第38話 いつだって良かったんだ


「やけに遅かったな」


「そうなんですよぉ、実は倉庫の電灯が切れてまして」


 二課に戻り、富永とみながさんから声を掛けられた久遠ひさとおが愛想よく返している。


 夏季休暇を挟んだ辺りからだろうか、それまではあまり社内に溶け込もうとしなかった久遠ひさとおだが、今では部課をへだてることなくどんどんとネットワークを構築中だ。


 「そういえば、なんで永瀬だけ先輩呼びなんだ?」「それはですね——」などと相変わらず話を弾ませる後輩を横目にただただ感嘆の一言。


 すごいよお前は。


 偶然とはいえキスしたあんなことがあったばっかなのに、まるで何もなかったように振る舞えて。


 ほんと、こと恋愛においてはこいつに勝てる気がしねえ。






「やっと終わりましたねぇ」


 オフィスを出てすぐ、解放されたとばかり久遠ひさとおがぐ~っと伸びをする。


 時刻は23時。

 辺りには誰もいない。


「遅くまで付き合ってくれてありがとうございました」


 敢えてすみませんとは言わないこいつの言葉選びが俺は好きだ。


「先輩のおかげで上手く資料も纏まりましたし。あとは当日を待つのみでしょうか」


 商談はもちろん、開発の進捗も含め初めて久遠ひさとおが一から携わったOEM案件。今週末、先方での役員プレゼンをうまく乗り切れば遂に受注となる。


「だな。でもほんとここまでよく頑張ったもんだ。ま、結果はどうなるか分かんねえけど」


「またそういうこと言うでしょ。先輩のいじわる」


「そうじゃなくて。あんま気負うなよって意味で言ったんだよ」


「気負いますよ。ここまで来るのに苦労したんですから」


 恨めしそうな口調だがその表情かおは晴れやかだ。


 十一月も下旬に差し掛かり、夜はめっきりと冷える。


 夏に二人で海に行ったのがもう三ヶ月も前の話だなんてまるで信じられないが。

 そんなことを言ってるに冬が来て春が来て、また夏が来て秋が来る。


 いつまでこうやって二人で過ごせるのかは分からないが、どうしたって季節は巡るんだろう。


 もう涼やかとはとても言えない風が閑散としたオフィス街を吹き抜ける中、気持ち良さそうに少し前を歩いていた久遠ひさとおは数歩先で脚を止めると、職場では珍しいロングのタックスカートを揺らしながら俺に向けくるりと反転する。


 悪戯っぽい表情かおで、


「しちゃいましたね」


 口許くちもとに手を添え、誰にも聞かれない音量でこそっと。


 何を言い出すのかと思ったら。

 今ここでそれを言うのかよ?


 驚いた俺に満足したのか、にやり一笑「さあて、明日も頑張ろっと」とまた上機嫌に歩き始めた後輩の背中を眺めながら。


 そう、別にいつだって良かったんだ。 


 ただ自分の中で引っ掛かってたもんが吹っ切れればそれで良かった。


 たまたま今日こういうことがあって。たまたま今日そんな気分で。

 たまたま今ここに俺たち以外の誰もいなかっただけのこと。


 それだけだ。


「なぁ、久遠ひさとお


 呼び止めるとピタリ足を止め。さっきとは一転、今度は意外そうな表情かおを見せた後輩に俺は声を掛ける。

 

「ありがとな」


「……ありがとうって。急にどうしたんですか?」


「今回の案件もそうだけど。お前、自分が早く自立することで俺を東京支店に追い出そうとしてくれてるんだろう?」


「……えっ」


「まさか分かってないとでも思ってたのかよ」


「いえ。それは、その……」


 図星だったんだろう、珍しく視線を彷徨さまよわせる。


 ったく。

 俺には離れられなくなりますよとか言っておいて自分はそういうことしやがるんだから。

 本当いつだってこいつは食えない。


「言っとくけど仕事では俺の方が先輩なんだ。それにお前のことは誰よりも見てる。分からないはずがないだろう?」


 だから俺は、だからこそ俺はそんなお前の気持ちに応えなきゃならない。

 応えたいと思えたんだ。


 十一月某日。


 静まり返ったオフィス街の片隅で。


 あの夏の夜と同じように煌煌こうこうと光る月が俺たちを見下ろす中、俺は彼女に告げる。


 こんな会社を出てすぐの場所で、


 こんな会社を出てすぐの場所だからこそ。



「……久遠ひさとお。好きだ」



 月は俺を見てる。


 だけどただ見てるだけで、


 月には俺を止められない。







(第5章了)

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