2-5 氷の一族の流文流説

 領内で過ごすうえでアルヴァルディの婚約者だと分かりやすくするため、という用途と「重さ」のバランスの取り方を相談して、ブラックラブラドライトの指輪を注文することになった。ブラックラブラドライトは、宇宙の混沌や謎めいた深海のような色彩の鉱石だ。光を当てると、青黒い表面に紫や水色、緑の帯が現れる。蝶の羽のように、見る角度によって色味を変えるラブラドライトの中でも、濁りがなくベースの色が黒に近いものがブラックラブラドライトと呼ばれる。神秘的で入り組んだ輝きは彼を知る人ならばその濃紺の髪を連想するだろうし、そうでなければ、この国では青みがかった色の目を持つ人が多いので、気に留めないだろう。希少性のわりには高値のつきにくい石である点も「重くない」を意識した選択だ。

 貴族は宝石の意味も考える。もし、私が彼の婚約者であるあいだに、他の貴族と関わる機会があれば、相手は指輪から贈った人物の品性を読み取ろうとするはずだ。ラブラドライトは自由と多様性を象徴する。私の知るかぎりでは、アルブレヒト・フォン・アルヴァルディはラブラドライトの似合う人だ、と示せたらいいと思った。

 緩やかなS字を描くプラチナのアームにはミカグラの民の流水文様が入る。うねりのある細いアームに文様が刻めるのだろうか、と聞けば「難しければ難しいほど、お父さんは喜びますから」と返ってきた。心配は無用のようだ。

 工房から城に戻ると、北門に馬車が止まっていた。私たちが乗っているのと同じく、マルーンの塗装にガラス窓が張られた馬車だ。王都まで迎えを出していただいたときの馬車の豪奢な造りとは趣の異なるシックな外装をしている。

 中から人が降りてくるのが見える。胸あたりまでの長さの黒髪、繊麗な身体つき、横顔から一瞬、シキナ様が思い浮かんだ。地面に足を着けると、彼女はこちらへ振り向いた。厚い雲に覆われた北国の薄暮は辺りの色彩をくすませる。色褪せた景色の中にあっても、その視線はどこまでも鋭敏に澄み渡っていた。ペリドット。アルくんやユリウス様と同じ瞳だ。

「急だな」と隣で呟くのが聞こえて、「ご令妹様ですか」と尋ねた。私が確信めいた声で言ったせいか、彼は「よく分かったね」とやや不思議そうに上擦った声で答えた。私は、彼にそれぞれ二つずつ歳の離れた兄と妹がいることだけを知っていた。それだけの情報があれば、彼女がアルヴァルディの血を引いた少女であることを理解するのは、誰にだって難しくないように思えた。

「ノルベルトと纏めて来てもらえればいいって書かなかったっけ」

「妹が実家に帰省して何か不都合があおりですか?」

「いや、無いけど」

 アルくんの後ろに続いて馬車を降りると、彼女はこちらに視線を向けた。近くで見ると、零れ落ちそうなほど大きな瞳には一層の引力があった。

「お初にお目にかかります――私はアルブレヒトの妹の、ディアナと申します。どうぞお見知り置きくださいませ」

 彼女は打掛のようなガウンの両裾をスリットから引き出し、フリルのようにして軽やかに羽織っていた。ルトゥルーセ・ダン・レ・ポッシュという、十八世紀末のフランス宮廷にも存在していた着こなし方だ。田園趣味が流行した時代に、長いローブを着ていた女性が歩きやすくするために生まれた。見れば、ドレスも足首が見える長さ、靴は皮のレースアップブーツ、と貴族女性の基準では身軽な部類の服装になっている。

 菊と蝶の文様が描かれた淡藤色のガウンの襞をつまんでお辞儀をする姿は、羽衣を纏った天女を思わせた。アリスブルーのドレスは折り目正しいプリーツが砂時計状に広がり、水面のように光る。上品な厚みのあるシャンタン生地の下にチュールが重ねられており、裾からはみ出してふわりと揺れた。首回りを覆うレースは聡明そうな顔立ちを清楚かつ可憐に際立たせている。

「はじめまして、レディ・ディアナ。私はフォイエルバッハ伯爵家から参りました、ロゼッタ・フォン・フォイエルバッハと申します。お会いできて光栄です」

 学院では彼女ほどに高貴さを漂わせる女の子を見たことがなかった。制服とドレスの違いによるものだけではないだろう。貴族としての身分以上に貴い相手を目の前にしたような感覚になって、指先に余計な力が入った。

「顔合わせの予定はもう少し先でしたけれど、この家に用事があって、早く来たのです。驚かせてしまって申し訳ありません」

「いいえ、そんな、お気になさらないでください」

 アルくんは「暫くこっちにいるの」と尋ねた。素っ気ない言葉に柔らかさが滲んでいるような声だ。「ええ、庭の植物が冬を越す手伝いをしなければ」と彼女は口にして、私の隣に位置を移す。

「お兄様は一番大事なこと以外は気の利かない人ですから、碌に城の案内もしていないでしょう。お姉様をお連れしたいところがあるのです。よろしいですか?」

 横から顔を覗き込まれて、思わず動揺してしまう。長い睫毛を額縁にした目、そのさらに中心にある樹海のように深い瞳孔に捉えられる。龍、あるいは蛇。王都の広場でアルくんと出会ったとき、その目が爬虫類のような脅威に見えたのと同じだ。気づけば丸呑みにされてしまいそうな、異様な覇気を秘めた瞳。

「はい、もちろん、ご一緒させてください」

 なんとか声は絞り出せた。本当に不思議だ、彼女は嫋やかに微笑んでいるのに、見つめられると氷漬けにされたように固まってしまった。

「では、お兄様は先に帰ってください」

「本人がいいならいいけど、冷える前に中入りなよ」

 私は「こっちです」と彼女に手を取られて門をくぐった。兄妹のやり取りは想像以上に気安い雰囲気だ。「先に帰ってください」と突き放すような態度は親しいからこそ見せるものだろうし、「冷える前に中入りなよ」なんて、いかにも妹を心配するお兄さんという感じだ。私は前世の記憶を思い出してから家族と上手く話ができなくなった。だから、親兄弟との親しい関係には憧れがある。それと少しの罪悪感も。前世の私の記憶は、フォイエルバッハ家から娘や姉を奪ってしまった。

「私がどうして領地にいるのか、気になりませんか?」

 昨晩の雪で土はうっすら湿っていた。歩き始めてそう間を置かずに、彼女は核心的な言葉を発した。

 彼女の年齢はアルくんの二つ下と聞いている。十五歳か十六歳、いずれにしても、学院に通っているはずの年齢だ。通常、地方で生活する貴族の令息や令嬢は、学院の入学と同時に学生寮に入寮し、親元を離れてそこで三年間を過ごすことになる。

 アルヴァルディの令嬢が学院を離れたことは、貴族社会の世情に疎い私の耳にも入ってくるほどの話題になった。その子は他の生徒に向けて魔法を放ったらしい、と恐ろしげに噂された。

 私は努めて平静に、興味本位ではないことが伝わるように意識して「お聞きしてもよろしいのですか?」と問いかけた。すると、彼女は目を細めて、小さな唇で静かに言い切った。

「取るに足らないことですもの。心を閉ざしたか弱い令嬢が、北の果ての小さな屋敷に隠棲している、と思わせておくと都合が良いので、この城を離れて過ごしているのです」

 王都で暮らす中央貴族と領地を持つ地方貴族では考え方が異なる、と感じる面は少なくない。恋愛に関してもそうだ。地方貴族は義理を通すことを絶対視し、婚約者や伴侶とは恋愛感情がなくとも公私にわたってパートナーとして協力することが当然と考える傾向にある。対して、中央では学院を出て成人した貴族は浮名の一つや二つを流してこそ一人前、というような風潮がある。現代日本人的な印象としては、中央貴族が日本の平安時代に恋の歌を詠んでいたり、フランスのロココ時代に宮廷で恋愛劇を繰り広げていたりする貴族のイメージに当てはまる。

 そんな中央と地方の貴族が交じり合う学院では、価値観の相違からトラブルも発生する。中央貴族は自分や相手に婚約者がいたとしても、お構いなしに恋愛劇に誘おうとする。お互いに中央の出身ならそう問題にはならない。しかし、片方が身持ちの固く、同世代の貴族の少ない領地で生まれ育ったために異性との接触に慣れていない地方貴族だと、問題になることが多い。振った振られたの話で済めばいいけれど、アプローチを冷たくあしらわれて侮辱されたと感じたり、強引に迫られて異性との関わりがトラウマになったり、と恨み辛みに発展する例もある。

 アルヴァルディの令嬢がしつこく付き纏ってきた男子生徒に、風の魔法を放って服を切り裂いてしまった、という噂は本当のようだった。彼女は「――なので、切ってしまいました。誓って、皮膚にはかすり傷一つ残しておりません」と口にした。悪戯を成功させた子供のように、笑って。

「……お優しいのですね」

 噂話には語られていない背景があった。彼女は友人の中に、付き纏ってきた男子生徒の仲間に好意を持たれ、日常生活に支障をきたすようになってしまった女子生徒が居ると言った。それを聞いて、彼女は自分のためではなく、友人のために魔法を使ったのだと思った。こんなに大人びた振る舞いをする女の子が、感情に振り回されて自暴的な行動を取るはずがない。

「私は自由でありたいだけなのですよ、お姉様」

 超然とした笑みには落ち着きはらった心持が映し出されているようだった。やっぱり、彼女は友人が受けた辱めを知らしめるために手を下したのだろう。異性の手や髪に触れたり、腕を掴んだり、二人きりになるために周囲と画策したり、公衆の面前で愛を語ったり、それらは中央の男子にとっては何でもない行為で、ただの大人の真似事かもしれない。でも、相手によってはとてつもない羞恥を覚えている。知らなければこれからも繰り返されるから、彼女は自分に言い寄ってきた相手を無視するのではなく、度が過ぎた行動に報復したのだと思う。

 愛ゆえに大蛇に転じて火を吐いた清姫や、我が子のために人の子を捕らえて回った鬼子母神、不貞を働いた者を射殺すアルテミス、美しくも恐ろしい女性の伝説は各地に存在する。この世界では、抗いがたい魅力で複数の異性を従えて魔獣と戦ったカレン女王や女神ロザリーがその系統かもしれない。あるいは、全ての生き物に対して向ける母性から、地上を征服しようとする魔獣の女王も。誰かのために強大な力を発揮する女性は、ある面では怪物として語られたとしても、情の深い性質であることも確かだ。

「あの、ご存知かと思いますが、私はアルブレヒト様の仮の婚約者なのです。ですからそのように呼んでいただくことは、私には恐れ多いです」

 先ほどから彼女は私を「お姉様」と呼んでいた。しかし、冬が終わるまでの数か月、ここに置いてもらう約束をしているだけの私には相応しくない呼び方だ。

「でも、あなたはお兄様のこと、お嫌いではないでしょう?」

 それは、そうなんだけど。ここで素直に頷いてしまうと、想定以上の重い意味が生じる気配がして、「ええ、まあ……」と曖昧にしか答えられなかった。嫌いではない、がそのまま逆軸にある別の言葉に置き換わってしまいそうな気がして。

 少女らしい鈴を転がしたような声は、私の胸の内を全て見通していそうだった。私が彼と出会ってから、どんな話をして、その度に何を思ったのか、全部知られているかのようだった。

「でしたら、いずれそうなりますよ。私のこともどうぞ気兼ねなくお呼びください」

 予言めいた言葉に「彼女は駒姫にも似ているな」と思った。駒姫は薔薇の巫女の対になる星宿の巫女で、カレン女王の帰還と共にユミルへやってきた瀧国の姫君だ。乙女ゲーム的には攻略情報を教えてくれるサポートキャラ。星宿の巫女は千里眼と未来予知の能力を持ち、薔薇の巫女が女神に選ばれると、どこにいようと見つけ出し、来たる災厄に備えて迎えに行く。駒姫はカレン女王が日本で生活していた頃も、彼女の安全を見守っていた。薄紅の髪に蜜色の瞳の華麗で溌剌とした印象のカレン女王とは対照的に、青みがかった黒髪に月長石の瞳の駒姫は優雅で影のある美女だ。ミステリアスな口調と常にカレン女王を慈しむお姉さん的な性格から、一部のプレイヤーの心を強く掴んでいた。彼女のファンアートをきっかけにロゼリジュをプレイした、という普段乙女ゲームに触れない層のゲーマーも結構見かけた。

 私にとっても駒姫は好きなキャラクターだ。ロゼリジュのキャラは全員に好きなところがあるので当然ではあるけれど。弓を番えれば凛々しく、くないを構えればしたたかに、魔法で癒す手は優しい、多面性が魅力的なキャラクターだと思う。カレン女王に人の上に立つ者としての心構えを説く役回りであることも、ロゼリジュのテーマである高貴さを体現していて好きだ。

 現代日本のメディアは白薔薇城の敷地面積を「テーマパーク何個分」と表現するだろう。そんな広さのため私もまだ把握していない場所が多かった。「お兄様は一番大事なこと以外は気の利かない人ですから、碌に城の案内もしていないでしょう」と推測されていたのはあながち間違いではなく、日常的に通いそうなところしか案内されていなかった。もちろん、私としては「一番大事なこと」を果たしていただいたので、そのくらいは些事だと思っている。彼は私の話を聞いてくれて、身の保障を約束する誓約書を渡してくれた。あの紙以上に私がこの婚約に望むことはない。

 用もないのに誰かを引き留めて城の案内をしてもらうのも忍びなくて、今のところ、私は居館と厩舎と主塔を行き来する生活を送っている。だから、彼女に先導された道は知らない風景の連続だった。

「ここは私がこの城で一番好きな場所です。五百年前からずっと、シスターたちが薔薇を守っています。初夏には常若の国に迷い込んだような、夢のように甘い香りがしますよ」

 表口に噴水や花壇、石像の設置された石畳の小さな広場がある礼拝堂の隣に、鳥籠のような温室が建っていた。白く細長い鉄骨の隙間にガラスが張られ、天井はドーム型になっている。出入口には蔓薔薇のアーチが二重に架かっているのが見える。沢山の薔薇の苗が、狭い円形の土地を最大限に使えるだけの計算された距離を保って根差していた。

「知りませんでした。この城は長い間誰も住んでいないと思っていましたけど、礼拝堂にはずっと庭を管理する人がいたんですね」

 ユミルでは、城と名の付く建物の敷地には必ず礼拝堂がある。この城に薔薇の巫女と代行者たちが滞在していた頃、彼女らは戦いの前に礼拝堂で祈りを捧げていたかもしれない。当然、建物には管理者が必要なわけで、女王の命で建設された城塞の中の礼拝堂であればなおさら、無人のはずがない。でも、今まで私は城主が不在というだけで、五百年間誰もいない城だと思い込んでいた。

「秋薔薇がまだ残っていますね」そう言って彼女は温室のドアレバーを引いた。中は今の時季の王都の晴れの日と同じくらいの温度だ。リールの外気に晒されていた身体には暖かく感じる。

「お姉様、薔薇の巫女は龍神の力によって時を渡ったという伝説をご存知でしょう?」

 二重咲きの白や、八重咲きのピンク、ロゼット咲きの深紅など、小ぶりのオールドローズがまばらに咲いていた。彼女は波打つような花弁の、中心に向かって淡く紫に色付く薔薇に近づいていった。

 私は問いかけに「はい」と頷いた。ロゼリジュの主人公、カレン女王は時渡りの能力を駆使して世界を救う。乙女ゲームのプレイ時には恒例の、セーブ&ロードを活用したエンディング回収と物語の進行をリンクさせた設定だ。プレイ一周目では必ず死んでしまう味方を過去に戻って助けたり、終盤のイベントで明らかになる情報を使って序盤の戦闘を有利に運んだり、プレイヤーは望むエンディングに辿り着くために何度も過去に戻って奔走する。

「龍神は、瀧国においては水そのもの。川であり、海でもある。それゆえに水の魔法は『流し』『留める』力があるのだと思います。失ったものを取り戻すために、時を逆流させる力。大事なものが零れ落ちないように、今に留める力。人の身では傷口を塞ぐことが精一杯でも、神ならば時の雫すら操ることができるのでしょう」

 薄紫の薔薇は細い枝が重力に負けてしまったのか、大きくたわんで地に着いてしまっていた。彼女は薔薇の前に屈んで、倒れたその枝の先に咲く花を拾い上げた。そして片手を萼から十センチほど下にかざし、緑色の閃光の瞬く風の刃で切り離した。

 薔薇は、いくらか花弁が離れ、土に汚れ、首も曲がり、もう長くは持ちそうになかった。しかし、手のひらの中で青白い光に包まれると、時を遡ったかのように生気を取り戻した。水の魔法による治癒だ。

「ならば氷の神ドルンの権能はどんなものだろう、と考えました。私は、永遠を実現する力ではないかと思うのです。大切なものが壊れないように、今に繋ぎとめる力です」

 瑞々しい張りと色艶に再生した薔薇の枝は、切り口から花芯に向かって瞬時に霜に覆われた。無数に生えた白い棘も、すぐにぽろぽろと崩れ、土に還っていった。瞬時に凍結、乾燥された花は淡い色合いとフリルのような形をそのままに氷結された。正確無比な魔力操作。なんて繊細な魔法だろう。

「ドルンの氷は永久凍土。岩の氷、水晶。神の御許には永遠も存在しましょう。しかし人の世に永遠は今にしかない。永遠はそれを祈る人の心にあり、祈るからこそ、未来にまで力が及ぶのだと思います」

 魔法は神への祈りだ。この世界の人間なら誰でも魔法が使えるけれど、生まれつきの才能でどれだけのことが叶えられるかは決められている。

 アルくんの髪飾りや、ユリウス様のマントの留め具を思い出した。あの文様は重なりあった一つの正円と三つの紡錘形で構成されている。三つの重なりは人、自然、動物の命の循環を表し、正円と切れ目のない組紐文様は、それが「永遠」に続くことを意味していると教わった。ミカグラの民はその文様を刻むことで、自分たちが自然環境や他の人々との縁によって生かされていると自覚し、それら周囲のものを大切にする意思を示すのだという。氷の魔法が永遠への祈りだとしたら、あの文様はアルヴァルディの一族に最適だ。彼らは千年前からずっと、氷の神に最も近しい人間だから。

「今までずっと、礼拝堂の人々が、薔薇が咲き続けるよう祈ってきたから、ここに薔薇が残っているように。……そういうことですか?」

 彼女が私に、なぜ、何を伝えようとしているのか、正直なところ分かってはいない。でも、考えた。この城にどんな場所があって、人が居て、想いがあるのか。王都には噂しか流れてこない辺境伯家について、本当はどんな一族なのか。教えてくれているのだろう、と思った。

 きっとこの温室に咲く薔薇は、五百年前に女王と共にこの城へ渡った苗と同一ではない。いくら魔法で温度管理を徹底しても、寿命には逆らえない。この国の教会には薔薇が植えられていることが多いので、学院時代から毎日のように聖堂や教会に通っていた私は薔薇を見慣れていた。学院のシスターが言うには、薔薇はおおよそ十年を過ぎると花を咲かせなくなっていくそうだ。

 人間は真に永遠の花を実現させることはできない。だけど、永遠を祈ることは無駄ではないはずだ。ずっと綺麗に咲いていることを祈ったから、五百年先の未来にもこの温室が美しいままなのだ。

 彼女は「差し上げます」と言って薔薇の花をこちらに向けた。夕焼けを覆っていた灰色の雲が動いて、天井から僅かに斜陽が射していた。肌理の細かい頬が茜色に染まり、瞳に光が入る。私が彼女の考えに近づけていたのかどうかも、分からない。しかし彼女は苛烈に煌いていた目に静謐を宿して微笑んでいた。

「お姉様は裁縫がお上手だとお聞きしました。私にドレスを作ってくださいませんか? 夏に庭を歩くのにちょうどいいような、風を纏うようなドレスです。それと交換にしましょう」

 彼女には、ディアナ様にはマリー・アントワネットが着ていたような白いシュミーズドレスがよく似合うだろう。コルセットやクリノリンのような煩わしい補正具は使わずに、綿モスリンで仕立てたドレス。豪華絢爛なロココ時代の象徴のように思われているマリー・アントワネットだけど、家族や親しい友人の前では簡素な服飾を好んで身に纏っていた。私は当時の衣装だと、ディティールにこだわったローブ・ア・ラ・フランセーズより軽やかなシュミーズドレスの方が好きだ。

 居館に戻るまでのあいだにも、色々な話をした。彼女には「交渉事が得意」な歳の近い婚約者がいるそうだ。学院での出来事の後、騒ぎを上手く取りまとめて、課題の提出を以って出席の代替にしてもらえるよう手配してくれたという。だけどユリウス様は「あんなとこ辞めていい」と言い放って学院に乗り込もうとしたので大変だったとか。この家の人々は、自分のことよりも家族のことを多く語り、そのときの表情も生き生きしている。

「ロゼッタ・フォン・フォイエルバッハ」には学院に通う妹がいる。妹は明るくおしゃべりな性格で、ロゼッタが針仕事をする傍らでよく話を聞かせてくれた。私とは違い、中央貴族らしく自宅から通学している彼女は、家での話し相手が減って退屈していないだろうか。家族ではなくなってしまった私には、以前のロゼッタと同じように話ができる自信がないけれど、近いうちに手紙を出してみようと思った。

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