人生の転機が来たらしい!

6-1 雲助タクシー

 中国から戻ると日本はゴールデンウイークだ。連休中には約束通り応礼と浅草の釜飯を食べに行き、その後もよく二人で出かけるようになった。雑誌やガイドブックなどで面白そうな店や美味しそうな店を見つけては行ってみる。行き先の情報源は、そうした紙媒体やテレビ番組だ。

 仕事で使っているうちにパソコンにハマった私は自宅にもマックを購入したのだが、黎明期のパソコン通信の速度は遅く検索サイトも普及していないため、まだまだインターネットで店探しをする時代ではない。

 応礼と出かけるのは、週末と決まっている。平日に西岡や他の同僚らと飲みに行く機会は多く、女子社員が混じることも珍しくなかったが、酒を飲まない応礼は基本的に参加しないのだ。

 応礼が迷子になるため現地集合を避けて出発地はいつも北千住で、お目当ての店で食事をしてから、他愛のない話をしつつ周辺の目玉スポットを散策する。その繰り返しなのだが、やがて応礼と会えない週末には寂しさを感じるようになった。応礼も私に好意を持ってくれているのだろうが、二人共それを口にして確かめることに気後れしていた。


 そんな日々が続く六月の初めに、私は神田の焼き肉屋で業界の先輩と晩飯を食っていた。松浦さんといい、以前はライバル会社の国際部門に居たのだが、今は業界を離れて貿易の仕事をしている。商品先物業界では会社が違っても国際業務に携わる人々とは仲間意識があり、比較的仲良く付き合っていた。

 松浦さんは、そういう国際部仲間たちのリーダー格の一人だった。仕事で競合すると手強いが、不思議な愛嬌があって憎めない人柄なため、こうして業界を離れても交流が続く。

「森脇君とは花見以来だっけ? 忙しそうだね」

 環期公司の研修生が帰国した翌週に東京は桜が満開となり、松浦さんたちと夜桜を見ながら酒を飲んだのだ。

「今はちょっと落ち着いた感じですかね。五月まではバタバタしてましたけど」

「君の活躍は聞いてるよ。今日は中国のことで話があってさ」

 松浦さんの話によると、彼の取引先に台湾企業があり、その社長である陳氏の友人が大陸で商品先物のブローカーを始めたということだ。いろいろと助力を求められたそうで、そういえば松浦さんが以前先物の仕事をしていたと陳氏は思い出し、手を貸してはくれないかと依頼されたらしい。

「田所さんたちには相談したんですか?」

「上の人が興味を持ってくれないそうだよ」

 確かに、中国ビジネスに慎重な会社も少なくはない。松浦さんが以前居た会社もそのようだ。

「悪いけど、話だけでも聞いてみてくれるかな? 何せ中国関係だったら森脇君だっていう皆の評判だし」

 松浦さんから、件の会社の邱力仁総裁の連絡先を受け取る。弘達期貨という湖北省武漢市にある会社のようだ。


 邱総裁に電話してみると、思いの外に熱量が高い。前年以降の規制で不良企業が一掃されつつある市場は中々にチャンスが多いようで、業容を拡大するため扱い商品を増やしたいと言い、一度見に来ないかと熱心に誘う。

 部長や課長とも相談してみた。既に他の取引員と付き合いがある可能性は高いが、城東通商は海外営業の実績が大きく競争力は高い。

「会いに行ったらどうだ? 探偵みたいに事務所の様子から他の取引先とか懐具合とか探るの、森脇は得意だろ?」

 田端課長がそう言い、部長も同意した。私一人の出張なら経費もそれほど掛からない。先日長沙を訪問したが、武漢という更に規模の大きい内陸都市の状況を見ておく意味もある。早速新たに訪中ビザを取得した。

 一九九四年当時、日本から武漢への直行便はもちろん飛んでいなかった。調べた結果、香港経由で行くのが安価かつ便利ということが分かる。まだ中国国内に国際的なハブ空港は存在せず、香港がその役割を担っていたのだ。

 地図上の武漢の緯度は、鹿児島県の種子島と同じくらいの位置となる。一旦台湾より南にある香港まで行ってから随分北に戻る遠回りの行程だが、それも仕方がない。乗り継ぎの都合で武漢空港に着くのは夕刻になる。邱総裁に伝えると『迎えに行くから大丈夫。心配ない』と言っている。


 環期公司のサポートも頼りになるガイドも居ない中国出張は初めてだが、もう何度も訪中しているのだから何とかなるだろうと考え、成田空港を発った。

 武漢空港は、日本の地方主要駅くらいの規模のターミナルだ。入国審査を経て外に出ると売店のようなものはもう閉まっている。どうやら国内線も含めて最終便だったようだ。出迎えを探してみたがそれらしい人は見当たらない。誰かを待っている様子の人々も、次々と相手を見つけては談笑しながら出て行く。

 追い立てられるようにターミナル・ビルを出ると、急速に陽が落ちて行く。そしてターミナル・ビルの照明も消え、辺りには街灯の頼りない明かりしかなくなる。出迎えをすっぽかされたようだ。残念なことに、周辺にはホテルも店舗も見当たらない。

 困っていると笑顔で『タクシーが必要だろう?』と声をかけてくる男がいる。向こうから客引きしてくるようなタクシーに碌なのがいないことは分かるが、もう空港の前に他には車が残っていない。

 覚悟を決めて行き先のホテル名を描いたメモを渡して乗車すると、反対側のドアから私の隣に別の男が乗り込んできた。『誰だ』と聞くと、『心配ない。友達』と訛りの強い英語で答える。今更じたばたしても仕方ない。


『ホテルはかなり遠いが、四百元で行ってあげる。これはすごく安い』

 タクシーが走り出すと、運転手の男はそう言った。隣の男も『そう、とても安い』とうなずいている。どれだけ距離があるか知らないが、今まで乗ったタクシーに比べて明らかに高額だ。しかし、下手に騒いでは身ぐるみ剥がされて放り出される恐れもあるし、命を取られる危険すらある。私は曖昧にうなずくことにした。

 文句を言わない私を見て適正価格を知らないカモと思ったのか、あるいは危険を回避する慎重な人間だと思ったのか、抗議する様子が無いので男たちは安堵したようだ。タクシーは森のような場所に沿って走る。郊外に向かっているなら不味いな。しかし、やがて大きな橋を渡った。長江を越えたのだろう。空港は武漢の街を南北に流れる長江東側の武昌地区にあり、ビジネス街は西側の漢口地区にある。どうやら目的地方面に向かっているようだ。再び寂しげな森の中を通った後、車は市街地に入った。

 既に運賃を四百元と決めているのだから、男たちに遠回りするメリットはない。最短距離を走ってきたのだろう。空港から三十分足らずでホテルに到着した。運転手の周りを注意深く見ると、足元に隠したメーターには七十五元と表示されている。五倍以上に吹っ掛けていたのか。会社には七十五元の売上を報告して、残りは自分たちの小遣いというわけだ。

『金はリュックの中だ』

 支払いの際に私はそう言って、トランクに入れたリュックを取りに出た。肌身離さず持つはずの現金をリュックに入れるのは嘘臭いが、雲助タクシーに乗るような奴なら危機感もないのだろうと思ったのか、男たちは私が下車するのを許す。

 リュックとスーツ・バッグを回収してトランクを閉めた私は、近寄ってきたドアマンに話しかける

『空港からここまでタクシーで来たのですが、彼らは四百元と言ってます。これは適正ですか?』

『それは高い。せいぜい百元ですよ。私に任せてください』

 ドアマンはそう言って強い口調で運転手と何か話し、しばらくして『百元で大丈夫です』と言ってくる。百元札を渡すと運転手は忌々しそうにしていたが、こんな街中でホテルと揉めるのは困るのか渋々と車を出した。ドアマンには『助かりました』と言って五十元のチップを渡す。結局正規料金の倍を払う事になったが、真っ暗な空港に一人取り残されることを思うと、許容範囲と言える。


 それにしても、ドアマンには助けられたが、到着するなり武漢の印象は最悪だ。私は酷く疲れを感じながらチェックインを済ませて部屋に向かった。

 シャワーを浴びて一息つき、慣れてきたからと慢心していたことを猛省した。運良く若干ぼられた程度で済んだが、一つ間違っていれば大変なことになったかもしれないのだ。そう落ち込んでいると、部屋の電話が鳴った。

「先生、要不要小姐(旦那、女の子はどうですか)?」

 受話器を取ると、電話の主は渋い声で開口一番にそう言う。

『え、何の小姐?』

 そう応えると、分かっているくせにと言わんばかりの含み笑いを湛えた声でまた聞いてくる。

『一緒に寝る小姐だよ。要るの? 要らないの?』

 こっちはさっきまで命の危険に晒されていたのだ。そして、売春婦を呼んだところに公安が踏み込んできて、などという話も聞く。不機嫌な声で結構ですと断っておいた。男性客だけで宿泊したらとりあえず営業してくるのか? それともドアマンの報告を受けて、雲助タクシーに引っかかる間抜けだと嘗められているのか。

 そう考えていると、再び電話が鳴った。しつこいな。無視しようかとも思ったが、まともな要件があっても困るので出てみる。

「もしもし」

 日本語が聞こえてきた。応礼だ。意外な相手だったので、一瞬言葉に詰まる。

「えっ、あれ、リンちゃんか? どうしたの?」

「よかった、ちゃんと着けたか心配してました」

 今では考えられないことだが、当時は日本でも外部からホテルに電話して「○○さんに繋いでください」と言うと、本人の部屋の電話に取り次いでくれた。

「わざわざ連絡してくれてありがとう。特に問題はないよ。着いたら夜だったから街の様子は良く分からないけどね」

 本当のことを話して要らない心配をさせることはない。時差で日本は一時間早いので、自宅から掛けてきたのだろう。少し落ち込んでいた私は、応礼の声を聞いて気が楽になった。相変わらず他愛のない話をしてくるが、応礼が自腹で国際電話を掛けているのだから長い通話は避けよう。

「ちょっと疲れてたけど、リンちゃんの声を聞けて元気になったよ。また帰ったらね」

「はい、お土産話を楽しみにしてます」

 そんな事で絆されるのは我ながらチョロいとも思ったが、応礼の気遣いは嬉しかった。とにかく明日は弘達期貨で商談だ。早めに寝て英気を養おう。

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