4-2 領主の婚約者にできること

 避難区域は城の北側に広がっている。過去の例と同様に、魔獣の女王がマナナーン半島の岬に上陸すると、その辺りは避けて通れないからだ。マナナーン半島の人々の退避が済み、リール北部の避難誘導が始まった。

 突然の避難勧告に対して、幸いにも人々の混乱は生じていないようだった。情報を対象地域に絞って伝えていることと、まだ魔獣による被害が出ていないことが理由かもしれない。勧告を受けた人々は、個人的に避難先の当てがあればそちらへ、そうでなければ騎士や憲兵の案内に従って城の門を潜る。規模のわりに住み込みで働く使用人が少ない城だったので、空き部屋は多くあった。別棟以外にも兵舎や礼拝堂が使える。空いた土地には仮設住居の建設も進んでいた。

「恐れ入ります、領主様!」

 柱廊に声が響いた。男性が息を切らしながら駆けつける。

 その場に居合わせたのは偶然だ。シスターたちが使われていなかった多目的室や母子室に手を入れると聞いていたので、手伝えることがないか聞きに行く途中だった。このまま歩いて追いついてしまうと邪魔になると思って、咄嗟に柱の影に隠れた。

「義父がまだ来ていないんです、もう少し待っていただくことはできませんか! もう避難地域が次に移っていることは存じております。でも」

 聞こえてくる声から、彼が見知った人物だと分かった。鍛冶工房の青年だ。ドワーフの店主と娘さんのいる、あの工房の。

「家を離れなかったのは何故?」

 彼の前に立ちはだかろうとする侍従を片腕で制止して、アルくんが歩み出た。青年――シュタイン、と呼ばれていたガラス職人の彼――は声量を落とし、息継ぎをしながら話し始めた。

「炉を捨てるくらいなら一緒に死ぬ、と言っていて……あそこは家族で建てた工房ですから、置いていけないんだと思います」

 確かにドワーフのお父さんは職人気質で頑固そうに見えた。仕事場を命と同等かそれ以上に重く扱っていても違和感がない。そして、その「家族」の中には、姿が見当たらなかった娘さんの母親も含まれているのかもしれない。

 あの工房は港からやや離れた場所に建っていた。避難誘導は人家の少ない地域から街の中へ移行している。事務的な考え方をすれば、定められた期間に移動しなかった彼らを待つことは望ましくない。一人や二人なら後で受け入れられても、街の中心部の避難誘導でそれを許してしまえば、案内に支障が出る。いざ危険が身に迫ってから一気に人々が城に押し寄せて、最悪通路は渋滞するだろう。円滑かつ安全に計画を進めるためには、今、動いてもらうしかない。物語上の存在でしかない魔獣の危機を信じられなくても、大切なものを置いていくことになっても、決断は迫られる。

 アルくんは身体の前のマントを払い、ベルトに繋げたシャトレーヌに手を伸ばした。シャトレーヌは化粧品や仕事用の小物を携帯するために腰から下げて使うアクセサリーだ。普段の彼は身につけていないはずだった。

 銀色のチェーンの先には万年筆と一冊の本だけが繋がっていた。本は夜会用の手帳カルネトバルのように小さくはないので、他に物を吊り下げるスペースを埋めてしまっていた。水晶とラピスラズリが飾られ、異国的な文様で彩られた装丁に見覚えがある。

 本を持ち上げると、彼は適当なページを開いて、そのまま一枚を切り離した。手紙の封を破るかのように自然な手つきだった。

「金で賄えるものはこちらが後で直す。ただし、思い入れはどうにもできない。そこは親子の情にでも訴えかけてくれ」

 推定五百年前に製本された羊皮紙は、経年によって強度が落ちていたのか簡単に破れた。彼はそこに何かを書きつけて、目の前に差し出した。

「ありがとうございます……必ず連れてきます」

 絞り出すような声が聞こえた。一枚の紙を握りしめて、彼は一目散に後ろへ走っていった。私の脇を通り過ぎていくときに、必死な横顔が視界に入った。

 ほどなくして「隠れなくてもいいのに」と声をかけられた。「お邪魔になるかと思って……」と言っておずおずと柱の影から出て行く。向こう側から見れば無意味な隠密だった。不審すぎて逆に邪魔だった気がする。

 彼は手帳代わりの役目を果たした本を腰に戻しながら話した。

「一つの例外を作れば十の類例に対応せざるを得ない。それでも間違いにならないようにしなきゃいけない」

 例外を許す姿勢は貴族として、人の上に立つ者として甘い。そう彼自身が言い聞かせているようだった。

「間違いじゃありませんよ、きっと」

 私も貴族として教育を受けた身だ。小を捨て大に就く選択の道理も理解できる。薔薇の巫女の戦いの歴史においても、そういう選択を強いられる場面はあった。

「それでも」と、甘さを自覚しながらも、最善の選択になるように努力する責任を負うことはいばらの道だ。人々のために薔薇の棘を受ける優しさは、高貴なる為政者に必要な資質の一つである。私の好きな歴史の本にはそういうふうにも書いてあった。

 ユミル国内で平民が貴族に直訴することは処罰の対象にはならない。だけど、運が悪ければそこでの言動に何らかの罪を着せられかねないので、危険な行為ではある。シュタインさんは領主の人柄を知っていたとはいえ、覚悟を決めて声をかけたはずだ。その勇気に応えずして、真の高貴を為せるだろうか。

「まあ、俺の仕事が増えるだけだからね」

 会話の内容から察するに、あの紙には彼らの工房の修復を保障する内容を記したのだろう。もし、女王の巨躯に踏みつぶされたとしても、帰る場所が失われないように。紙面の約束がなくても、アルくんが終戦後に倒壊した建物を修復しないとは思えない。だけど、不安を抱える人々は目に見える確かなものを求めるだろう。他の誰かが貰った紙を見て、自分も、と願い出る。そのとき、一人目と同じ対応をしないのは不公平だ。

 平時は役に立たない白紙の本が手帳の代わりになった。それを見て、私もできることがあると気づいた。

「アルくん、領主の婚約者にできることはありませんか」

 領主の代わりに約束をすることなら、私にもできる。


 鍵付きの引出しから公用インクとナイフを取り出した。彼はインクを机に置き、

「手、出して」

 ナイフはその手に収めたままだった。執務室、私はカウチソファに座って彼と向かい合っている。以前と同じ構図。

 左手を差し出すと、薬指に刃が添えられた。じわりと滲む血液はこれまで私が縫い針で流した血の総量よりたぶんずっと少ない。それなのに「ごめん」と取り返しのつかないことのように呟いた。彼は責任の所在を明確にするために、私にナイフを渡さなかったのだと思う。傷口はすぐに塞がった。

「あの、私がここに居たいとお願いしたわけですし、できることをやるのは当然だと思います。何か気にされているなら、大丈夫ですから」

「君がいいならいいんだけど、他所の家の人を無償で働かせる予定は無かったから、どうしようかな、と」

 損害への補償は私が約束すればいい。幸いにも、長櫃一合分の財産が手元にある。あとは数行の文章と署名を入れることさえできればいい。借りたものを返すだけの取引で、文字を書くだけの仕事だ。そう重大な話ではないと思ったのだけど、存外に彼は考え込んでしまった。

「利子付きで返すよ」

 とりあえず、それで手を打つことにしたらしい。ただ返すのではなく利子付きで、と言ったのは私が余所の家の人だからかもしれないし、一時的な婚約者だからかもしれない。貸し借りを作るのが好きではなさそうだけど、返ってこなくてもいいと思っているものには躊躇いなく与えそうでもある。本の可能性に投資するように、人間にも目に見える生産性を期待するよりも概念的な価値で捉えている。彼が私を少しは身近な存在と認識しているのかどうかは分からない。でも、それは私が彼をどう思うかとは関係がない。人生は物語ではなく、人間もキャラクターではないけれど、誰かに近づこうとしたら、ある程度は一方的な解釈を使ってその人の考えを想像しなければいけない。

 それから、私は誓約書を必要とする人の対応をして回った。希望者の数は処理に忙殺されるほどではなく、大勢が「どうにかしてくれる」って信じ切っているように感じた。段々と空室が減っていく城内で、私はペンを執り、図書塔で子供たちと本を読んだり、ミカグラの民との通訳に入ったりして過ごした。アルくんは元々、執務室に居るのか、図書室に居るのか、そもそも城内に居るのか、聞かなければ全然分からない人ではあった。それにしても以前にも増して神出鬼没になった。用があれば話す程度の間柄に過ぎない私たちは、顔を合わせる機会がさらに減った。

 文官たちが出払った図書室は、日中は開放されて避難してきた人々で賑わっていた。本はこの状況では数少ない娯楽だ。それに、識字率が高く、本が特別高価ではないユミルでも、これだけの蔵書を誇る空間は珍しい。単純な物珍しさから足を運ぶ人も多いようだった。

 私はよく図書室に通って、誰かが本を探す手伝いをしている。領主の婚約者だと見抜いた、あるいは城の女官か何かだと思った人は、きっと書架の配置にも詳しいだろうと考えて尋ねてくる。残念ながら、私に自信があるのは歴史系の棚、の特に限られた範囲だけなので、大抵は本探しを手伝うというより、一緒に迷うことになる。レファレンスサービスは難しい。私はあんまり司書に向いていないかもしれない。

「こんにちは、ロゼッタさま」

 ここで声をかけられるときに、名前を呼ばれることは少ない。城下の人々は「王都から来た婚約者」だと知っていても、私の名前までは覚えていない場合も珍しくないからだ。あるいは貴族を名前で呼びかけて良いものか分からない、という心情かもしれない。

 声は私の目線よりも低い位置から聞こえてきた。赤褐色の肌に丸い目をしたドワーフの女性が立っていた。

「こんにちは、リンさん。お父様のこと、ご一緒に来られてよかったです」

 数日前、彼女たちが父親を連れて再び入城したと知らせを聞いていた。説得が成功したようで安心しているところだった。

「ええ、ええ……そのことで、領主さまには大変申し訳ないことをしました。あの本は、領主さまの御家でずっと、これからも長く大切にされるはずのものでした。直したのはうちのお父さんですから、よく知っています。それなのに、わたしたちの家のことで破かせてしまいまして、本当に申し訳ありません」

 彼女は深々と頭を下げた。

 あれは先祖代々の貴重な品だ。それは確かとして、家宝として大切に扱うことと、あの場で白紙の中身を切り取ったことは矛盾しないと思うのだ。アルくんは、本には人生を変える可能性があるから好きだと言っていた。あのとき、あの本には、その力があった。

「アルブレヒト様は、あの本を、いつか後世に遺しておきたい事柄を書くために使うと仰っていました。『後世』というとずっと先の未来に感じますが、近い将来で必要になると思ったから、それを書くために使ったのだと思います。きっと、用途は変わっていませんよ」

 私が代弁していいものか分からないけれど、たぶん、そう思う。人の想いは誰かの未来を変えるかもしれない、魔法以上の力を持つ。そして想いを保存するものだから、彼は本を愛している。

 リンさんは顔を上げると、奇異そうな声で言った。

「ロゼッタさまは、あんまり貴族っぽくない話し方をしますねえ」

「すみません、威厳がなくて……」

 反射的に謝ってしまった。こういうのが良くないのに。貴族たるもの易々と頭を下げてはいけない。それなのに、前世の記憶の影響か、生来の気質のせいか無意識に飛び出してしまう。

「不思議ですねえ、都から来られた方なのに、それに御令嬢のご成婚ですから、そんなにご自分で行先を選んではいられないでしょう? それなのに、領主様の御家の方っぽい話し方をされるなあ、と思いまして」

「……そうでしょうか」

 アルヴァルディ家の人々は、模範的な貴族らしくない面はあっても話し方には一種の高雅さが備わっている。ユリウス様とアルくんは似たタイプで、普段の多少荒っぽかったり棘があったりする言い回しと、外向きの態度の使い分けが上手い。シキナ様とノルベルト様も似ている。丁寧で物静かな話し方の中に、心の機微を明敏に察知する視点が含まれている。ディアナ様は一見して学院の女学生らしいけれど、達観した雰囲気や暗示的な言葉選びが魅力的だ。

「わたしどもは貴族の方との付き合いが多くはありませんから、見当違いかもしれません。でも、お父さんは貴族ぎらいで、よその御家の方がお越しになると、気に入らないって追い出してしまうんです。一目見ただけで、ダメなときはダメなんです」

 おそらくは、単に尊大ではないとか、偉ぶらないように見えただけだ。それと領主の婚約者だと気づいたから、第一印象が悪くなかったのだろう。

「……私、社交が苦手なんです。堂々とした態度も得意ではなくて、そのせいで辺境伯家に迷惑がかからないかをずっと心配しています。でも、お父様に不愉快な思いをさせずに済んだのなら、悪い癖が良い方に働きましたね」

 本当はこんなことも言わない方がいい。下手なりに取り繕うべきだ。そう思いつつも、どうせ見抜かれているのなら、と口が滑った。

 すると、彼女は昔語りでもするように一層ゆっくりと話した。

「ユリウスさまも、領主さまも、都では暮らしにくくてこの街を作ったといいます。そうして集まってきたのも、わたしたちみたいに、他に居るところのない者ばっかりです。ご縁があったってことかもしれませんねえ」

 ドワーフはおおよそ百二十年を生き、私たちより寿命が長い。炉の女神がもたらす火と土の力を信じ、一生を槌や鋼に費やす。性質は一般に余所者との交流を好まない。見かけよりもずっと年上であろう彼女と彼女の家族があの工房に辿り着くまでに、長い時間が必要だったことが想像された。加えて多大な忍耐も必要だったかもしれない。リールの街に寄り集まった歴史の総頁数は、一体どれくらいになるだろう。

 別れる前に、彼女は小さな革袋に入れたリングと宝石を渡してくれた。依頼した指輪の途中経過だった。荷物はそう多く持ち出せなかったはずなのに、壊れてはいけないと退避させてくれていた。

 それから私は、宝石の収まっていないリングとカットの済んでいないブラックラブラドライトを、袋に入れたままで眺めた。部屋に居るときに、何度も。未完成の指輪は白紙の装飾写本に似ている気がした。その機能は果たしていなくても、価値あるもの。

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