花言葉

 石造りの廊下は、歩くたびに足音が反響する。ところどころが苔むし、ジメジメとした空気が陰鬱な気分を増幅させていく。一歩進むごとに強くなっていく空気の冷たさのせいか、冷や汗が背中を伝って行くのがわかる。

 最奥。そこは独居房が並ぶ広場だった。ここはかつて、凶悪な犯罪者たちを閉じ込めていた地下牢なのだ。その中央に佇むものがいた。こども姿のそれはしかし、その頭に生えた立派なツノが、それを人の外にいる者たらしめている。

 一歩。その広場にクラーラが足を踏み入れると、音もなくそれは振り向いた。

「あれ? 性懲りも無くここに来たの? やられるってわかっているのに」

「……いいえ」

「じゃあ何をしにきたの?」

 少年か少女かわからないそれは潤んだ大きな目でクラーラを見て首を傾げた。腹の傷が疼く。恐怖に身がすくまないように、手に持った縄を引いた。

「これを見たらわかってくれるかしら」

 縄に引かれて前につんのめったのは、金髪と銀髪の兄妹だった。クラーラは人外の子供に向き合う。

「お人好しの兄妹には似合いの結末だわ。……さぁハルトロー。カロリーネと交換よ」

「……いいよ。こちらに連れてきてよ」

 思ったよりあっさりとした承諾だった。クラーラは気づかず噛んでいた唇から血が滲んでいることに気づいて我に返る。ハルトローが乗り気なのはいいことだ。慎重に、刺激せずに移動する。そうすればきっと、彼女を取り戻すことができるのだから。

 ハルトローはいまだ無表情だ。あどけない無垢な顔立ちは美しいが、表情が読めないだけでこうも不気味なものか、とクラーラは思う。角付きのそれが指を鳴らすと女が傍らに現れた。

 カロリーネだ。

 柔らかい栗色の髪、その髪と同じ色のうるんだ瞳。健康的な肢体に胸元に輝くのは、私が贈った首飾り。

「クラーラ!」

「カロリーネ!」

 考える前に駆け出していた。彼女の温もりが腕の中に収まって、安堵の声が漏れた。ああ、よかっ……。

 衝撃。

 腹がものすごく熱い。見ると赤い何かが熱を伴って流れ出していた。そこに刺さるのは、カロリーネが持った短剣だった。

「カロ、リーネ……?」

 カロリーネの栗色の瞳が漆黒に変わり、光は失われた。その口の端がゆっくりと引かれ、不均衡な笑顔がその顔に張り付いた。

 背後に同じ顔が見えた。ハルトローの笑い声が響く。

「バカだなぁ。人質なんて生かしてあるわけないでしょ。お前を利用するのに楽そうだったから使っただけ」

「かろ、りーねは……」

「攫ってなんかいないよ。その場で殺した。探してみるといい。砦の中、見つかりにくいところに。今頃彼女は暗くて冷たい場所で」

「貴様ぁああ!」

 斬りかかるクラーラの腹には短剣が刺さったままだった。ハルトローに向けられた剣筋はカロリーネの偽物が引き抜いた剣で受け止められる。背後のハルトローの眉がかすかにひそめられた。

「ただ怒るだけ? 意外だなぁ。もっと面白いかと思ってたのに。そろそろ、そこのお二人さんもそろそろ動いたらどう? どうせ拘束なんてされてないんでしょ?」

「……っなんで」

「お前ら人間の浅はかな作戦なんてお見通しなの。さっさと地に臥して消えろ」

 ハルトローは漆黒の目を見開くと頭上に刃を出現させる。刃は二人に向けられた手のひらに

 従って飛んでいく。

 切り裂かれる、その瞬間。物陰からカーヤとミヒャエルが飛び出した。少し一瞬遅かった防御魔法は刃の力に押し負け、四人ごと弾き飛ばされた。

 くらくらする。血か涙かわからない液体がひたすら顔や体を流れていく。どうしてカロリーネが死ななければならなかったのか。この魔物が彼女を……。

 思考もうまくまとまらない。斬りかかるたびにカロリーネの顔を見て一瞬の迷いが生じる。幾度目かの斬撃が右腕を襲う。剣が落ちた金属音が響く。

 あ、もう無理かな。でも、カロリーネももういないんだ。それなら──。

 再び斬りかかるそれの姿が、目の前から消えた。ふらついた私の肩を支えてこちらを見つめたのは、紫色の美しい瞳だった。優しい光が傷を閉じていく。

「陛下……申し訳、ありません。わたし、は……」

「無理しないで、休んでいて」

 クラーラは安心して目を閉じる。エリーは傷が閉じたのを確認すると彼女を横たわらせて立ち上がった。向かう女の偽物はにやりと口の端を引いた。

 一方、テオは飛んできた刃を斬りおとす。それは四方八方からテオとミカを襲い、勢いが収まる気配はない。ミカは軽々と刃を避けると軽口をたたく。

「少しは動きが良くなったんじゃないですか?」

「必死なだけなんだけど!」

「いつもなら必死でも数発は被弾してます」

「そうだけども!」

「……無視しないでほしいなぁ」

 ハルトローが掲げた左腕からすさまじい突風が放出され、こらえきれなかったミカとテオは吹き飛ばされる。

 気を取られたエリーに、偽物の刃が迫る。カーヤの魔法は数歩、届かない。と、その時、紫色の光があたりに満ちた。

「──光よ」

「何を……」

 エリーの胸元には紋章が現れていた。その光は次第に強くなり、エリーに迫っていた偽物は掻き消えた。ハルトローはまぶしそうに目を細めると怒りの形相で口を開いた。

「覚えていろ、我は硬岩のハルトロー。ザルブザジーレン様の臣下にして人間の世を滅ぼすものだ!」

 角付きの魔物は指を鳴らすと忽然と姿を消す。あとには血の匂いが立ち込める戦いの後だけが残っていたのだった。



「ねぇクラーラ、知ってる? ストラフリーデルの花言葉」

「花言葉なんて私が知ってると思う?」

「あはは、そうね」

「それで、なんなの? その花言葉って」

「『この命が尽きてもあなたを愛します』だって」

「ええ〜なにそれ、少し怖いわね」

「確かに。けど、とってもすてき」

 薄い茶髪の女は髪をふわふわさせながら笑う。クラーラはその髪を耳にかけると優しく額に口付けした。彼女の柔らかい頬に赤みがさした。

「たしかに、死んでからもずっと同じ気持ちなら素敵かもしれないわね」

 薄い紫色の花に囲まれた二人の女はそっと寄り添う。そんな穏やかな日々が、ずっと続いていくと思っていた。





「クラーラ」

 その墓前には一人の女が立っていた。どこか上の空な彼女は声をかけられてようやく、近づいてくる少女の姿に気づく。

 雪が降り始めていた。銀髪の少女は頭に少し積もった雪を払うと巻き髪の女に微笑みかける。クラーラはわざわざこんな砦の外れまで足を運んだ少女を見て目を細める。

「きてくれたのね……」

「ええ」

「会ったこともないのに」

「でも、クラーラが愛していた人だってことは知っているわ」

「陛下……」

 カロリーネの遺体は三個ある井戸のうち、使われていないものの底から見つかった。彼女の葬式は細々と、しかしかなりの人数が参列して行われた。クラーラと同じく、カロリーネもまた、砦の多くの者たちから慕われていたのだ。

 クラーラは長い睫毛を伏せると呟くように口を開く。

「……少ししたら砦を発とうと思う」

「どうして?」

「たくさんの人に迷惑をかけたわ。私は未熟で、私情で陛下を危険に晒した。砦のみんなももしかしたら危なかったかもしれない」

 クラーラの頬には一筋、雫が流れていた。彼女は顔をそむけると言葉を続ける。

「だから、私はここにいないほうがいいの……よ」

「クラーラ」

 エリーがクラーラを見つめる、その瞳はなにかを見透かすような美しさをたたえている。エリーはドレスの裾をぎゅっと握って一歩前に出た。

「私は、ここに少し滞在するだけであなたが皆に慕われていることがわかったわ。どんなことにも明るく前向きに振る舞う姿勢。細やかな気遣い。そして、あなたは自分が傷つくことも厭わないぐらい、人を愛することができる人」

 クラーラは何も言わない。顔をそむけたままの彼女に、エルネスティーネは微笑んだ。

「もし誰かの許しが欲しくて、ここを去ろうとしているのなら、私が許します。あなたはこの砦に必要な人間。……これは私の個人的なお願いだけれど。これからも、この砦を、守ってほしい。……どうかしら」

「陛下……わたしは」

 不意に、花の香りがした。柔らかくて、優しくて、さわやかだけれど、ほのかに甘い。彼女の存在そのままのような香り。

「カロリーネ?」

「?」

「そう、そうね。わかったわ。……これからもこのアイン砦を守り続けるわ。そして陛下、私クラーラ・ハルツェンブッシュは、あなたに忠誠を誓います。あなたが辛い時、苦しい時いつでも私をお使いください。きっと役に立って見せます」

「ありがとう、クラーラ」

 再び微笑んだエリーに、クラーラも眉を寄せて笑みを見せる。そう、きっと。彼女もそれを望んでくれると思うから。

 沢山の墓石が並ぶ場所に、しんしんと雪が降り積もっていく。その一つに手向けられた花は、生前の彼女が愛した、薄紫の美しい花だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る