二つ目の試練

 次の部屋は、踏み入れても姿が消えるということはなかった。一行は次に何が起きるかわからず、困惑した顔でお互いを見やる。

「何にも起きなかったりする?」

「そんなことは」

「えっ……」

 突然、視界が変わった。深層意識に再びあの声が呼びかける。

『ただ耐えろ。途中退場もできるが、試練は達成できない。合言葉は「我試練を拒む者なり」だ』

「なんだこれ……」

 テオは石造の部屋にいた。そこは本で埋め尽くされており、なんだか研究所といった方が正しいような気がする。

 ……ここを俺は知っている。

 みるみるうちに部屋は物だけではなく人も形成していった。それは若き日のカイと、テオの両親の姿だった。

「父さん、母さん!」

 テオの声は届かない。まるで自分がその場にいないかのような感覚。話していた三人のうち、カイが唐突に部屋の中央にあった鍋に炎の魔法を飛ばした。鍋の中身はわからない。けれどそれは爆発して酷い匂いを発した。

 突然のことでテオの両親は防げなかったようだった。防御の魔法で無傷のカイは、重傷を負った父親に向かって魔法を詠唱する。しかし、その前に立ちはだかったのは母親だった。

 カイは表情ひとつ動かさない。魔法で作られた刃が母親の腹を貫くと父親の叫び声が上がった。

「カイ様、どうして」

「私たちになんの恨みが」

 カイは答えない。テオは自分の頬にたくさんの涙が流れることを感じていた。カイは、カイは本当に……。

「カイ爺、やめて……!」

 部屋が炎に包まれていく。燃え盛るその部屋の扉を閉じたカイは笑っていた。



 場面が変わった。

 そこも見知った場所だった。生まれてからほとんどずっと、暮らしてきた懐かしい家。その地下、カイがいつも薬を作っていた部屋は、テオが幼い頃に遊んでいたおもちゃや、エリーのお気に入りのぬいぐるみなどが置いてある。

 その部屋にいるのはカイと、そしてイェルクだけだ。イェルクは長剣をカイの胸から引き抜くと、執拗に剣を突き刺し続ける。その度にカイの体からは血が噴き出る。なんども、なんども、剣は彼の体を貫いて──。

「やめろぉぉぉ!!」

 また、場面が変わった。目の前に横たわるのはイェルクの遺体だ。それは血に塗れていて、ところどころ肉や骨が見えていた。

 先程のカイの姿を思い出して、息が上がる。胃が迫り上がるような感覚が襲って、道端に吐いた。落ち着いてから周りを見回すと、酷い匂いが鼻について口元をおさえた。

「なんだこれ……」

 燃え盛る炎の中、逃げ惑う人々、蹂躙する魔物たち。襲われた人たちの中にはあの時人質にされた少女や、クラーラ。たくさんの知り合いがいた。

 誰か生きている知り合いはいないか。歩こうと後ろを振り向いて一歩、足に何かがぶつかって下を見る。

 明るいオレンジ色の髪。しかしいつもそれと同じぐらい明るく輝く目は開いていない。口から血を吐いて倒れている少女を抱き寄せると、ぼろぼろと肉塊が崩れた。

「あ……あっ……あ……!」

 テオは何も残らなかった血まみれの手を拭くこともせず、その奥の血溜まりの中に倒れた男を見る。黒髪の端正な顔立ちの男。彼の剣は少し離れたところに落ち、そのすぐそばには絶命した魔物が横たわっていた。

「いやだ、もういい……見たくない……」

 次に何が来るのか、わかっていた。それはこの世界で最も愛している人。かけがえのない、たった一人の──。

「お、にい、ちゃ……」

 ねちょり。背中に走る感覚。

 振り返ると、そこには血で汚れた手をテオに伸ばす銀髪の少女が立っていた。

「エリー……」

「お兄ちゃん、助けて……」

 ふらついた彼女を抱き止めた。息が荒いその命の灯火は、みる間に消えていく。やがて藤色の瞳には光が失われて、虚になっていった。

「エリー、ダメだ、目をあけろ。こんなところで……俺を一人に、しないでくれ……」

 エリーは、光を失った目でテオを見ると微笑む。

「あああああああ!!!」

 目を開けたまま事切れたエリーはパラパラと音を立てて灰に変わっていく。風で灰は宙を舞い、空に消えていった。その飛んでいった先には、因縁の相手が立っていた。

 それが立っている付近から、すべてのものが灰へと変わっていく。ついに世界の全てを蹂躙しつくさんとする魔王は、テオを見て口を開く。

「何もかも失った世界に、一人とりのこされた気分はどうだ?」

「最悪だ……」

「だろうな。待っていろ、今終わらせてやる」

 火炎の球。何もかもを焼き尽くす獄炎。

 熱さ、痛み、そして──。



 何も感じなくなった。



 真っ白な世界に一人。そこには何もなかった。

「……なあ」

 テオはまっすぐ前を見つめる。前に進んだが、その先にも何もない。

「これで満足か? まだあるのか?」

 上も下も、そこには何もなかった。

 まっさらな世界の上に、不意にその姿が現れる。星屑色の髪を持った少女は、いつ何時でも美しい。

 それはナイフで刺された少女の姿。あるいは炎に焼かれた少女の姿。あるいは水に溺れた少女の姿。

 そのどれもが死にゆく愛する人の姿だ。白い世界の中で、何度も、なんども、それは繰り返

 される。

「本当に趣味が悪いな。確かに何度見てもエリーの死は辛い。けれど、それは俺が合言葉を言う理由にはならない。なぜか知りたいか?」

 独り言つ。その間にも妹の死は再現され続けていた。テオは、その姿から目を離さない。

「エリーはきっと、自分の命が失われても、この世界を守ってくれって、そういうはずだから。だから、俺は逃げない。この試練に打ち勝って、必ず魔王を封印する」

『よく言った。剣士よ』

 ──白い世界は、そこで終わった。



 気がつくとそこは元の場所だった。他の皆はいない。これは試練の続きだろうか、と考えていると、左方に少女の姿が現れた。

 カーヤは少し腫れた目を擦っている。テオの顔を見た瞬間、ポロポロと涙をこぼし始めた。

「テオ、あたし……」

「巻き込まれたんだな」

「声も聞こえるし、酷かった。本当に……世界も、みんなも、テオも……」

「大丈夫、打ち勝ったんだ。そんな未来にはさせない」

 テオはカーヤの手を取る。頷いた彼女の手を強く握った。そう、彼女もまた、守りたいものの一つだ。不意に後方に気配を感じる。繋いだ手を離して振り返ると、そこには蒼白したミカが座っていた。

「! 戻った……姫さ……陛下は!」

「ミカは何を見てたのかなんとなくわかるな。エリーは、まだ……」

 その時、悲鳴が上がった。そこにいたのはエリーで血の気がない顔で呆然と立っている。

「……私。わたし……」

「エリー! 大丈夫か?」

 よかった、これで揃った。とテオが言いかけたそのとき、エリーは床にへたり込んだ。長い髪が下につくほど俯いている。

「私……失敗、しちゃった……」

 三人が顔を見合わせる。それは誰も予想していなかったことで、けれどあってはならないことだった。どうするべきか、三人は逡巡する。

「……私のせいで、みんなを救えないかもしれない」

「……陛下。大丈夫です、きっと方法は他にもあります。私が必ず……」

「ちょっと提案なんだけど」

 手を挙げたのはカーヤだ。彼女は首を傾げたエリーの肩に優しく手を置いて微笑んだ。

「再挑戦、できないかな? この試練を乗り越えないと先には進めない。でも外に追い出され

 ていないってことはまだチャンスがあるってことじゃないかな?」

「確かに……これは修行の一環を兼ねているように思います。だとしたら……」

「なるほど。エリー、いけそうか?」エリーは頷く。そして叫んだ。

「おねがい、もう一度──!」




 それは再びの世界。

 何にもない。全てが灰色に包まれたそこは、変化というものがなかった。

 自分ですら、動いていないのだ。体という物理的な概念はなくなり、ただ意識だけがそこにいる。ここはそういう世界だった。

 誰にも会えない、何もいない、草ですら生えていない。そんな世界で永劫の時を過ごす。それが、私にとっての試練だ。

「もう、負けない。この世界に何十年、何百年、何千年閉じ込められようとも、私は私が救いたい世界のために、耐えてみせる」

 大切な人のことを考える。

 失った両親、不安を抱える民たち。カイ爺、カーヤ、ミカ、そしてテオのことを。

 なんでこの灰色の世界が怖かったのかも忘れてしまった。気を抜けば自分であることがわからなくなってしまいそうな、そんな曖昧さが怖かったのかもしれない。

 そもそも私は誰だろうか。私はエリー。ただの……いや、リーヒテンケ王国の王だ。

 私は王国の民を守るため……いや、テオを……お母さま、お父さま……ミカは元気かな、いつか言っていたあの言葉は……。


 ……。



 いったいどのくらいの時間が経っただろう。

 未来永劫にも思えるその時間を、受け入れ続けていた。



 境目がわからなくなる。

 私が私であるというのは、いったい何をもってしてそう言えるのだろう。

 ここにいるのはもはやただの記憶の集合体で、ほんとうに体はとっくに朽ちて、なくなってしまっているのかもしれない。

 けれど、個とは記憶の上に積み上げられた人格だ、と思う。

 私がみんなを愛していること、それを覚えていること。それこそが、私が私である証だ。

 私はまだ、皆が生きる世界を、救いたいと思っている。



 ……。



 …………。




「エリー!」

  目を開ける。

 感じる温もり。

「……おにいちゃ……テオ……?」

 ああ、久しい感覚だ。

 これは体だ。私は実体を持っている。

 繋いだ兄の手は、私のものより大きかった。

 ミカとカーヤの心配そうな顔が見えて、なんだかおかしくて吹き出した。

「ふふ、テオだ。……わたし、乗り越えたみたい。……長かった」

「エリーがいなかったの、ほんの一瞬だったよ?」

「? わたし、おそらく数千年あそこにいたのだけれど」

「一回目の時は物理的に戦ってたけど、こっちは時の流れが違うのかな」

「それはそれで不気味ですね。けれど、陛下がお戻りになられてよかった。……早く先に進みましょう」

「私も賛成。早くこんなところからはおさらばしたいよ」

「ええ。いきましょう」

 立ち上がったエリーの後ろ姿は、どこか今までよりも頼もしく見えた。


 三人は王が開いた次の扉に向かって、続いていったのだった。

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