第37話 ほんの一瞬の出来事


 間もなく定時に差し掛かろうという頃合い。


 営業先から社へ戻った俺は自席に鞄を置くと久遠対面のデスクに視線を移す。


 本人は不在。

 単に離席中か、それとも。


 戻ったら資料のチェックをして欲しいと頼まれてたんだけどな。まあ使うのは今週末だ。別に明日でも十分間に合うが。


「おつかれ。今戻りか?」


 声を掛けてきたのは富永とみながさん。同じ課の先輩で、一課の今橋いまばしさんとは同期の桜だ。


「お疲れ様です。久遠ひさとおのやつ、どこかに行ってます?」


「ああ。彼女なら地下の倉庫だと思うよ。なんでも週末の商談に持って行きたいものがあるからって」


「そうなんですか」


「俺もどの辺にあるか聞かれたんだけどよく分かんなくてさ。向かったのは結構前だから、もしかすると迷ってるのかも」


 俺が準備するって言ってあったんだけどな。


 戻りが遅いからと気でも遣ってくれたんだろうが、あの箱あれは場所が分かりにくい上、脚立が無いと取れないはずだ。


 一瞬の思案を挟み、すぐに決断する。

 仕方ない、見に行くか。




 地下に降り廊下を歩くもここがなかなかに殺風景だ。


 只でさえ外部そとから光が入らないんだ。電灯くらい明るめのやつにしろよと言いたくなるほどの薄気味悪さ。

 加えて定時をまたぎまるで人気ひとけのない寂しげな廊下は廃病院の如く、自分の歩く音だけがカツカツと反響している。


 到着しドアノブに手を掛けると、鍵は開いているものの部屋の灯りが消えたままだった。


 手探り。今時珍しいシーソー型のロッカスイッチをカチカチとやるも点かない——。

 なるほど、どうやら電球が切れてしまっているらしい。


 その代わりと言っちゃなんだが、棚を挟んだ奥の方から微かな光が漏れていた。


久遠ひさとお。いるのか?」


 入口から呼びかけると「先輩?」と聞き慣れた声が返ってくる。


「電球が切れちゃってるみたいで。こっちです」


 脚立の上からスマホかライトでも振ってるんだろう、天井や壁を光源がチカチカと這いまわる。


 その光を頼りに、俺もスマホのライトを起動し前を照らしながら目的の棚まで辿り着くと、予想通り脚立に登った久遠ひさとおが段ボールを物色しているところだった。


「お疲れ様です。商談は上手くいったんですか?」


「まあな。それより何もこんな暗い場所で探さなくたっていいだろ。怪我でもしたらどうすんだよ」


「すみません。ねえ先輩、この箱が怪しいと思うんですけど」


 すみませんと言っちゃいるが、お前謝る気ないだろ?


 溜息混じり、後輩が指さす箱にぐっと目を凝らす。 


「いや、それじゃないな。その隣りの列だと思う」


「これですか?」


「そうそう。その奥の箱だ」


「ううん、これはちょっと厳しいかも」


 脚立の上で背筋をピンと張り、ぐっと手を伸ばそうとする久遠ひさとお

 もう少しで届きそうではあるものの、微妙に箱が脚立の中心から外れているため体勢が苦しそうだ。


「おい、無理すんなって」


 そう言ったのも束の間。


 ぐらっとバランスを崩した久遠ひさとおが「きゃっ」と声を挙げ、持っていた携帯が手からするりとこぼれ落ちる。


 咄嗟に反応した俺も自分の携帯それを放り出していた。


 そんな光を失いつつある中で、俺は一瞬前に見た残像を頼りに久遠ひさとおを抱き止めようと必死で身体を投げ出す。


 直後、重力を伴った重みを腕に感じ、どうやら上手く彼女を収められたのだと安堵したものの、


 そこから久遠ひさとおを抱きかかえたまま背中に痛覚を感じるまでのかん


 ふいに唇に触れたその柔らかな感触に俺はただただ意識を奪われていた。


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