中国人研修生が来るらしい!
4-1 マックを買おう
年が明けて一九九四年となり、旧正月を控えた一月下旬に環期公司の蔡さんから連絡があった。北京と上海で顧客を集めた大規模セミナーをやるので、鹿島社長にも参加しスピーチしてほしいとのことだ。他にも、各地の支店で社員向けのレクチャーをして欲しいこと、そして日本に研修生を送りたいという希望を伝えられた。
社長は乗り気で、具体的な話が次々と決まった。四月後半に予定される北京・上海のセミナーには社長と酒井部長が出席し、通訳として応礼が参加する。私も同行して手伝った後で南京、長沙、広州の支店を一人で回る。それに先立つ三月下旬には環期公司本社と上海、広州各支店の経理、つまり課長クラス担当者三名が日本に来て一週間程度の研修を受ける。北京からは李宣さんが来るらしい。
先ずはビザの申請が必要となる。部長や私の数次ビザは一年間有効なので五月までなら大丈夫だが、社長のビザを取得する必要がある。また応礼の場合、台湾人の大陸渡航は香港で手続きが必要らしい。書類を送るなどして日本人よりも手間と時間が掛かる。それ以上に大変なのは研修生の招聘だ。ビジネス上の目的などを書面で申請し、城東通商が日本滞在中の身元保証人にならないといけない。この頃の中国人の海外渡航や日本入国のビザ発給も、今とは比べものにならない位に難しいものだった。
ビザの手配を進めながら、諸々の準備もしないといけない。社長のスピーチ内容を考え、部長や社長のチェックを経て大筋が決まったら、事前に環期側に知らせておくため応礼に翻訳を依頼する。そして、環期公司各支店で行うレクチャーの内容や、李さんらの研修の内容も決める必要がある。チームの皆と相談してアイデアを出してもらい、それを基に案を練った。
ある日、机にA4のコピー用紙を広げて研修のフローチャートを下書きしながら考えていると、エリックが話掛けてくる。
『モリワキサン、相談があるんだけど……』
『何? 彼女と喧嘩したとかだと、私は役に立たないよ』
『仕事の話だよ。城東に入ってから私はずっとタイプライターで文章を書いてるでしょ。でも間違ったときの修正が面倒なんだよね。保存できないから書き直すときは最初から全部になるし』
そういえば、レターを書いてる終盤で、時々頭を抱えてF××Kなどとつぶやいてたな。タイプライターでもちょっとした打ち間違いなどは修正できるが、まとまった文の挿入や入れ替えは無理だ。
『両親の世代ならともかく、私は学生時代にはコンピュータを使ってたんだ。今どきタイプライターは不便だよ。だからマック買わない?』
『アップルの? コンピュータって、高くない?』
私たちの部署には業務端末が二台あった。これはパソコンではなく、社内の電算室のコンピュータに繋がったもので注文伝票や顧客帳票などを入力管理するほか、通信社のニュースやチャート、価格表などの相場情報を閲覧できる。ただし、ワープロ代わりに使うような機能は付いていなかった。私たちにとってコンピュータというのはこうした何千万円も何億円もするような装置であって、まだマニア以外の一般人にとってパソコンは馴染みが薄かった。従って、私も文書作成にはワープロ専用機を使っていた。日本語でしか使えないワープロは、エリックには操作できない。
『二十万円くらいかな……チームで共有すれば絶対役に立つよ。ワープロの他に数字の分析もできるし、グラフを挿入した資料も作れる。ダメなら自腹で買う積りだけど、ローンについてお店の人と話すのが私には難しいから、とりあえずアキハバラまで付き合ってくれると助かる』
当時の秋葉原には、外国語に対応する店員などそうはいない。通訳がいなければエリックが買い物をするのは難しいだろう。息抜きもかねてエリックとパソコンを見に行くことにした。課長に断りを入れて地下鉄で向かう。
家電なんて滅多に買わないので、秋葉原に来るのは久しぶりだ。家電量販店やパーツ屋のひしめく電気街には、以前よりコンピュータ・ショップが増えているような気がした。価格を比較するために何軒か回って見ていると、店員に声を掛けられた。マッキントッシュ・カラー・クラシックという機種が前年秋に出たばかりらしい。エリックが学生時代に使っていたモデルよりシンプルな形のようで、価格は確かに二十万円余り。
「これって、日本語で動かすんですよね? 英語環境にして使えますか?」
「漢字トークという日本語OSですね。最新のものは漢字変換が凄く進化してますよ。英語に設定は可能です。ランゲージ・キットを入れたら他の言語でも使えますね」
「じゃあ、中国語も使えるんですか?」
「ありますよ。チャイニーズ・ランゲージ・キット」
店員がソフトウェア売り場からキットの箱を持ってきてくれた。これをインストールすると、台湾の繁体字も大陸の簡体字も使えるようになるようだ。そうなれば日本語ワープロで旧字体を打つ必要がない。いいな、これ。
『エリック、中国語のレターや資料が書けるなら価値があるよ。帰ってカチョーとブチョーに買ってもらえるよう相談しよう』
私たちは、マック・カラー・クラシックとチャイニーズ・ランゲージ・キットのカタログを貰って会社に戻った。
ワープロも使えない田端課長はパソコンには興味が無さそうだったが、「お前らが便利になるんだったらいいんじゃない」と賛成してくれた。部長はやはり中文レターが書けることに食いついた。環期公司や鴻隆期貨の取引実績に加えて社長の訪中も控えており、稟議書はすんなり通った。
マックが納品され、皆で使えるようにパソコン席を作った。エリックは快適そうに仕事をしている。中国向け資料もすべて簡体中文で作り直しだ。しかし、問題点が一つ。簡体中文の入力方法はいくつかあって、一番簡単そうなのはアルファベットを使うローマ・ピンインというものだ。応礼は台湾で用いられるカナのような注音記号しか使えず、また台湾のローマ・ピンインと大陸のそれはかなり違うようなのだ。
結局、大学時代に外国語の授業で中国語を履修した私が、大陸式のローマ・ピンインに一番慣れているということなる。神保町の東方書店に行って新華字典を買い求め、首っ引きでピンインを確認しながら変換する修業が始まった。ローマ・ピンインは日本語のローマ字入力に似たところもあるが、日本語よりも発音の多彩な中国語を表記するため当然使う文字の種類も多い。日本語ではすべてRを使う音もLとRで区別されるし、「西」の発音などはXIと表記される。このXIの方が日本語のシーの音に近く、SIと表記する「四」の発音はスーの音に近いといった具合で混乱もさせられる。
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