エリーと兄

 もう十三年も前のこと。その日は雪が溶け始めたばかりのまだ寒い春の日で、身の凍るような寒さの中、雨が降っていた。

「じいちゃんが言ってた薬草、これであってるかな……」

 テオドール・フライフォーゲルはまだ六歳の少年だ。今よりもっと幼い頃、事故で両親を亡くしてからは引き取ってくれた祖父と二人で暮らしてきた。

 彼は手に取った野草をまじまじと見つめる。祖父に頼まれた薬草取りは始めたばかりで、まだ慣れていないその作業はとても大変だ。

 溶け始めているとは言っても雪はまだ残っている。悴んだ手に息を吐いて温めると、同じものを探してまた雪の中を探し始める。

 祖父は街から少し離れた家で医者のようなことをしていた。こうして時折必要な薬草を採取して薬を作っているのだ。その手伝いをしたいと言い出したのは自分なので、さっさと諦めて帰ると言う選択肢はその時のテオにはなかった。

「うーさむ、帰ったらカイじいにスープ作ってもらお」

 そうして彼がまたしゃがみ込もうとした時、少し離れた場所で悲鳴が聞こえた。テオは首を傾げてそちらを向いたが、どうやら林の奥からのようで様子は見えなかった。

 祖父によくこの場所に連れてこられていたテオはその林の奥に崖があるのを知っていた。気づいた彼の顔はみるみるうちに青ざめてゆく。

「おちてたらどうしよう!」

 勢いよく駆け出したテオはその崖の上にいくつかの人影を見て林の影に隠れた。頭だけ出して様子を伺うと、なんだか揉めているようだった。

 近くに行くと様子がわかった。背の高い男が三人、少女を崖の淵へと追い詰めていた。

 少女はテオと同じか、少し幼い年齢だった。必死に走って三人から逃げてきたのだろう。汚れてボロボロになったドレスを着ていた。

 追手の中で一番位の高そうな茶髪の男が少女の手を掴む。彼の顔には大きな傷があり、逞しい体格も歴戦の戦士であることを窺わせていた。

「やめて、はなして!」

「逃げ場はない。大人しくしろ、両親にもすぐ会える」

「いや! あなたたちとはいっしょにいかない!」

 少女が手を振り解いたその瞬間、不思議なことが起こった。彼女の胸元に、奇妙な形の紋章が現れたのだ。その動きに呼応するように、風が吹き、彼女の長い髪が舞った。

 テオはおろか、追手の三人ですら、その姿に釘付けになっていた。少女は目を見張るような美しい銀髪の持ち主で、紫色の瞳は水晶のように力強い輝きを放っていたのだ。それはどこか人ならざるもののような美しさで、その場の誰もが魅入られて動くことはできなかった。

 不意に、その紋章が消えた。金縛りが解けたように気を取り戻したテオは、意識を失って崩

 れ落ちそうになった少女の姿を見て、考えるよりも先に行動していた。

「〈ちりあくた〉よ、われに、じょりょくを!」

 追手達はまだ動けていなかった。彼らを一緒に巻き込んであたり一面に土煙が立ち上る。祖父に教えてもらった魔法で目をくらませた少年は、悪い視界の中で必死に少女の姿を探し、そして見つけた。

 先ほどの紋章は彼女の魔法なのだろうか。地面に倒れた少女はテオに揺さぶられて目を開けた。

「あれ、わたし……」

「逃げたいならきて!」

 テオは少女の手を取って走り出した。少女は困惑した顔をしていたが今説明などしている暇はない。土煙はまだ消えないがさっきの男達の怒号が聞こえて、二人は全速力で林を走り抜けていった。








「はぁっ……はぁ……たぶん、ここまでくればだいじょうぶ」

 雨は強くなっていた。なるべく見晴らしの悪い場所を抜けながらしばらく走り続けると、丘の上に小さな家が見えてきた。テオは勢いよくその中に転がり込むと祖父の名を呼ぶ。

「じいちゃん! カイじい、きて! はやく!」

「何をそんなに焦っとるんじゃテオ坊、何があった」

 二階から降りてきたのは初老の老人で、白く長い髪を一つに纏めている。立派な髭は彼の自慢で、綺麗に整えられていた。

 テオが状況を説明しようと口を開きかけた時、鈍い音がした。扉に寄りかかっていた少女が不意に倒れたのだ。焦ったカイは彼女に走り寄り、触れるとテオの方へと振り向く。

「こりゃいかん、ひどい熱じゃ。テオ、濡れたタオルを持ってきなさい。後お前さんの服も」




 ──その日の晩、リーヒテンケ王国の国王夫妻とその一人娘が何者かに暗殺されたと言う報せが、国中に知れ渡った。

 その少女は、テオの家に転がり込んでから三日間眠り続けた。幸い追手は雨のせいか彼女を

 見つけることはできなかったらしい。

「こんなにねてて大丈夫なのかな」

「大変なことがあったんじゃろう。熱も下がったし、薬は効いているはずなんじゃがなぁ……早く目が覚めるといいが」

 そのままカイとテオが談笑していると不意に少女の瞼が開かれた。彼女はカイの手を借りてゆっくりと起き上がる。そして、テオの姿を見た瞬間、彼の手を取ると急に泣き出したのだ。

「よかった! 目がさめたんだね! 僕はテオ!」

「……あの、助けてくれてありがとう、わ、わたし……」

 落ち着いて話せそうにない少女の肩をさすってカイは口を開く。その視線は普段優しい老人とは異なっていて、少し鋭かった。

「お主、死んだことにされた姫様じゃろ」

 少女はえっ……と言葉を詰まらせると目を見開いた。フルフルと首を振って否定する。

「ち、ちがう。わたし……」

「大丈夫じゃ、わしはお主をどうにかしようという気はない」

「でも……」

 少女はまだ迷っているようだった。しかしテオと目が合うと少し考え込んで彼の手をさっきより少し強く握りしめた。

「わたし……よる、きゅうに起こされて、なにが起きたのかわからなくて。おとうさまとおかあさまはどうしたのって声をかけても教えてくれなかったの」

「……そうか。お主を起こしてくれた人はなんと言っていたんじゃ」

「おとうさまとおかあさまは今、とおいところにいるって。はやく逃げなきゃっていうの。わたし、おとうさまとおかあさまがもどってくるの、まってるって言ったの。そしたら扉が……すごい音がして、たくさん、こわい人たちが入ってきて、つれられて、逃げ出したの。でもその人とも、とちゅうではぐれちゃって……それで、それからはずっとひとりで……」

 少女の目からは再び涙がこぼれ落ちて、かけられた毛布にシミを作った。

「お主、名は?」

「……エルネスティーネ」

「そうか、エリー」

 カイはいつの間にか立ち上がっていた。彼の立派な髭が揺れる。そして、彼女の正面に立つとまっすぐ少女を見つめた。

「お主にはふたつの道がある。この家で隠れて暮らすか、他の国まで逃げるか」

「カイ爺、それって……」

 カイは頷く。その眼差しはとても優しいものだ。

「そうじゃ、わしらの家族になる。でもそのかわり、どこかで正体がバレたらわしらにも危険

 が及ぶ。だから姫だった頃の記憶は封印する。エリー、お主はテオの妹として過ごしていくんじゃ」

「わたし……」

「他の国まで逃げるにしても手助けはしよう。ただ、他の場所に行った後のことはわしにはなんともできん。どうする?」

 まだ幼い少女はこれからの選択を急に迫られ、俯いた。そして、「わからない」と、ポツリと漏らした。

「そうじゃな、しばらくはここにいていいから、ゆっくり考えるといい」カイは優しい眼差しでそう言い、テオを連れて部屋から出て行った。 外から差し込む月明かりは少女の銀色の髪を柔らかく照らす。

 何もかも失った少女は、毛布にくるまってその月をずっと眺め続けていた。






「テオ、これからお前はエリーの兄となる。お主はそれで良いか」

「……うん。エリーはこのままじゃずっとかなしい顔をしなきゃいけないんでしょ。だったら僕がエリーを笑わせてあげる!」

「……テオドール。お主は本当にいい子じゃな。いい兄になるんじゃよ」

 そう言ってカイの皺が刻まれた大きな手がテオの頭を撫でた。テオは少し照れくさそうに顔を赤らめて笑う。

 エリーが目を覚ましてから数日後、彼女は自分からここで暮らしたいと言ってきた。彼女がどう考えてその選択をしたのかはわからないが、テオは何かエリーの手助けができればと思っていた。

 あの日、エリーが目覚めた日、テオの手を握ったエリーの手は震えていたのだ。幼い頃に両親を事故で失ったテオは彼女の痛みが少しだけわかる。だからこそ、エリーが笑顔でいられる選択をしてほしい。そう思っていた。

「本当にいいんじゃな」

「うん。ただ……なまえ、エリーって呼んでほしいの」

「……そうだな」

 カイは頷くと杖をとって彼女の頭に当てた。それは曲線で紋章を描いていき、追従するように光が浮かび上がる。

 記憶とは地面に深く刻まれた轍のようなものだ。上から雪が降ってもそれが溶ければいずれまた現れる。そんな確かなものをほんの少しだけ、少女が少しでも幸福な子供でいられるようにしまっておきたいと願いをかける。

「……魂に刻まれし記憶よ、この者の出自の記憶を閉ざされし魂の檻に投げ入れたまえ。それは祈りとなり、祝福となり、彼女を守る盾となる。魂に刻まれし記憶よ」

 老人の言葉は歌のように部屋に響く。記憶を操る魔法など、自分の意思で生きて立っている人間にとって冒涜以外の何物でもない。だからこそこの魔法はとても脆かった。魂の奥底に刻まれた記憶は、隠すことはできても消すことまではできない。少しの傷からすぐ綻んでしまうような、そんな脆い魔法なのだ。

 老人は丁寧に丁寧に魔法をかけていく。この先家族として生きていくこの少女のことを思って。他の記憶に傷がつかないよう、優しく、すぐに壊れてしまうシャボン玉に触れるように。

 煌めく光がだんだんと少なくなり、そして、全てが消えた時、少女は目を閉じていた。

「エリー」

 テオの声に、少女はその長い睫毛から煌めく藤色の瞳をのぞかせる。

「あなたは?」

「僕はテオ。テオドール。君のお兄ちゃんだよ」

 そう言って、少年は優しく微笑んだのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る