5-4 孫中山先生に詣でる
セミナーの日程を完了し、社長一行は土曜に帰国となった。南京に向かう私も空港まで同行した。国際線のチェックインは問題なく進み、社長たち三人に別れを告げて私は国内線の出発カウンター行く。これから一週間の一人旅だ。
国内線の搭乗時間になると、乗客は我先にと搭乗口に殺到した。席は決まっているのに何を慌てるんだと訝しんだが、席に着いてみると頭上の荷物を置くスペースが全く無くなっており、私はスーツ・バッグを辛うじて隙間に押し込んだものの、リュックは足元に置くしかなかった。スーツケースがあったら面倒なことになっていただろう。手荷物棚にはよく分からない段ボール箱などがぎっしりと詰まっている。
乗客が競うように乗り込むので搭乗はすぐに終わり、南京までの二時間余りのフライトも順調だった。タラップを降りてターミナル・ビルまで地上を歩いて向かうと、前方を古めかしいジェット戦闘機が走行して横切って行く。軍用空港も兼ねているようだ。
到着ゲートを出たところに「城東通商 森脇係長」と書いた紙を掲げる二人組が居る。偏光グラスなのか薄く色の付いた眼鏡を掛けた男性と、寝ぐせの強烈な痩せた男性だ。彼らに近寄り声を掛けた。
『こんにちは、センシエです。お会いできて光栄です』
モリワキと発音すると相手が分からない可能性もあるので、中国語読みする方が安全だ。
『お休みなのにわざわざ迎えに来ていただいて、ありがとうございます』
『今日は休みじゃないから、大丈夫ですよ』
偏光眼鏡氏が笑う。南京支店の総経理で胡徳朋と名乗った。
中国ではまだ土曜は隔週休みということらしい。日本でもこの数年前までは土曜が隔週休みだったし、学生時代は毎週土曜の午前中は学校だった。
『そう、ノープロブレム。中国語だと
二人に連れられてタクシーでホテルに向かう。街の南東部にある空港から市街地を抜けて長江に近いエリアまで三十分ほどかかった。月曜にまた迎えに来てくれるという話をして、二人はタクシーで会社に戻って行く。
チェックインを済ませたが、夕食にはまだ早い。長江大橋でも見に行ってみるか。タクシーに十分ちょっと乗って橋の手前で降りる。河を渡るため高架になる道路の歩道を登って行くと途中で鉄道と合流し、鉄道が下段を車や歩道は上段を通る二階建ての構造になっている。登りきると対岸まで橋が真っすぐ伸びており、下を長江がゆったりと流れる。川幅は数百メートルありそうだ。大きな船が航行できるように、橋は相当高い。
大河の雄大さを堪能した私は、タクシーを拾ってホテルに戻った。車中から眺めた限り周辺には飲食店が無さそうだったので、ホテルで夕食を取ることにした。前菜にピータン豆腐を頼む。私は冷奴もピータンも好物なので、この組み合わせは最高だ。甘い醤油ダレがよく合う。しかし、出てきた豆腐はスーパーで売っている豆腐三丁分くらいありそうなものだった。正方形の個食サイズではない、長方形の大きな一丁の更に三倍だ。それに、いくらピータンが好きと言っても、一度に食べられる卵の量にも限度がある。
北京飯店のときと同じ失敗をした。日本円換算で考える価格が安いので錯覚するが、ホテルのメニューは何人かで取り分けて食べる分量になっている。前菜だけでもう十分という気分になったが、注文した料理は何とか平らげた。
日曜日は天気も良く、ホテルに籠っていても退屈なので中山陵に出かけた。孫文の墓所だ。中国の首都は清朝時代も人民共和国でも北京だが、明代の初期や中華民国では南京に置かれていた。そのため明を建国した洪武帝朱元璋の陵墓である明孝陵も、中国革命の父と称される孫文の墓所である中山陵も南京にある。
日本では本名の「孫文」と呼ばれるが、中華圏では号の「中山」の方が有名だ。この中山は、日本亡命中の偽名である「なかやま」に由来している。
国父や革命の父と呼ばれる孫中山だが、自身の革命闘争では驚くほど成果を上げていない。参加した蜂起は悉く失敗に終わりその都度海外に逃れた。日本にも二度亡命し、有名な宋氏三姉妹の一人宋慶齢との結婚は日本滞在中に行っている。
一九一一年の辛亥革命成功時も、孫中山はアメリカに居た。帰国すれば革命の象徴として皆から熱く迎えられるが、袁世凱をはじめとする軍閥との敵対を繰り返しては失敗し、最期は「革命未だならず」の言葉を残して病に倒れた。
闘争では成果を上げられない孫中山であっても支持する革命家は多く、日本をはじめ海外亡命先でも支援者に事欠かなかった。人間的な魅力が大きかったのだろう。
中山陵は、南京市街の東にある紫金山の中腹に築かれている。ホテルから市街地を抜け玄武湖公園の端を通って公園地区に入ると手前に明孝陵、更に奥に行くと中山陵がある。
タクシーを降りると、墓所までは坂と階段を延々と上らなければならない。そのため、椅子を据えた輿を担ぐ人たちがいて、ちょうどスーツを着た中年男性が乗っていた。讃岐金毘羅神社の駕籠のようなものだ。スーツ姿の客は襟に青天白日のバッジを付けている。台湾国旗の左上部分にある中国国民党のシンボルマークだ。台湾から来た国民党員と推察した。
階段を登りきると建物があり、巨大な墓碑には『中国国民党、総理孫氏をここに葬る』と記されている。登ってきた階段の方を振り返ると、いちいち数えなかったが結構な段数だ。
一通り見て回ってから麓に戻って来ると、土産物店や飲食店が並ぶ。観光地価格かもしれない昼食を取り、タクシーを拾ってホテルに戻った。
休日を終えて月曜に訪問した南京支店は、ビジネス街にある古いビルに入居していた。面積はかなり広い。朝からホテルに迎えにきた謝氏の髪には、今日も強い寝ぐせが付いている。わざとやっているのか?
胡総経理に挨拶すると、彼は私の腕時計に目を留めた。シンガポールで買った怪しげな「スイス製」の時計だが、胡氏は自分のもスイス製だと自慢する。
舐められないように身だしなみは大切だと力説している。胡散臭い業種の人間ほど服装に拘るのは、どこの国でも同じと見える。私のスーツは、香港から日本に行商にやって来るインド人のテーラーで仕立てたものだ。日本のスーツ屋で買えるぶら下がり品に毛の生えた程度の値段なのだが、製作コストが余り掛かっていないのか生地は良い。
私の服装は彼の眼鏡に適ったようで饒舌に話しかけてくるが、訛りが酷くて聞き取り辛い。南京支店の社員は英語のできる人が少ないので通訳を付けてレクチャーするという話だったが、まさか胡総経理がと考えていると、謝氏が二十代後半くらいの男性を連れてきた。見た目は胡総経理や謝氏より垢抜けてる。
「初めまして、呉と申します。よろしくお願いします」
日本語で話しお辞儀をしてくるので、私も慌てて「お世話になります」と頭を下げた。中国人は単なる挨拶で頭を下げることがないので、胡氏らが興味深そうにしている。
通訳は日本に留学していたというこの呉氏が行う。彼の日本語はかなり流暢だ。外国語を活かせる高給な仕事ということで最近入社したらしい。今後は南京からの注文などのやり取りは呉氏が行うことになる。接客のアルバイトで日本語会話力を磨いたそうで、人当たりも良いので営業でも成功しそうだ。
ほぼ素人の呉氏にも分かりやすいよう用語に気を付けて話したが、翻訳する際の彼の質問は要領を得ていて、理解力の高さがうかがえた。呉氏の通訳が良いせいか、質疑は活発なものになった。レクチャーが活況で、胡総経理もご機嫌だ。支店幹部と呉氏を交えたランチを終えると、謝氏が空港まで送ってくれて長沙に向かう。
空港では、軍服を着た解放軍将校がアタッシュケースを持ってゲートに向かうのを見かけた。軍務なのか商談なのかは分からない。
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