中国で投資セミナーをするらしい!

5-1 中国が日本を追い越す日

 研修生が帰国するとすぐに月が替わり、中国でのセミナーの日程も迫る。四月半ばの日曜に成田を立ち、まず上海に入って月曜のセミナーに参加し、水曜に移動し木曜に北京のセミナーという日程だ。社長、部長と応礼はその週の土曜に帰国するが、私はそのまま南京に向かい、続いて長沙から広州を回って最後は上海に戻り出国する。一週間かけて各地を回る予定なので、私の出張期間は二週間に及ぶ。

 週末の出発を控えた金曜日、私は応礼と最終打ち合わせをした。酒井部長も私も出張慣れしているせいか準備は適当に済ませて現地で臨機応変に対応することが多いが、応礼にとっては初めての出張だし大勢の聴衆の前で通訳をした経験もない。少しナーバスになっているようだ。

 応礼は生真面目な性格なのか社長のスピーチ内容を随分読み込んでいるようで、代わりに自分で講演できるくらいに暗記しているのだが、どういう質問があるのか不安だという。とはいえ、起こってもいないことをあれこれ考えても仕方ない。新人なのだから失敗しても当たり前くらいの気持ちでいいよと言っておく。


 日曜日、私は押上駅から京成の特急で成田空港に向かった。少し早めに待ち合わせの場所に着くと、応礼が既に待っている。上野からスカイライナーで来たそうだ。しばらくすると酒井部長が来て、車で到着した社長と合流しチェックイン・カウンターに向かう。社長と一緒なので部長はビジネス・クラス、私と応礼はエコノミーだ。といっても三時間半ほどのフライトなのであまり羨ましくはない。

 飛行機は定刻より少し早く上海虹橋空港に着いた。市街地から西に二十キロメートルほど離れている。空港で両替すると、外貨兌換券は既に廃止されていた。大きめのミニバン・タイプのタクシーに全員乗って、市内中心部の黄浦区にあるホテルに向かう。空港の周辺では、郊外の新興住宅地開発が進んでいるようだ。渋滞もあって小一時間かけて着いた日系のホテルは、立派なものだった。


 社長同行の出張では、到着するなり観光に行こうとは酒井部長も言わない。各自部屋で一服した後はホテルで夕食にした。応礼が居るので注文は難なくできる。それに日系のホテルということもあって、サービスも気が利いている。

 食事をしながら翌日の予定の話になった。私が説明する。

「明日は環期さんの総経理、支店長のことでしょうが陳さんという方と先日の研修生趙さんが迎えに来ます。会場に着いたら控室で待機してセミナーが始まる直前に登壇です。来賓のスピーチが続きますが、社長の順番は二番目ですね。先に監督官庁の人が挨拶するようです」

「まあ、どこでもそういう順番は大事だな」社長が応じる。

「三番目が環期の陳さんですね。その後酒井部長や大学の経済学の先生、環期のアナリストも交えてパネル・ディスカッションです。中国の先物市場の発展についてのようですが、環期さんが主導するでしょうからそれに合わせてリップ・サービスしておけばよいでしょう」

 酒井部長に向かって言うと頷いている。部長の得意分野だ。

「セミナーの間、森脇君は会場で聞いているの?」

「はい。始まる前には、趙さんや他の社員と打ち合わせの予定です」

 聴衆には環期公司のVIP顧客がいて、アテンドするために営業社員が来る。セミナー中に彼らと親交を深める必要もあるだろう。ぼんやりしているのではなく仕事してますという、社長へのアピールも大事だ。

「林さんも、この間研修生が来たときの通訳は堂に入ったものだったから、自信を持ってやればいいよ」社長は応礼にも声を掛ける。

 北京のセミナーでは蔡さんが通訳する予定なので、応礼が聴衆の前で通訳するのは上海だけだ。社長や部長と周囲の人々とのコミュニケーションの通訳はずっと行うが、セミナーの席とはプレッシャーが違う。考えてみれば入社二年目なのだ。気楽に行こうよと言っても難しいかもしれない。それでも、明日を乗りきれば楽になる。応礼は「はい、頑張ります」とやや力無く答えた。話題を変えよう。

「セミナーが終わったら陳総経理たちとランチに行って、その後は豫園よえんの観光案内してくれるそうです」

「豫園って何だ」と社長が聞く。

「昔の庭園だそうです。古い建物も残っているみたいですね」

「テーマパークみたいなものですかね。地元の人がお勧めなのだから有名な観光地でしょう」

 部長の推測は間違っていないと思う。その後は名所の外灘ワイタンや繁華街の南京路にも行ってみても良いな。


 翌朝、趙さんがメタルフレームの眼鏡を掛けた小柄な男性を伴って、ホテルのロビーにやって来た。陳総経理だろうか。見たところ趙さんより若い。恐らく経歴が良いのだろう。『私の上司です』と紹介されたのでやはり陳氏だ。趙さんもそうなのだが、陳総経理の英語もかなり中国人訛りが強い。

 外国語を話すときの訛りは、母国語が持つ母音や子音の種類に影響を受ける。日本語は音の少ない言語なので、原語の音が発音できず違う音になったり子音が足りなかったりする。中国人は逆に余計な母音が入り易い。例えばTHANK YOUは日本語訛りだとカタカナで「サンキュー」と言うが、中国語訛りでは漢字の「三克油サンカァヨウ」と発音する。どちらもネイティブにとっては原語と全然違う発音だ。私は環期公司の人たちとの付き合いと中国語の知識でコツが分かってきたが、エリックなどは中国人の英語に対し『無理、何言っているか全然分からない』と匙を投げている。


 ホテルから車で約十五分離れたセミナー会場は、公会堂のような場所だった。二百人程度が入れそうだ。社長一行を控室に案内した陳氏は、準備があるからと辞去する。登壇するわけでもない私も社長と部長に会釈して、緊張する応礼に声を掛けてから趙さんと共に環期公司の社員たちのところに挨拶に向かった。スタッフと一通り握手を交わし雑談していると、部下の一人から何事か報告を受けた趙さんが遠慮がちに言ってくる。

『森脇さん、地元の経済紙がセミナーの取材に来ているのですが、開始前に城東通商の担当者にインタビューしたいそうです。応じていただけますか?』

 メディアとの付き合いは大事だ。せっかくセミナーを取材に来てくれているのだし、環期公司のビジネスに役立つなら断る理由はない。会場の隅にある打ち合わせスペースのような所に案内されると、初老の男性記者と若い女性記者が待っていた。若い記者は英語を話し、通訳として同行したようだ。


 初老の記者は癖の強そうな風貌で、日本の業界紙記者と雰囲気が似ている。彼は、日本や欧米での先物市場の社会的な役割の他、どういう商品が取引されているのかを質問してくる。社会的役割とはなかなに答え辛い。実質的には投機のギャンブル場ですよとも言えないからだ。更に、中国でのビジネスの可能性について聞かれた。改革開放によって市場経済が発展すれば、リスク・ヘッジのニーズも高まるので将来性は大いにある。市場規模はそう遠くない時期に日本を超えるのではないかと答えると、男性記者は苦笑いし通訳の女性も少し困ったような表情で言う。

『我が国を評価していただいて嬉しいですが、正直な意見を聞かせてください。中国経済は現在日本に比べて大きく遅れています。本当に日本に追いつくと思いますか?』

 この頃の中国のGDPは日本の七分の一程度の規模しかないので、単純な物品の貿易額ならともかく金融商品のような分野で日本に追いつくのは遠い将来の事と中国人自身が考えていても不思議はない。過剰なリップ・サービスとでも思ったのだろう。恐らく彼らは「中国はまだまだだな」というようなストーリーの記事を計画しており、事前配布された鹿島社長のスピーチ概要が楽観的な内容なので、現場担当者から本音を聞き出そうと取材を申し込んできたのだと思われる。

 実のところ私も、中国の経済がそれ程急速に成長すると予見していたわけではなかった。現実にはその後中国のGDPは二〇〇〇年代に大幅な成長を示して、同時期に失われた三十年の停滞を続ける日本をあっさり追い抜く。しかし、当時の私の予想は中国の先物市場が香港や台湾の証券市場同様の賭博場になることは火を見るよりも明らかなので、民族性や人口規模からしても投機の活況が見込まれるだろうという程度のことだ。環期公司の手前、記者に言える話ではない。前年には、乱立した国内先物市場や先物ブローカーによる混乱で規制が掛かったばかりなのだ。あるいは、記者たちもそれを踏まえて先物取引にややネガティブな印象を持っているのかもしれない。


『中国の市場経済は始まったばかりです。そして、市場経済と価格変動リスクは切り離せません。リスクを管理する方法が存在するなら、それを活用しようというニーズが拡大するのも当然だと思います。人口規模の大きい中国は商品交易の規模も大きく、そこに市場原理が導入された場合、リスク管理の市場も大きなものになるでしょう。また、長い歴史の中で多くの試行錯誤を重ねて先物市場に取り組んできた我々と違い、後発の中国には最新の成果に直接キャッチアップできるという利点があります。リソースを集中して市場を育てられる可能性は大きいと思いますよ』

 私の説明に記者たちは半信半疑といった表情だが、セミナーの開始も近いので礼を述べて会場の記者席に向かう。私は同席していた趙さんに『あんな感じでよかったでしょうか』と聞いてみた。

 趙さんは『私は先日実際に東京を見ましたからね。中国がああなるのに何年かかるのか想像もできません』と寂しそうに言った。

 中国経済が先進国並みに発展するのに何年掛かるのか、あるいは結局無理なのかは分からないが、投機のギャンブルとしての先物取引の規模はかなり早期に日本を抜くというのが私の見立てなのだが、それは趙さんにも言わない方がよいだろう。


 セミナーの開会が告げられたので、趙さんらと一番後方に立って聴く。会場はほぼ満席のようだ。檀上の席には参加者が並んで座っている。場慣れした社長や部長はともかく応礼の様子はどうだろうか。落ち着いているようにも見えるが、余裕が無いのかもしれない。

 最初に証券監督管理委員会の役人が挨拶する。スピーチする機会が多いのか、中国語なので内容は分からないが話は巧みなようだ。続いて司会者が鹿島社長を紹介する。社長が演台に向かい、一礼して話を始める。応礼は横に立って手に持ったマイクで社長の話を一区切りずつ淀みなく通訳する。彼女は結構本番に強く度胸が良いのかもしれない。

 社長がスピーチを終えて会場が拍手に包まれると、応礼もほっとした表情だ。少し上気している。しかし、陳氏のスピーチに続いて討論会があるのでまだ気は抜けない。

 心配したパネル・ディスカッションは、司会の進行が良いのかスムーズに進んだ。城東側に話しが振られると、司会者がそれまでの流れをまとめて何について答えればよいのかを応礼に説明するため、通訳がやりやすいようだ。司会者は仕事のできる人なのだろう。こうしてセミナーは滞り無く終了し、私は隣に居る趙さんと握手して成功を祝った。

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