騎士と姫

 それは幼い頃の記憶だ。私が初めて公の場に姿を現す行事でのことだった。

 皆が玉座の間に集まり、式典は行われた。その主役である姫君は、まだほんの幼い少女だ。

 こわかった、知らないおとながたくさんいて、皆わたしの名前を言って頭を下げて帰ってい く。わたしはこの人たちのことを何も知らない。けれど彼らはわたしを知っている。いや、王女であるわたしという存在を知っているだけだ。

 誰もエリーという少女のことは気にかけなかった。そこには公務を果たすエルネスティーネ王女と、その両親である王と王妃がいるだけだ。

 誰も自分自身を見ていないことに気づいた。そしたら何だか急に怖くなって、涙が溢れてきた。泣いているわたしをそのままにしておくわけにはいかず、挨拶の列は一度止まった。

 座っているだけでいい。そう言われていたのに泣き始めてしまったわたしの涙は止まらなかった。こんなの、求められてないのに、みんなわたしが泣いたら困ってしまうのに。そう思ったら余計に涙は止まらなくなっていった。

 不意にふわっと体が浮いた。琥珀色の瞳がこちらを見つめていた。ミヒャエルと言う名の彼はわたしが生まれる少し前から城にいる、らしい。元々孤児だった彼は伯爵に引き取られて城に仕えるようになった、と言っていた。

 ミカはいつもわたしの味方だ。わたしがおぼえているかぎり、いつでもミカはそばにいてくれた。どんなことがあっても、いつも優しく大丈夫ですよと囁いてくれるのだ。

 彼がそう言ってくれると、何故だか大丈夫なきがした。どんなことがあっても乗り越えていけるような。そんなきがした。

 わたしは彼の温かい胸に埋もれる。鼓動の音が聞こえてくると安心する。ミカは私の頭を撫でると口を開いた。

「大丈夫ですよ、姫様」

 城の廊下にはミカの足音だけが響く。赤い絨毯でくぐもったその音は規則的でなんだか心地いい。

「このままどこかに行ってしまいましょうか」

「……ミカがずっと一緒にいてくれるならいいわ」

「それは誤解を招く言い方ですよ」

「誤解じゃないもん、本当のことだもん」

「……」

 口篭ってわたしをじっと見つめる瞳は綺麗だ。その瞳に時折垣間見える影をわたしは知っていたが、けれど今はその影は身を潜めて美しいままだ。わたしはその瞳に映る感情の名前をまだ知らない。

「……そろそろ戻りましょうか」

「どこかに行くって言ったのに」

「王陛下と王妃様がこまってしまいますからね」

「いじわる」

「……はは」

 ミカの笑顔を見たのはこれが初めてだった。笑顔と言っても微笑みに近いものだが、それでも少女の気持ちを前向きに変えるのには十分な代物だった。

「ミカは笑っていた方が素敵だわ」

「それは姫様の方でしょう」

「えー」

 城の廊下を歩く足音は、ゆっくりと玉座の間に戻って行ったのだった。






「それでは皆さん参りましょう! 我らが陛下のお姿でございます!」

 クラーラのよく通る声でエルネスティーネは我に帰った。

「お手を」

 差し出されたのは男の大きな手で、彼はその琥珀色の瞳でエリーを見つめていた。

「で、でも……」

「大丈夫です」

「……そうね。あなたが隣にいてくれるなら」

 エルネスティーネはミヒャエルの手を取って立ち上がる。それと同時に湧き上がった拍手が歓声と共に新しい王の姿を祝福した。

 指揮者が振り上げた手を発端に、低いバスの音がリズムを刻みはじめる。三拍子に乗った弦の音が旋律を奏で出したとき、ミカがエリーの手を引いた。

 ゆったりとした速さのそれを慎重に、一歩一歩こなしていく。ずっと、不安だった。けれどこうやって一つずつ、進んでいけばいいのだ。私には支えてくれる人がいる。

 エリーは左足を前に出すと体を捻って右足を下げる。勢いに身を任せるとミカが背中を支えてくれた。艶やかにターンしたエリーのドレスが真円となって舞って、周りの人間は息を呑んだ。それほどまでに、彼女は美しかったのだ。

 いつの間にか一曲目がおわっていて、二曲目の横笛が始まりの音を震わせる。そして会場全体が彩りと足音で満たされていった。

 華やかな時間はいつかは終わる。けれどその時だけは、彼らの過ごすその空間は安らぎと明るさで満ちていたのだった。




 木々がそよぐ庭。陽が落ちては月明かりしか差し込まないそこに、一人の女が立っていた。

 普段はひとつに結えている巻き髪は今は下ろされていて、ほとんど寝具姿の女は小声で会話していた。相手の姿はそこにはなく、彼女の視線は虚空をみつめる。

「わかっています。かならず……」

 月光が煌めいた。誰かの気配にハッとして振り向いたが、そこに何かの痕跡は残っていなかった。

「きのせいか……」

 この事は誰にも気づかれてはいけない。それができなければ、私は……。

 クラーラは淡く光る月を見上げる。彼女の憂いた瞳は、ただここにはない何かを見つめるように、どこか遠い色をしていた。

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