三つ目の試練 〜ミヒャエルとカーヤ〜
それはあの日の城の中だった。
陽光が差す美しい中庭。鳥が歌い、蝶が羽ばたくそこには花が咲き乱れている。囲んだように敷かれた廊下を、ミヒャエルは歩く。彼は向こう側から歩いてくる人物の姿を見て、足を止めた。
「陛下……? 王妃様……?」
「どうしたのだミヒャエル。死人でも見たような顔をして」
「最近疲れすぎじゃないの? いつもつきっきりだから……あら、エリー」
星屑の髪が煌めく。幼い少女はミヒャエルの後ろから飛び出すと、両親の元へと駆け寄った。抱き上げられたエリーは嬉しそうに顔をほころばせた。
「姫様……」
「ミカ!」
笑顔でこちらを振り向く少女に思わずつられて頬が緩む。何かが違う気がしたが、それはおそらく気のせいだろう。私はミヒャエル。エルネスティーネ様付きの騎士だ。
「あのねお父様、わたし、大きくなったらミカと結婚するの!」
「あら? いつのまにそんな話に?」
王妃は美しい所作で口に指をあてると首を傾げる。彼女はそのままエリーの柔らかい頭を撫でた。
「い、いえめっそうもない! 姫様、ご冗談がすぎますよ」
「えー、ずっと一緒にいるって言ってくれたのにー」
むくれる少女を見て、父親が笑い声をあげた。
「ミヒャエルは悪い男だなぁ」
「そ、それは! 私は姫様をお守りするのが役目であって……」
「お役目、終わっちゃったら一緒にいてくれないの?」
「それは……」
王と王妃の笑い声が廊下に響いた。腕の中に抱かれた少女は何の不安もなく、ただ幸福の中にいる。それがとても尊いもののように感じた。
「ミヒャエルはエリーには敵わんな。どれエリー、お前もどんなところでも恥ずかしくないような淑女になって、その時にまだミヒャエルと一緒にいたかったら私に相談しなさい、その時は私が後押ししてあげよう」
「本当に! お父様だーいすき!」
娘に抱き着かれて、王は顔をほころばせる。王妃はエリーの額に優しく口づけして笑顔を見せた。
「ミヒャエルも鍛錬を怠らないように」
「は、はい!」
言われなくてもそのつもりだった。王家に、国に、そして守るべき少女に出会ったその時から、それがミヒャエルにとっての全てだったのだ。
そして、役目を果たし続けて、かなりの時間が経った。淑女という言葉で形容するに相応しい銀髪の女は微笑むと隣に立つ。優しい藤色の目をぱちぱちと瞬かせるとその小さな唇が開いた。
「あれだけ拒んでいた割には、あっさり受け入れたわね」
「そりゃあ陛下の後押しがございましたから」
「あら、お父様の言葉がなければ受け入れてくれなかった?」
「いいえ。……愛していますよ」
「……ふふ、私も。でも絶対王様にはならないなんて、ほんと強情ね」
「この国は男王と定められているわけではないですよ。私は出自も孤児ですし、王の器ではありません。それに、隣に最も相応しいお方がいらっしゃいます」
「どーだろ。まぁそれなりに、頑張るわ」
「ええ、ずっとお支えいたします。陛下」
こんな和やかな時間を、ずっと望んでいた。理不尽に害されることのない、エルネスティーネ様が幸せに暮らしていける世界。幸福に過ごす彼女の隣に立てたら、それほど名誉で幸福なことはない。それが私の望みだ。
……望み……?
果たしてこの人生で望みが叶ったことはあるだろうか。
私は、彼女と一緒にいるという、初めの約束さえも違えてしまったのではないか。ふとそのことを思い出す。
そうか。これは私が望んだ世界だ。そして試練の一環。
「ああ、そうか、否定しなければならないのですね」
「ミカ?」
「私はあなたの夫ではありません」
「急にどうしたの?」
「……私はあなたのことを愛しています。これは本当です。けれど私はただのあなたつきの兵士で、本当の王家は大臣の策略によって滅びた」
「ミカ、一体……」
「私はあなたとの約束を違えました。私はあの時、城から逃げるあの時、あなたの手を掴んでいられなかった。絶望的な状況の中、気がついたらあなたはいなくなっていて……死んだと思った。わたしは、一度あなたを諦めたのです」
「……」
「けれど城に戻ったイェルクの話が耳に入った時、確信しました。姫様は生きていると。だからあなたが戻ってこられるように、あなたが戻った時、居場所を作ってあげられるように。そのことに全てを捧げました。そして、監視していたイェルクを追跡したとき、あなたに再会できたのです。あなたはとても聡明な、優しい女性へと成長していました。民のことを思う、王の器へと。私は決めたのです。今度こそ、あなたのそばを離れない。あなたの望みを叶えるために、私は生きていくと」
「ミカ……」
「だから、こんなところで止まってはいられない。私は現実に戻ります。これが私の答えです」
エリーの藤色の瞳が、髪の銀と混ざり合って、やがて椅子の色も、壁にかけた絵画の色も、
すべてが混ざり合っていった。
まるで絵具のように一つになっていたそれは、やがて黒になって……。そして、試練は終わった。
***
快活な声で、目が覚めた。
「カーヤ、いつまで寝ているの?」
「今日の昼ごはんはカーヤの好きなパンケーキだぞー」
「ん、ええ?」
寝ぼけた目をこする。
暖かい布が手に当たって引き寄せると、別の力がそれを引っ張った。目を開けると、ひげを生やした男がこちらを見つめていた。
「おとう、さん?」
「なんだカーヤ、寝過ぎて父親の顔すら忘れちゃったのか?」
「えっと……なんだろ、何か忘れてるような」
「忘れてることを忘れてるのか。我ながら変な娘を持ったもんだ」
父はがはは、と豪快に笑う。つられてカーヤも口を開けて笑った。
「あ! っていうかパンケーキっていった? たくさん作ったんだよね! ね! お母さん!」今の今まで寝ぼけていたのに、カーヤは足音を立てて台所に向かう。歩いてついてきた父が追い付いたところで、母が振り向いた。
「もちろん! グランベリーのジャムつきよ」
カーヤと同じ色の髪の母親は嬉しそうにウインクを飛ばす。手際よく並べられた食器とパンケーキに、カーヤは舌鼓をうった。
「すべての食は神の導きの先に。感謝を」
『感謝を』
父の言葉に続いてカーヤと母は手を合わせる。そしてパンケーキを切り、グランベリーのジャムをたっぷりとかけた。まだ湯気の出るそれを口いっぱいにほおばると、この世で一番の幸せ者のような気分になった。
「そうだ、仕事はどうなんだカーヤ」
「仕事? えっと」
「お針子の! 先月から行き始めただろう」
ああ、そうだった。かねてから服飾に興味があった私は念願のお針子の仕事に着いたのだ。
今日は月に一度の休みで、都から離れたこの田舎に帰省しているのだ。
「仕事……といってもまだ見習いだけどね。先生は厳しいけど楽しいよ! 今度型紙作りを教えてくれるって言ってた!」
「それはまぁ……!」
「娘の夢が叶って嬉しい限りだ」
「それはそうとカーヤ、いい人はいないの?」
「か、母さん!」
「急すぎない?」
「だって気になるじゃないー! 仲良くなった男の子とか、いないの?」
「あーうるさいうるさい! 今はしごといちばん!」
父はなぜか安堵していて、母は思った通りの返答が得られなくて残念そうだ。とはいえ仲良くなった人はいる。
街でいつも同じ時間に見かける金髪の青年で、薬を売っているのだ。針や鋏を扱う職場では軟膏をよく使うので、その薬をよく買わせてもらっている。
目の前で転んだ子供に商売道具を惜しみなく使った手当てをしていたところをみて声をかけたのがよく話すようになったきっかけだ。それからはたまにお昼ご飯を一緒に食べている。
妹がいると言っていたがどんな子なのだろうか。彼に似てきっと優しい人だろう……ってこんなに考えることではない。また仕事が始まれば会えるのだ。
今日はせっかくの休みなんだから、やりたいことを……。やりたいこと?
「ねぇお母さん、この家ってずっとここにあったっけ 」
「何言ってるの? あなたが生まれる前からお父さんとお母さんが住んでた家よ」
「そうだぞ。ほら、そこの柱にお前の背の高さの印もついてるだろ」
「……違う」
「え?」
「違うよ……」
ボロボロと涙がこぼれ落ちる。そうだ、わかっていた。
カーヤは立ち上がると父に抱き着く。こぼれた涙が父の若草色のシャツを濡らしていく。
「きゅ、急にどうした。仕事が嫌になったのか? それならうちで……」
「ううん、ちがうの。嬉しいの」
「カーヤ、本当に大丈夫? 体調が悪いのなら……あらあら」
熱でも図ろうとしたのか、額を合わせようとした母のことも抱きしめた。
「ごめん、少しだけ……」
父と母は顔を見合わせている。それもそうだ。けれど、母がさすってくれる背中は優しくて暖かくて、頭を撫でてくれる父の手はとても大きく包み込んでくれて、目からあふれる涙はとどまることを知らなかった。うまく息ができなくて、嗚咽が漏れる。
「カーヤ」
「ありがと……」
「大丈夫か?」
「うん、もう大丈夫」
カーヤは一歩後ろに下がった。涙はふき取ったのに、二人はまだ心配そうに見つめている。
「あはは……会えてよかった。お父さん、お母さん。大好きだよ」
「カーヤ、何を……」
「お父さんは私が生まれてすぐに亡くなった。私はお父さんの顔を覚えてない」
「……」
「お母さんは私を一人で育てるためにこの家を売って、都のはずれのボロ屋に住んでた。背の高さなんて測ったことない。そして病気になって、私が成人する前に亡くなった。私は、お母さんを楽させてあげれるだけのお金も、薬も、用意できなかった」
「カーヤ……」
「でも、この意地悪な試練にもね、ちょっとだけ感謝してるよ。だって二度と会えないはずのお父さんとお母さんに、あわせてくれたんだもん。……ここにずっといたいって、これが本当の世界なんだって、思いたくなってた」
「カーヤ、それでいいじゃない。私たちはここで生きてる。ずっと一緒にいられる」
母は眉を寄せて笑っていた。その目には涙がにじんでいる。カーヤも笑顔で、しかし首を横に振った。
「ダメだよ。私、決めたんだ。エリーの力になるって。彼女ならきっと、今苦しんでる人たちのことも助けてくれる。今すぐには無理でも、手を差し伸べてくれる。私は彼女の理想を一緒に追うために、この世界を否定するよ」
「カーヤ……」
だんだんと景色が混ざり合っていく。
世界が黒に染まるその時、二人の声が聞こえた。
──『愛しているよ』。
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