4-3 領主の婚約者にできること

 白薔薇城の時間は新年を祝う暇もなく過ぎていった。

 ある朝、地響きと銀狼の遠吠えで城内の人々は目を覚ました。窓の前に立ち、カーテンを開ける。朝焼けの朱色と海岸線の青が混ざって、美しいグラデーションが街を包む。冬のリールには珍しい快晴は、女王陛下の来臨を祝福するかのようだった。

 花びらのように広がる蝶の羽と、白い体毛の生えた蜂腰の胴体は昆虫類を思わせる。象のような太く丸い足を踏みしめる度に地面は揺れ、引き摺った魚類の尾が瓦礫を振りまいていた。巨体とは対照的に、頭部は孔雀のように洗練された流線形をしている。この世の美しい生き物をでたらめに繋ぎ合わせたグロテスクな形相にも拘わらず、畏怖の念を抱かせる神秘的なオーラを纏っていた。

 一人で身支度の済むブラウスとスカートを着て、ベランダに出た。すると間もなくして、部屋のドアをノックする音が鳴った。

「お姉様、新月を見にいきませんか」

 何があろうと可憐な微笑は揺るぎない。呆然と立ち尽くさずに済んだのは、彼女のお陰だった。

 月のない夜に目を覚ました獣は、海をかき分け山を崩し、今度は街を踏み倒しにやってきた。昨日までは領内の南西部や隣の領地から搬入された物資を絶え間なく循環させていた列車が、今は人や火薬や砲弾を乗せて回っていた。私はディアナ様に連れられて、主塔の最上階から城内を見下ろした。多少の揺れは問題外とでもいうように、いつも通りに黒煙を吹き上げる列車の様子が頼もしかった。

 彼は焼き菓子を口に運んでいた。朝食代わりなのだろうか。見張り台として使用される最上階には、持ち込んだのか元々あるものなのか、安楽椅子とサイドテーブルが設置されていた。座ったまま振り向いて「君も来たんだ」と言った。

「あまり見栄えのいいものじゃないかもしれないけど」

「良くなかったら、自主的に目を逸らしますね」

「そう」

 ディアナ様は皿からシュトーレンを一切れ摘まみ上げた。そして、バリスタの土台になっている石板に腰を下ろす。護衛の騎士に座る場所を作ろうか尋ねられたものの、不要不急の用で持ち場を離れさせるのは悪いので遠慮した。

「噂に聞いていたよりも小さいな。大聖堂の天辺に届くほどって書いてあったんだが」

「まるで幼子ですね」

「ガキ同士の喧嘩か。人の子と魔獣の子、どっちが強いか教えてやろう」

 彼は以前、進行速度の報告を受けて「予測より遅い」とも言っていた。あれは歴代の女王よりも小さな個体なのかもしれない。

 魔獣の女王は、地上の生き物たちの声に反応して覚醒する。急激に発展した三日月型の半島に呼応するように、成長途中の状態で眠りから解き放たれたのだろうか。

「ロゼッタ」

 心臓が跳ねる。この声に名前を呼ばれることにはまだ慣れていなくて。

「髪を結ぶのは得意?」

 一体何の質問だろう、と思いつつ「よく妹の身支度を手伝っていたので、人並みには」と答える。突然に話を切り出してくる癖には慣れてきた。

 返答すると、アルくんは後ろ髪を解いた。立ち上がってこちらに近づきながら、マントの内側から何かを取り出す。

「じゃあ、頼んだ」

 手のひらにあったのは組紐と、鉢巻だった。黒地に白の刺繍。彼はそれを渡すとすぐに席へ戻ってしまった。

 理由は分からないままで、頼まれたからにはとりあえず手を動かすことにした。スカーフアレンジの要領で鉢巻を巻き付ける。妹のリクエストで色々な結び方を練習していてよかった。

「できました」

 背後から声をかける。ありがと、と短い返事。背の高い人の頭上を見下ろす機会ってあんまりないな。

「簡単に結んだだけですけど、大丈夫ですか?」

「うん。願掛けだから」

 三分割のシンメトリーが描く正道と満参、アリアドネが繋ぐ縁。彼はさらに一つ祈りを纏う。己を刀身に見立てたように。ここでは自分が武器だから。

「籠城戦で勝つための条件は知ってる?」

 残り少ない紅茶にミルクを入れて飲み切って、彼は組んでいた脚を解いた。

「食料が尽きないこととか、内通者が居ないことでしょうか」

 腰の装身具から本を取り外して、

「それも重要な観点だ。兵糧不足は士気に直結して内部崩壊を招くし、尽きれば当然死ぬ。城主の人望次第では序盤から内通者も出る」

 片腕に抱き、立ち上がる。ゆっくりと縁まで歩いていく。私は後を追って、手すりの前に並んだ。どんな顔をしているのか見逃したくなかった。

「しかし、それらの前提として必要な条件がある。籠城側は援軍が見込めないのなら、一時的に負けないことはあっても勝つことはない。一度追っ払ったところでまた攻めてくるんじゃ困るから、もう来ないように大損害を与えるか牽制する必要がある」

 左手には本を、右手には雪を掴む。彼の片手の上にだけ、透明なスノードームを置いたかのように淡い雪が降ってきた。

 出会ったあのときも、風花が降っていた。陽光にきらきらと輝いて、龍の黒い鱗を濡らし、人々は皆、空を見上げていた。彼が王都に雪を連れてきた。

「それで、この城に援軍が来るのかという話だが、結論から言うと来ない。見てもいない魔獣を討伐するための兵を動かす領主が居るはずもない。うちの優秀な外交官が王宮に働きかけてはいるが、全てが上手くいったとして王都からリールまで兵が到着するのに何日かかるかな。あれに丸一日与えたら、余裕で城をバラして積み木代わりに遊ばれるのは目に見えてる」

 深く、暗く、冷たく、暴虐的で幻惑的な、深海から響くような、声だ。

 その語り口に私はいつも引き込まれた。淡々としていて平坦で、圧倒されるほど一方的なのに、聞いているとどこか知らないところへ沈んでいくような心地がした。その感覚は身体の力が抜けていくみたいで快くもあり、少しずつ息ができなくなっていきそうな恐ろしさもあった。海底の魔物に魅入られて、脚を絡めとられたらきっとこんな感じなのだろう。

 彼が息を吐く度に、雪は勢いを増した。やがて一陣の風となり、冬将軍を呼び、壮大な吹雪を追い風にする。奇態な日輪を覆い尽くすほどの雪の弾幕が飛んでいく。

 狙うは正面、目と鼻の先にある飽食の母、堕落を誘引する逆位置の女神。彼女に食らわれた生き物は、愛に満たされて安らかな面持ちで死んでいく。だとしても、人間は原始的な快楽だけでは満足できないほどに欲深い。

 ずっと、遥か彼方を見つめるような、何かを待っているような目をしていた。

 ペリドットの瞳を獰猛に煌めかせて、乾いた唇の両端は不均等につり上がる。少年らしい勝気な笑み。

「あれをわざわざ連れてきたのは、籠城戦をするためじゃない。最大火力を最大効率でぶち当てて倒すためだ」

 乱暴だな、案外。こんなに綺麗なのに。

 左手に携えた本の水晶が、割れんばかりに輝きだした。

 白い糸が一気に青黒く染まった。さらにはその糸は帯から逃れ、空中に舞った。同時に組紐もばらばらに解けていく。編み込まれた永遠を意味する細工も、光を纏いながら一本ずつの糸へ分かれていった。

 風にたなびく髪が扇のように広がる。夜の海の色が薄明の空を塗り替えようとしている。

 吹き荒れる雪は氷の礫に変化し、魔獣の女王に吹き付けた。最善の時を見計らって放たれた魔法が今にも城壁に迫ろうとしていた彼女の足を止める。一瞬にして足先と地面が氷によって接合された。

 一撃を合図に、氷の柱が一斉に出現した。城壁の狭間窓、側塔、門塔、至るところから魔術師と魔道砲台による一斉射撃が開始された。空からも冷気は注がれる。飛び交う龍が女王の頭上に白いベールのような霜を被せていく。

 彼の手のひらから生まれた氷の棘は、女王の胸に突き刺さった。鋭利な絶対零度の杭がもう彼女を逃がさない。時が止まる。内外から凍結が広がり、密生した柔毛や月のように幻想的な羽が固まっていく。

 襟と裾にある銀糸の唐草文と、裏地に隠された幾何学模様も、ゆっくりとマントから離れていった。無数の糸が舞い散るなかで、少年が全身全霊で祈っている。世界を救うためではなく、自分にとって大事なものを守るために。

 私も祈った。綺麗、と無意識に声を出していた。

 彼は自分の力を信じていて、重い呪いとも表裏一体な、多くの人々の信仰も背負っている。だからその魔法は、強く、美しい。

 瞬く間に氷像を作り上げると、彼は手を下ろし、こちらに少しだけ目を向けた。凪いだ表情はいつも通りの大人びた青年のものだった。顔の火照りを誤魔化して、左の口角だけ上げる。背筋を凛と伸ばしたまま、歩く。歩きながら話をする。

 本当は、立っているのだって辛いように見えるのに。

「ミカグラの民は毒矢を装填した弩を設置して狩りをするそうだ。それに倣って、神具を打ち出すことにした。毒が効くかは知らないが物は試しだ。普通の魔獣には効くようだからそれなりに可能性はあるだろう」

 引き絞られた弓に大剣が装填されている。おそらくバリスタに分類される特注の兵器だ。台座が異様に長く、途中から銃身のような筒状になっている。透き通った氷刃の剣と黒々とした金属質な兵器が不釣り合いだった。

 魔獣の女王は魔法と神具以外の攻撃をほとんど受け付けない。彼女は神々と同格の、人の手に余る存在だからだ。乗り越えることが不可能と思われる障害を前にしたときでも、人間には取れる手段がある。それでも叶うと信じることだ。神に祈り、魔法を使うとき、人は自分の心の中にある美徳の存在を信じている。

 とはいえ、人の手で重い武器を振り回すより、射出した方が威力に期待ができそうだ。道理。だけどなんて罰当たり。彼は、今、この瞬間、天啓を受けているかもしれない巫女や代行者の力を微塵も当てにしていない。魔獣の女王の復活の度に、いつも対応が後手に回る神々を頼りにするのも心許ない。目の前に存在しない力を勘定に入れたって仕方がないし、顔も知らないどこかの誰かを待っていたら、彼の守るべきものは壊れてしまうから。

「お兄様、良かったですね。蔵の長物をお披露目できて」

「俺が狙うから後は頼んだ」

「外しても直してあげます。私は因果を曲げる魔女ですから」

 バリスタの装甲がエメラルド色に光る。インクに血液を垂らしたときのように。魔道石だ。この兵器の本体は、魔道石で造られている。

 傍らに立つ少女の手が導体に触れていた。そういえば、彼女は風の魔法が得意だった。繊細で正確無比な魔力操作で、薄い服の繊維だけを狙いすまして切り離すこともできる。

 六花の衣を纏った女王は、眼球だけが露わになっていた。光を映さない漆黒の瞳孔が的として残されている。

「ローゼン・オブリージュ」は、一人の少女が気高い行動と選択により、女王になっていく物語だ。最後の戦いでは、人間と獣、それぞれの女王同士の戦いが描かれる。人間の心の美しさの積み重ねによって魔性の獣に打ち勝つ姿に、あの物語のテーマが詰まっている。高貴とは強さであり、高貴とは美しさだ。

 翠色の彗星が流れていく。

 太陽を突き抜け、星々の間を縫って、暁を切り裂く閃光。

 誰もが空を見上げていた。弓弦の推進力を圧縮された空気の爆裂が後押しして、豪速で薔薇の神剣が撃ち出された。

 彼は引き金を引いた。高慢なまでに自分の力を信じ、我欲を貫き通した彼は、どこまでも人間らしくて、美しかった。

 瞳を貫かれた女王は、声帯にも氷の楔を打ち込まれており、断末魔を上げることもなかった。やがて各所から砲声が轟く。細胞ごと結晶化した継ぎ接ぎの肉体が破壊されていく。乱離する氷片とダイアモンドダストが視界に飛び散る。それは、戦いと呼ぶにはあまりに美しい光景だった。

 不自然に傾いた身体を咄嗟に支えた。私の目に映る範囲の中心に彼は居たから、すぐに気づいた。左肩を掴み、手から滑り落ちそうになる本を拾う。

「限界ですね」

 ほとんど同時に、彼女が右腕を掴んでいた。姉のようにとても優しく、さっぱりとした声で言い切った。

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