第18話:はぐれちゃうから

 入るなりすぐに鼻先をくすぐったのは、ふわりと漂う甘いルームフレグランスの香りだった。  

 続いて、小ぶりな靴棚の上に飾られた小さな花瓶が目に入る。


 丁寧に手入れされた色とりどりの花は、生き生きとして見えた。


 そういえばこいつ、七夕のときも嬉しそうな顔で笹の葉を眺めてたよな。


「好きなんだな」


「へっ?! 好きって......。何が、ですか??」


 は? なんでそんなに焦る?


「何がって、花がだよ。花


 訳がわからん。  

 そう思いながら、花瓶を指さしてやると、久遠ひさとおは「あ、あぁっ」と目をしばたたかせた。


「で、ですよねー!! ええっ、分かってましたともっ」


 やたら慌てたと思ったら、今度は自分に言い聞かせるように一つ咳払い。


「ま、まあ、私もこう見えて一応女性ですし、大抵の女性は花が好きだと思うんですけど。先輩だって誰かにプレゼントしたことくらいあるでしょう?」


 花をプレゼントしたこと......?  うーん、と記憶をたぐってみる。


「あー、あるある。母の日にな。かなり前のことだけど、そのときは結構喜んでたと思う」


 そう言うと、久遠ひさとおが「ぷっ」と吹き出した。


「なんで笑うんだよ」


「だってえ......でも、そうですよね。お母さんだって立派な女性、ですもんね」


 また妙なスイッチが入ったらしく、笑いが止まらないらしい。  

 ほんと、こいつってけっこう笑い上戸だよな。


 でも、なるほど。あれは"身内以外の女性に"って意味だったか。  

 そろそろ女性経験がないのがバレそうだな......まあ、隠してるつもりもないんだけど。


 必死で笑いを堪えようとしている久遠ひさとおを横目に、俺は気を紛らわすように部屋を見渡した。


 10畳にも満たないワンルーム。  

 けれど圧迫感がないのは、折りたたみベッドや、テレビのような大物がないせいだろう。  

 逆に生活感を感じるのはソファと、それに合う高さのサイドテーブルくらいか。


「どうですか? 初めて女性の部屋に入ったご感想は」


 目尻の涙を指で拭いつつ、隣から久遠ひさとおが覗き込んでくる。


「そうだなぁ......なんというか、生活感がないのに驚いてるとこ」


「当たり前じゃないですか。私には毎晩のように付き合ってくれる優しい先輩さんがいるんですから」


「そっか。良かったな、優しい先輩がいて」


「ええ。おかげ様で、退屈しない毎日です」


 そんなくだらない会話を交わしながら、俺は勧められるままソファに腰を下ろす。  

 一方の久遠ひさとおは、冷蔵庫に手を伸ばして飲み物を取り出していた。


「すぐにお茶淹れますね。それとももうビールにしちゃいます?」


「お前はどんだけ飲みたいんだよ。今から出店でみせに行くんだろ」


 正直、俺も飲みたいには飲みたいが......そのままグダグダとこの家で過ごしてしまいそうで、ちょっと怖い。


「たしかに。楽しみは後に取っておくことにしましょうか」


 グラスに注いだお茶をサイドテーブルに置くと、久遠ひさとおは「よっと」と俺の隣に腰を下ろす。


「いいソファでしょ? 狭いからこうやって、仕方なく密着し放題ですし」


「自分からぶつかってきて“仕方なく”も何もないだろ。暑いから離れろ」


 女性経験皆無の身にこれは酷だ。  

 嬉しそうに距離を詰めてくる久遠ひさとおをちょっとだけ押し返しつつ、窓の方を指差す。


「それはそうと。あそこから花火が見えるんだよな?」


 久遠ひさとおはこくりと頷いた。


「ええ、不動産屋さん曰くは。実はそれがこの部屋に決めた一番の理由だったりします」


 自慢げに鼻を鳴らすその姿に、思わず口元が緩む。


 一年に一度しか出番がないってのが痛いところか。

 とはいえ、そんな日に誘ってもらえたんだ。

 光栄というかなんというか。


 少し涼んでから、俺たちは再び外へ出た。  

 脇道を抜けて屋台の通りへ向かう。


 駅周辺よりはマシとはいえ、俺にとっては十分すぎる人混みだった。  例えるなら、帰宅ラッシュ時の梅田駅──そんな感じだ。


「本気で行くんだよな?」


「ここまで来て何言ってるんですか。今週は仕事で天神祭りも逃しちゃいましたし、お祭り気分を味わえる数少ないチャンスなんですから行くに決まってます」


「ほんと、お前のそのバイタリティには頭が下がるわ......でも、そうだよな。よし、行くか!」


 自分に気合いを入れ、俺は一歩踏み出した。


 と、同時に。


 手のひらに、やわらかな感触。


 視線を落とすと、久遠ひさとおがそっと俺の手を取っていた。


「こうしないと、はぐれちゃいますから」


 彼女は顔を上げない。 


 けれど、その耳は珍しく真っ赤に染まっていた。



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