1-2 龍は風花を連れて舞い降りた

 十月の初め、なんてことはない秋の日に私ことロゼッタ・フォン・フォイエルバッハと辺境伯の婚約が決定した。婚約を決めた国王陛下の通達は両家にとって思いがけないものだった。当事者間に面識はなく、歳だって三つ離れている。しかも女である私の方が年上の二十歳だ。貴族社会でこの歳まで婚約者のいない女性は通常、行き遅れと見做される。家の格も釣り合っておらず、イレギュラーな婚約であることは誰の目にも明らかだった。

 このユミル神聖王国では、貴族の婚姻を君主が取り仕切る法律がある。だから国王陛下の裁量で見ず知らずの未婚の貴族同士が婚約することも制度上は問題がない。とはいえ、基本的に婚約相手は当人や家同士の交渉で決定される。君主によって取り仕切られるというのは、君主がその関係を承認した、と公に示すための手続きであるのが通常だ。両家の当主が君主に婚約の承認を願い出て、君主はそれを公認し、貴族たちへ通達する。このような手順によって、形式上は君主が婚約者を指定して貴族はそれを受け入れる仕組みになっている。

 普通なら、何の交渉もなく貴族間の婚約が発表されるなど起こり得ないことだ。ましてや明らかに不釣り合いな家柄同士なのだから、上手く落としどころを見つけて、婚約を白紙に戻すために両家で調節を行うべきだ。と、私は思っていた。……悪い予感ほどよく当たるものだ。

 フォイエルバッハ伯爵家は領地を持たずに王都で暮らしている。当主であるフォイエルバッハ伯は内務局に勤める宮廷貴族で、人柄は実直であるものの「フォイエルバッハ家は王妹殿下も輿入れされた由緒正しい家系である」と事あるごとに主張するのが玉に瑕だ。そして、この家がいつか再び王家に顧みられると信じている。

 これは国王陛下の思し召し、是非にお受けしよう、とあろうことかフォイエルバッハ伯は本気にしてしまったのだ。私が「考え直しませんか」と促しても「陛下の御意向なのだから、相手が辺境伯といえども萎縮する必要はない」と言うばかりで、結局説得には失敗してしまった。当主間で何度か書簡のやり取りをした後、アルヴァルディ辺境伯家の居城に私が伺うことになった。おそらくフォイエルバッハ伯が強く迫ったのだろう。娘を押し付けられた形になる辺境伯の心証はどうなっていることか、あまり想像したくない。

 そして、出立が今日、十月の末。通達から一か月も経たずに先方へ赴かなければいけなくなった。移動や荷物の運送に使う馬車は辺境伯家が手配してくださった。屋敷の前に現れた四頭立ての馬車を見て、相手はやはり同じ貴族といっても住む世界の違う人だと実感させられた。キャリッジを見れば家柄が分かる、というフレーズが社交界では常識らしい。箱馬車は白銀に光る天蓋の装飾やステンドグラスの窓、紋章の取り入れ方も自然で上品な風格の漂うデザインだった。確かに、持ち主がどういう身分の方なのか、理解するには十分だ。

 質の良いサスペンションの取り付けられた、とても快適な馬車で屋敷から運ばれる。出発してすぐに、場違いを思い知らされた私は緊張し始めていた。私の立ち振る舞い次第では、フォイエルバッハ家は消滅しかねない。婚約を受け入れる代償に辺境伯家の養分にされてもおかしくないのだ。相手方にとっては、小さな伯爵家と婚姻を結ぶのも、国王陛下の決定に背くのも、どちらを選んでもメリットがないはず。であれば、多少の財産や中央とのパイプを得るために、結婚という名の吸収合併を選ぶ可能性は当然ある。妻の存在が不都合であれば、得るものを得た後で離縁するか、遠くへ追いやってしまえばいい。この国は教義に基づき徹底した一夫一妻制だけど、離婚に関する制約はない。当人同士、家同士の話し合いがすべてだ。

 アルヴァルディ候がこの婚約に対してどう考えているのか、私はまだ何も知らない。けれど、彼の人となりは――少なくとも王都に住まう中央貴族には――あまり良く思われていないようだ。若く商才に優れた一方で、冷徹に自らの利権を追求する野心家だとか、平和な時世にも拘わらず軍備拡張を続けているのは、虎視眈々とクーデターを狙っているからだとか、黒い噂が囁かれている。噂話は本人がその場に居ないからこそ盛り上がるものだし、強大な経済力を誇る地方貴族へのやっかみも悪く言われる原因ではあるだろう。私の狭い情報網から本当の人柄を伝え聞くことは難しいとも分かっている。でも、やっぱり、そういう話を聞いてしまうと不安が増大してしまう。ただでさえ私は社交から逃げてきた落第令嬢なのに。

 特別優れたところのない伯爵家の娘が相手にされるはずはない。だから円満な婚姻の成立なんて望んでいない。フォイエルバッハ伯は落胆するかもしれないけれど、私はこれまで通りの生活が送れるだけでいい。そう願ってはいても「これまで通りの生活をさせてください」と希望を通すのことが、あまり簡単ではなさそうだ。

 馬車は王都ヴォルムスの関所の一つ、北門広場で停止した。何か通行に必要な手続きがあるのだろう、と考えていたら、コーチの扉を開けた青年から思いがけない言葉を告げられた。

「雪が降っているんだ」

 開口一番に飛び出してきた台詞が、それだった。彼は屋敷を出たときに顔を合わせた御者の人々には当てはまらず、服装からしても普通の雇い人には見えなかった。

「道が渋滞するかもしれないから、この先は空路で移動させてほしい。荷物は明日の朝には届くだろうけど、すぐに必要なものがあれば一緒に持って行く」

 淡々とした口ぶりで告げられたので、もはやそれが決定事項のように感じて私には「はい」と答える以外の選択肢がなくなった。「じゃあ、こっち」と右手に消えた青年の背を追って、馬車を降りる。ステップがついていたので一人でも降車できた。

 外は風花が舞っていた。王都に雪が降ることは稀で、広場を行き交う人々も何人かは足を止めて物珍しく空を見上げていた。この雪を連れてきた北風を辿った先にある土地はどれほど寒いのだろう。道が渋滞するほど雪が降るのは日常茶飯事なのだろうか。

 彼の後をついていくと、雪以上に衆目を集めるものがあった。龍が、広場の中心にある噴水に首を突っ込んでいた。いつもは多くの人が腰かけている噴水の縁には、今は誰もいない。龍は人々から遠巻きにされながら水を飲んでいた。青年に後ろ足を触れられると、噴水から頭を上げる。

「荷物はいいの?」

「はい、大丈夫です」

 空路、というからには否応なしにあの龍に乗ることになるのだろう。恐る恐る近づいていくと、後ろ足で直立した体長は私の身長の倍近くあるのが分かった。目を合わせると自分の身体が固まってしまう気がして、向こう側にある建物の辺りへ視線を逸らしながら問いかけに応じた。もちろん龍の存在は知っていた。でも、王都で暮らしているかぎり全く縁のない存在で、さらには心構えできずに対面したものだから、私は本能的な恐怖を抑えきれなかった。頭の大きさが成人男性の腕の長さくらいはある。たぶん人一人を簡単に丸かじりできる。

 アルヴァルディ辺境伯家では、国内で唯一、龍騎兵団が編成されている。百年前の英雄「氷の貴公子」も龍を駆る騎士だった。きっと彼は龍騎兵団に属する貴族なのだろう。言葉遣いは丁寧さに欠けるけれど、風貌には気品がある。砕けた口調も伯爵家の娘より上の身分、たとえば侯爵や公爵家の次男以下であるためかもしれない。爵位を継承しない男子貴族が騎士の道に進むことは珍しくなく、アルヴァルディの龍騎兵団は英雄への畏敬から、王族直属の百合の騎士団リッター・デア・リーリエ薔薇の萼片ローゼンヴァルキリーと同等の権威を誇る。大貴族の令息が所属していてもおかしくない。要人、といっていいものか――一応は当主の婚約者である女性を護衛する人材としても、身分ある騎士を任命するのは自然だ。

それに、貴族にしてはぞんざいな振る舞いも、あえて無作法を演じて私を婚約者として認めないという辺境伯家の意思を表しているのかもしれない。どちらにせよ今は彼の腕を信用するしかない|状況だ。私の命運は龍を御す青年の手に容易に握られている。

「あの、一つお聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」

 今のうちに聞いておかないとタイミングを失ってしまいそうだ。意を決して声を発すると、青年はじっとこちらに目を向けて私の言葉を待った。はっとするような明るい色の虹彩と深く沈み込んだ瞳孔のコントラストがどこか奇異に感じられて、龍の眼に似ているような気もした。

「アルヴァルディ候は、どんな方なのでしょう」

 貴族出身の騎士なら、当主の側仕えを担う機会もあるかもしれない。着く前に少しでも情報を得ておきたかった。

 その言葉を聞くと彼は左下に視線を逸らし、口の前に片手をやった。「難しいな、人によるだろうし」と言って考え込む。

「そうですよね、すみません」

「いきなり取って食ったりはしないから、過度な警戒はしなくていいと思う」

 予想外に考え込ませてしまったので、急いで質問を取り消そうとすると緩やかなフォローを入れてもらった。私の表情が不安そうに見えたのだろう。

「ありがとうございます」

「不安になるのが正常だと思うよ。王都での評判は頗る悪いし」

 おそらく緊張を和らげようとしてくれたことにお礼を言った。すると彼はこちらの身の上にも淡々と理解を示した。いいのかな、主君の悪評に反発しなくて。でも、悪い人じゃない気がしてきた。表情が読み取りにくくて、雰囲気も独特だけど、根っからの悪人が「人による」って考え込んだりしないはずだ。彼の立場からすれば、都合良く称賛しておけば円滑に事が進むはずなのに、わざわざ誠実に答えようとしてくれた。

「乗馬の経験はある?」

「いえ……すみません」

「まあ、王都の令嬢が乗る機会は無いか。馬より揺れないよ。速度と高度に慣れれば快適な乗り物だ」

 青年は手綱の長さや鐙の位置を調節していた。その背中と短いやりとりをする。装備の点検の間、龍は直立から伏せの体勢に変えて大人しく待っていた。

 彼が黒漆の龍に跨ると、長いマントが揺れて少しだけ裏地が見えた。濃藍色の布地は同系色の糸で描かれた幾何学模様で埋め尽くされている。正面からは、裾と襟に波のようにうねる唐草文が銀糸で刺繍されているだけに見えていた。

 隠れていた膨大で繊細な装飾に私は好奇心をくすぐられた。もっと、近くで見てみたい。あの珍しい幾何学模様はどんな構造をしているのだろう。僅かに輝いて見えた藍染の糸は、もしかしてアリアドネの糸だろうか。模様の入れ方はジャガード織、それとも手仕事?

「前、どうぞ」

 呼び掛ける声で、一瞬にして広がった想像も霧消する。代わりに緊張が舞い戻ってきた。

これから私は、縁もゆかりもない辺境伯家へ、当主の婚約者として赴く。

 差し出された手を取れば、黒い革のグローブの冷たい感触が掌に伝わる。手の甲に雪が落ちた。冷たさを新鮮に感じて、前世の私も雪国には住んでいなかったのだろうな、と思った。

 背の上に乗っただけで視点が噴水の頂上と同じ高さまで上がってきた。見たことのない景色だ。

「じゃあ、上げていくんで、紐掴んどいて」

 馬車の御者が龍の首から鎖を外す。解き放たれた龍は翼を広げ、四足で石畳を蹴る。ぶわっ、と浮き上がった身体を大きくゆっくりとした羽ばたきで推進させていく。人々の視線が集まるのを感じた。雪を掴もうとして路地で遊んでいた子供たちや、恐れ慄き遠巻きにしていた広場の大人たちも、みんな一点を見上げていた。カーテンを開けて様子を窺う家々の背も越えて、きっとこの世界ではこの乗り物以外に辿り着けない高さまで到達する。王都の空は青く、光を何重にも反射した雪が眩しかった。龍の鱗も黒曜石のように光沢を放って、こうしてみると、とても美しい生き物だったことに気がつく。

「着いたら厚手の服を何着か買った方がいい。寒いから」

 街がミニチュアのようになった頃、高度の上昇は止まり彼が口を開いた。その一言から行路は始まった。

 龍が翼を動かしても背後に乗っている人物が揺らぐことはなく、上体をまっすぐに起こしていた。私はそれに少しだけ安心して、背中を預けられた。

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