙合格者を出すということは、その家が息子に仕事をさせず何年も受験勉強に打ち込む環境を与えられる経済的余裕を持つことを意味する。つまり地主などの富裕層だったことを示し、共産党にとって敵性階級となる。とはいえ、そういう家柄の人々は代々地方の知識人階層に属し地元で声望があったケースも多く、共産党政権になっても村で指導的な役割を果たしていた。それが、文革では紅衛兵による徹底的な糾弾のターゲットにされたのだ。

 李さんたちが文革の体験について外国人に語ることはないだろうが、彼の若旦那のようなの佇まいは苦労を乗り越えても代々続く育ちの良さの表れとも思える。

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