4-4 領主の婚約者にできること

 揺れの際に使用人が城中の灯かりの火を消して回ったので、屋内も肌寒かった。私は魔法で暖炉に火を付けた。

「私、重いものは持たない主義ですので、運送はお任せします」と言われ、その場に居た騎士と一緒に執務室まで来た。相当慌てていたからなのか、施錠されていると知っているからなのか、同行した騎士は彼を奥の私室にまでは運ばなかった。カウチの上に降ろし、医務官を呼んでくる、と廊下へ駆け出してしまった。「それは他の人が呼びに行くように指示されていましたよ」などと無粋に口を挟むことはできず、私は一人で取り残された。もう少ししたら、城中から医師や魔術師が押し寄せてきそうだ。

 外では集中砲火の轟音が鳴り続いているはずなのに、この部屋の中は静かだった。手持ちぶさたになって、かといって座っていられるほど落ち着かず、カウチの側にしゃがんで彼の顔色を窺った。青白い肌に熱が籠ると目に見えて赤みが差す。初めて見たとき、血の通わない人形のように思えた少年は、どうしようもなく生きていた。

「……何時?」

 体性反射の勢いで、ビクッと起き上がる。凍晴の空気を吸いすぎて乾いた喉が微かに震えた。

「今攻められたら勝てない」

 左手の指を唇に当て、焦点の定まらない目で、もう一言呟いた。見えていないんだ、と思った。自分が今どこにいて、最後の記憶からどれくらい経っているのか分からないでいる。きっと私の存在にも気がついていない。

「今なら変えられる。全部。王家がやったことにできる。殺せばいい。ここに全員いる。今ならやれる。それでこの国が守られるなら」

 私は彼の両肩に手を添えて、ゆっくりと押し倒した。平時ならびくともしないであろう身体は簡単に傾いて、クッションに沈んだ。

 左腕がカウチからはみ出して、床に向かって垂直にぶら下がっていた。それをゆらりと動かして、光を疎むように瞼の上へ持ってくる。数十秒の沈黙の後、呟いた。「……呪われる」。

「それでも、こんな国の権威が失われて、未来で何万人を殺しても、俺は今を選んだんだよ」

 彼は言っていた。ユミルが戦争と無縁でいられるのは、魔獣の女王を退けてきた実績があるからだ、と。何度でも神話の再来を見せつけるこの国の権威と神性に敬意を称して、他の国々は侵略してこようとはしない。

 では、魔獣の女王が永遠に消えて、それを打ち倒した王家の貴き血統の意味が薄れてしまったら?

 魔獣の恐ろしさを忘れた人々は、ユミルを守護する神を恐れることもなくなる。ユミルを率いる王家の威光が失われても、この国は特別ではなくなる。物語の世界のように平和で豊かな理想郷は無条件に成り立つわけじゃない。

 彼はあの未だ幼い女王を、骨すら残さず殺すだろう。そうしたら、もしかしたら魔獣は二度と産まれなくなって、世界に平和が訪れる。だが、魔獣に対抗した国の誇り高き戦いの歴史は徐々に忘れられ、いつかただの物語になってしまう。そうなったら、もう、どこからでも侵攻を受けてもおかしくない。

 未来、生まれるかもしれない夥しい量の犠牲と不幸を飲み込んで、彼は今、目の前にいる人々を救うことを選んだ。数を見比べれば不合理な判断だ。それでも、きっと、耐えられないのだ。救えるはずのものを救わずに、この先の人生を生きていくことが。だって彼はこの領内で、甘いものを食べながら本を読んでいたいだけだから。救世主になりたいだなんて思っていない。

 もしも未来で戦禍を招いた原因として、何万人分の怨嗟を向けられたとしても、限りある永遠を祈った少年はひどく美しかった。

「ご両親はもう、帰って来られましたよ。ディアナ様もご立派に指揮を執られています。たとえ王都から軍勢が押し寄せたって何も心配要りません。それに王都にはお兄様がいらっしゃいます。そんな酷いことにはさせませんよ。ここは貴方の城です。だから大丈夫です」

 魔獣との戦いに終止符を打つのが王族であったなら、この国は延命できるだろうか。永遠とまではいわずとも、少しは長持ちするかもしれない。魔獣の女王を滅した功績は、この城の人々を皆殺しにすれば手に入る。まだ情報の広まっていない現段階なら。だから、歴史に名を遺す者を決めるために、王都から兵が差し向けられるかもしれない。

 そんなことまで心配しているのだろう。理性では無理の多い仮定だと分かっていても、とても優しくて、臆病だから。

 私には薔薇の巫女のように特別な力は無い。今でも自分が何者なのかも分かっていないし、ここに居るのもただの偶然だ。だから物語のように彼の苦しみを癒したり、劇的な言葉で勇気づけたりすることはできない。「大丈夫」って言うだけ空虚だ。何も知らない赤の他人の言葉なんだから。

 無意味な自己満足として声をかけた。見えてなくても、聞こえてなくてもいい。

 額に手を伸ばす。目にかかる前髪をよけて、肌に触れる。信じられないくらい熱かった。魔力を一度に使いすぎて起こる、尋常ではない熱暴走だ。

「つめた…………」

 目元を覆っていた腕が僅かに動き、指先が私の手指を掠め、やがて手首を緩く掴んだ。

 今こんなこと絶対思っちゃいけないのに、この男の子は強くて頭が良くてかっこよくて、ものすごく可愛い。普段は自信と余裕に満ちた涼しい顔をしているのに、どうしてこんなに頑張れるんだろう。好きになってしまう。

 空いていた左手も頬に当てた。さっきまで火を付けていた手だからあまり冷たくはないと思うけど、そう言われると離れられなくなった。

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