友人
皆が飛ばされたのは、カイの家から真逆の方角、城下町の端だった。崩れ落ちたテオの肩にエリーは優しく手を置く。
「お兄ちゃん」
「……俺は、君にそう呼ばれる資格はない」
「テオはずっと、私のお兄ちゃんだよ」
テオは振り向かない。返答のない彼の隣にエリーはしゃがみ込む。そのまま彼の顔を両手で包み込み、目を合わせた。
エリーを見たテオの顔はぐしゃぐしゃだった。頬には涙の筋がつき、目の周りはすでに腫れている。
「俺はずっと……ずっと君のことを騙していた。お兄ちゃんって呼ばれるたびに、君から向けられる親愛の情を向けられるたびに、罪の意識が胸に刺さって抜けなかった。君が愛してくれてたのは、君の兄である僕だ。僕は君の本当の兄じゃない。君にお兄ちゃんなんていないんだ」
彼の涙は止まることをしらなかった。流れ落ちた雫は顔を包み込むエリーの手の裾を濡らしていく。
「ずっと……ずっと、怖かった。いつかこの日が来るんじゃないかって。エリーがどこか遠くに行ってしまうんじゃないかって。俺、俺は……」
こつん、と音がして温もりが額に広がる。それは昔、なかなか泣き止まないエリーに対して、テオがよくやっていた仕草だ。エリーの藤色の瞳は真っ直ぐ彼を見据えている。
「十三年前、『お兄ちゃんだよ』って言ってくれた日からずっと。テオは私のお兄ちゃんでいてくれた。全てを無くした私の、家族でいてくれた。それを否定することは、たとえお兄ちゃん本人だろうとできないよ」
「っ……あは。やっぱエリーには敵わないな」
「だからもうそんなこと言わないで」
「……わかった。ごめん」
テオは立ち上がるとまだしゃがんでいたエリーの頭を撫でる。彼女は微笑むと満足げに立ち上がった。
「さて、ということで俺らはめでたく逃亡者ってわけだ」
「そうだよ、これからどーすんの?」
話の切れ目を見計らっていたのは朱色の髪の少女だ。彼女に答えたのは隣に立つ長身の男。
「それに関しては考えがあります。エルネスティーネ様が即位なされれば全てが正常に戻ります」
「そっか! 姫様は正当な王位継承者なんだから、姫様が即位しちゃえば」
手を叩いて喜んだカーヤの言葉を遮ったのは話の中心であるエリーだった。彼女の藤色の瞳は揺れている。
「私は、女王にはならない」
「え、どうして……」
「姫様。あなたの父上と母上を殺した大臣の悪行の証拠は掴んでおります。こうして何年も王室にい続けたのはそのため。今彼らは必死にあなた様を探している。まさか自ら出てくるとは思わないでしょう。これは好機なのです」
「……勝手に」
「姫様?」
「……勝手に押し付けないで! 私は、ただのエリーなの!」
「エリー! まって、どこいくんだ!」
テオの声は届かず、エリーは走り出す。追いかけようとした二人を制して、カーヤが黄昏の街へと駆け出していった。
数年前、まだ母が生きていた頃のことだ。
私は早くに父を亡くした。母は女手一つで私を育ててくれたが、ある時体を壊してしまった。そんな母の支えになりたくて、給金の良い魔法兵を選んだ。
兵士となってからはイェルクの元で働いていた。滅多にない抜擢と言われ、初めは喜んだのだ。しかし、すぐに後悔した。
彼は実績もあり地位もあるが、その別で目的のためなら手段を選ばない非情な男だった。代理王である大臣の命令は彼にとって絶対だった。その命令に従って遂行することがイェルクの全てだ。
だからその下で働く私も、その指示に従うしかなかった。
冤罪の男を捕縛して牢に閉じ込めたり、怪しい商船の護衛なんかもやった。おそらくこれは犯罪だろうな。と思うことがほとんどで、けれど逆らうことはできなかった。彼の無言の圧力が、それを許さなかったのだ。
母には伝えていなかった。けれど私の様子で何かを感じたのか、一度だけこんなことを言っていた。
「人の上に立つものはね、優しくなければいけないよ。人の痛みがわかって、分からなくても理解しようとするものがそうあるべきなんだよ。カーヤが悩んでいること、信じているものはきっと正しい。私がそう育てたんだ。だから、大事なことを選ぶその時、選択を間違えないように。あなたはとても、優しい子なんだから」
その時はまだ、王が大臣に殺されたなんて知らなかった。生き残りの王女がいたことも。けど、その言葉のおかげで土壇場で間違えずに済んだ、と思っている。
私は今のこの国をよく思っていない。目的のために幼い子を巻き込むことをよしとする圧政なんて、壊れて仕舞えばいい。
これは勘だ。彼女が悪い人間ではないという保証はない。けれど、賭けてもいい気がした。
──あの時自分の命を顧みず子供を助けた、エルネスティーネに。
大通りの角を回ると目立つ銀髪がいた。ついさっきまで追いかけられていたのに随分と危機感がない。
なぜかしゃがんでいる彼女に声をかけると、振り向いた彼女はカーヤを見て表情を明るくした。
「よかった! カーヤ、助けて! この子たち、お腹が空いて動けないみたいなの。私は何も食べ物を持ってなくて……」
「えっ……ちょっとあなた……」
見ると路地の奥では小さな少年たちがうずくまっていた。彼らは手も足も細くて今にも死んでしまいそうなほど痩せている。虚ろな目はこの世界に希望の一つも見出せない色をしていた。この人は自分よりも他人のことばかりだ。きっと母さんが言っていた、人の上に立つ者に必要な物を、彼女は持っている。……なら。
「食べ物は……ごめん、こんなものしか持ってない」
カーヤは紙に包まれた手のひらほどの大きさの何かを少年に手渡した。開いたその中には砂糖で装飾された菓子パンが入っていた。
「お姉ちゃん、ありがとう」
きっと兄弟なのだろう、兄はパンを分けると大きい方を弟に渡した。彼らは涙を流しながら食べ始める。
「よかった。ありがとうカーヤ」
「……ん。姫様」
「……私は」
続くのは否定の言葉。そう思った時、カーヤは跪いていた。
「エルネスティーネ様。この国の正当な王位継承者よ。私、カーヤ・アーレはこれより貴女様に忠誠を誓います」
「ちょ……ちょっと、いきなり、どうして……」
「この国の惨状を見たでしょう。子供を巻き込むことを厭わない兵士たち。飢えて死にかけている住民たち。これはみんな、今の大臣が実権を握ってから起き始めたこと」
エリーの背後ではパンを食べ終わった二人が小さな寝息を立てていた。きっとまともな寝所もないのだろう。
「この惨状を、変えたいと思わない?」
「……私は」
「あたしは、貴女ならそれができると思ってる。自分を顧みずに人を助けることができる貴女なら。私はそんな人の下で働きたい。そんな貴女を、信じてみたい」
「……私に、できると思うの?」
「ええ」
「……」
エリーは羽織っていたマントを小さな兄弟にかけると俯く。そうして少し経ったのち、顔を上げた。
「……私、今もさっきも、何にもできなかった。人質に取られた子は私のせいで巻き込まれた。この子達を助ける手立ても、私は持ってなかった」
斜陽が彼女の銀髪を染め上げる。彼女の端正な横顔は一度俯いたあと、まっすぐと前を見据えた。
「……もし。もし私が王様になって、この国の人たちが安心して暮らせる世界を作れるなら。自信はないけど……やって、見ようと思う」
「……姫様!」
「でも、忠誠とかはちょっと……。私はまだ王女でもなんでもない。ただ生き残っただけの王族。だからその……〈友達〉で、お願いできないかしら」
カーヤの表情がパッと明るくなり。暖かさがエリーを包み込んだ。エリーに頬擦りする彼女はまるで大きな犬のようだ。
「わかった! エリー、よろしくね!」
斜陽が街を茜色に染めていく。道が定まった彼らはこれからを歩いていく。彼女たちの物語は、まだ始まったばかりだ。
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