4-3 シャンプーに夢中

 翌朝、研修生を迎えに行った私は、寮の談話室のテレビでぼんやりとニュースを見ていた。研修生たちが集まってきたので昨夜テレビは見たかと聞くと、趙さんが「シャンプー」を見たと言って興奮している。シャンプーとは何かと考えていると、レスリングだというのでどうやら相撲シャンプーの事のようだ。中国人が漢字を見ても日本語の発音は想像できないので、中国語の発音で読むことになる。昨夜のスポーツ・ニュースかダイジェスト番組でも観たのだろう。三月はちょうど大阪場所をやっている。横綱曙の全盛期で武蔵丸が新大関。一月の初場所で優勝した大関貴ノ花の綱取りも掛かった場所だ。

 趙さんだけでなく、他の二人も相撲には興味があるようだ。巨漢の曙や武蔵丸が強いのは面白みがないと思うのか、貴ノ花が気に入ったらしい。中国語には無い「ノ」の字が読めないので貴花クイホアと呼んでいる。三人は相撲の話題で盛り上がっているが、話していてもきりがないので出かけることにした。慣れない外国での夜だが皆よく休めたようだ。各自昨夜教えた通りに自動販売機で切符を買い、慎重に自動改札機を通ってホームに上がる。ホームも電車も混んでいるが、中国でも似たようなものだと余り気にしていない。日本人は並んで乗車するので中国よりも乗りやすいようだ。

 混んだ電車は人の乗り降りに時間を要しつつも、車の移動よりずっと速く会社に到着した。三人共この日の帰りから自分たちだけで移動できると言っている。研修生を会議室に案内して休憩させている間に国際事業部の部屋に行く。既に九時を回り業務は開始済みだ。課長に到着を報告し、資料を持って会議室に戻った。この日の予定は午前中に日本の商品先物取引市場の概要と取引員の業務についての講義、午後は社内を見学だ。商品取引員の業務の流れを解説した資料を見ながら説明し、実際に各部署を見て回って実感してもらう予定となっている。


 今回の研修の目的は、環期公司の普段送っている注文が日本の取引員でどのように処理されているのか、そして取引所ではどう取引されているのかを実際に見てもらうことだ。正味五日間のカリキュラムの間に、東京工業品取引所と東京穀物商品取引所、そして横浜生糸取引所の見学を予定している。

 一九九四年当時、東京には商品取引所が二か所存在した。少し前までもっとあったが、合併で統合されたのだ。そして札幌から下関まで、全国各地には合わせて十三か所の商品取引所があった。経済産業省が監督する繊維や素材の取引所と、農林水産省が監督する農産品の取引所だ。東京を除くと首都圏には前橋に乾繭取引所、横浜に生糸の取引所が存在した。乾繭取引所は愛知県の豊橋、生糸取引所は神戸にもあり、東西で生糸の産地と輸出港にそれぞれ取引所を構えていた。その後投機人気が他の金融市場に奪われたことで各地の商品取引は次第に低迷し、次々と閉鎖や統合を繰り返した結果現在国内に残っているのは東京商品取引所の他に、大阪取引所と堂島取引所の合計三か所のみとなっている。


 午前中の座学では三人共呑み込みが早く、地頭の良さを感じさせた。昼休みは会社の食堂で昼食を取り、会議室で休憩しているとジョンヒョンや応礼も顔を出して雑談して帰る。応礼には、英語では説明しきれないような困りごとが無いか中国語で聞いてもらった。特に問題はないようだ。午後は社内の各部署を回って業務の説明をする。午前中に話した資料の内容の肉付けと言える。総務や経理といった内勤部署はコンピュータの業務端末が入っていることを除くと、中国と大差ないようだ。研修生たちは、専用線電話を通じて各支店から寄せられる注文を取りまとめて板寄せ取引市場の場立ちに伝える業務部と、電算化され場立ちのいない貴金属市場で自己勘定取引をやっているディーリング・ルームに興味津々だった。

 夕食は会社の近所のファーストフード店に連れて行った。メニューに料理の写真と金額が記載されているので、注文も難しくないようだ。研修生が駅の改札を入るのを確認して、私は会社に戻った。研修で抜けた間に溜まった仕事を片付けないと帰宅できない。


 研修二日目の木曜日、時間に遅れてやって来た研修生たちは様子が変だ。周さんの顔色が真っ青で、他の二人も元気がない。

『どうしたのですが? 何か問題がありましたか』

『森脇さん、大変です。航空券を無くしてしまいました。どうしたらよいのか……蔡総経理に報告しないといけないので、電話をお借りできますか?』

 李さんが疲れ切った表情で言った。西葛西の駅で切符を買おうとしたときに、周さんが預かっていた三人分の航空券が無い事に気付いたそうだ。彼らは日本の治安の良さを知らず、寮の部屋には何一つ貴重品を残さないでパスポートも航空券もお金もすべて持ち歩いているという。

 鞄の奥にでも入れたままにしておけば良いのだろうが、気になって頻繁に確認していたのが却ってあだになったようだ。慌てて各自の寮の部屋のほか、駅から寮までの道筋と前夜寄ったコンビニの周辺を二回往復して探したが見つからなかったらしい。

 当時の航空券は複写式の用紙が綴られて、行きと帰りの各行程でチェックイン時に一番上から紙を切り離していた。北京で出発便用の紙は搭乗券と交換済みだが、台紙にはまだ帰国便の紙が残っているはずだ。とはいえ、所詮は紙なので道端に落ちていればゴミ屑と思われても仕方がないだろう。必死に探しても見つからず、連絡できないまま遅くなっても私たちが心配するだろうと、とりあえず会社に来たのだった。


『落ち着いてください。当日航空券を持たずに空港に行ったらトラブルになるでしょうが、まだ出発まで時間があります。航空会社に連絡して紛失を伝え、再発行してもらえば大丈夫ですよ。チケット名義人のパスポートが一緒でなければ、航空券を持っていても意味がないですし』

 そう言って私は一〇四番に電話して中国国際航空東京事務所の電話番号を調べ、すぐに連絡してみた。航空会社によると、再発行は可能ということだった。入国が厳格な分、本人確認は容易という利点があった。

 酒井部長に報告してから、安堵して放心したような研修生たちを連れて航空会社のオフィスに行き、パスポートを見せて手続きを完了する。会社に戻ると、李さんは蔡さんに電話して顛末を報告した。報連相はどこの国でも大事だ。李さんから電話を受け取った私に、蔡さんはひどく大げさに感謝を告げた。

 初めて海外に出た研修生らは、航空券も電車の切符のように紛失したら買い直すしかないと思ったようだ。当時の中国人にとって、国際線の航空料金は大金だ。顔面蒼白になるのも無理はない。

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