4-5 領主の婚約者にできること

 魔獣の女王は砲火によって大部分が破壊され、人力でさらに細かく解体された後に焼却された。城内で一度に焼却処理できる量ではないので、辺りに可燃物のない雪原に持ち運び、徐々に焼却、廃棄されていく予定だ。「食ったら美味いのかな」「何百年に一度の研究素材が……」などの惜しむ声もありつつ、奇怪であり美しくもあった女王の遺体は細切れにされていった。神剣がバリスタの矢や解体包丁にされるとは神様も予想していなかったと思う。

 戦いの翌日には、王都から臨時工兵部隊が到着した。君主の一声で即座に大規模な兵団を編成できるわけではなく、王侯貴族が権力を振るうには、それなりの手順を踏まなければならない。しかし、工兵部隊とは名ばかりの大工の集団なら「仕事の依頼」という形で正当かつ迅速に人員を招集できる。「城が落ちないことを前提として事後処理に注力する冷徹な判断。さすがはお兄様ですね」と妹君は称していた。部隊の派遣を奏上したのは王都に居たノルベルト様だ。

 領都リールには確かな爪痕が残されていた。薙ぎ払われた建物の並びに窺える進軍路や港に浮かぶ転覆した船が一夜に消えた凶星の存在を示している。それでも、避難してきた人々は続々と城を出て、各々の暮らしに戻ろうとしている。アルヴァルディ領の領民、騎士や兵士、王都からの工兵部隊による復興活動が開始していた。人々は多くの大切なものを失った。心に消えない傷を負った人もいるかもしれない。それでも、すでに街は前を向いていた。

 街も、人も、いつかは必ず失われる。この街も何百年後には魔獣以上の災厄に巻き込まれて、地図から姿を消していたっておかしくない。だとしても、若き領主が祈った「人間に可能な範囲」での永遠は、近い未来に生きる人の命だけは確実に繋ぎとめた。

 私は礼拝堂で避難してきた人々が使っていたものを片付ける手伝いをしていた。貴族が労働なんて貧賤な振る舞いを見せてはならない、と糾弾する人はこの城には居ないだろうけど、教会での奉仕活動、と言っておくと通りが良いことは経験上把握している。礼拝堂の雰囲気は落ち着くし、奉仕活動の名を借りたカモフラージュにもなるので、特段することがなければここに立ち寄っていた。

 別棟に返却する食器を数点預かって、外に出たときだった。空に黒い龍の姿がある。初めはアトイが騎士の誰かを乗せているのだと思った。

 龍の軌道は弧を描き、礼拝堂のステンドグラスを横切って、温室の前に降下した。龍騎兵団の純白の制服とは正反対の、黒いコートが風を含む。

「ロゼッタ」

 おはようございます、と厳めしい黒龍とは不釣り合いな柔らかい笑みを浮かべる。白薔薇城の長兄が帰ってきた。

「ノルベルト様! お勤めお疲れ様でございます」

「派兵の話が纏まったので、先に帰ってきました。貴方はお変わりありませんか?」

 街の再建に当たっている工兵部隊に続き、今日の午後には騎士団から白兵戦を得手とする部隊が到着する予定だった。特別な権力を持たない若手外交官であるはずの彼が、どのようにして王宮を動かしたのかは詳しく聞いていない。おそらくは辺境伯家の令息としての立場や、学院時代の交友関係、外務局で得た中央貴族との人脈などを存分に活用して、国王陛下に働きかけたのだろう、と想像はしている。

「はい、私は大丈夫です。アルブレヒト様のことはもうご存知ですか」

「今は落ち着いていると聞きました。今朝は彼の顔を見ていますか?」

「いえ、直接はあまり、様子を窺っていないんです」

 あの日、高熱で倒れてしまった城主様は、それから二日間ほとんど眠っていた。さらに数日経って現在は食事も喉を通るようになり、かなり回復されたようだと話に聞いている。そう、今のところは全部、人伝いだ。治療や看護の為に部屋を訪れる医師や魔術師以外にも、見舞いに来る人は多いだろうから、邪魔になると思って会いに行かなかった。普通に会話ができるくらいになったといっても、無駄な応対は疲れるはずだ。負担を押してまで訪ねるまでの理由が私にはなかった。

 返答を受けると、ノルベルト様は少し目を落として、「もっともらしい」顔を作ってから話した。

「そうですか。私は先遣隊を出迎えなくてはならないので、門塔から離れられません。でも、弟のことがとても心配ですから、代わりに様子を見に行ってくれませんか」

 この人は彼のお兄さんなんだな、と強く感じた。優しくて、ちょっと怖いくらいに聡いところがよく似ている。都合のいい口実をいただいた私は、謹んで代役を務めることにした。「門塔から離れられない」のも「弟がとても心配」なのも本当だとしても、私に代行をさせる必要なんてないはずなのに。容態は医務官に聞けば詳しいし、先遣隊の入城が済んだら直接会いにだって行ける。とても真剣な顔で嘘を吐くから、それが方便であることは気にならなくなる。

 別棟の使用人に預かり物を受け渡してから、居館の二階に向かった。執務室にノックを四回。返事があったので、噂通り、私室で大人しく眠ってはいないようだ。

 彼はロッキングチェアに腰かけて、本を読んでいた。医師からは、宮廷からの書状の返答など急を要する仕事以外で目や頭を疲れさせないこと、と指示されている。しかし彼は全然言うことを聞かず、暇だからと本を読みふけっていたので、医療班が執務室の本を一時移動させる強行に出たという。それに対して魔術班――普段は図書室で研究に励んでいる本の虫たちは同情的で、「活字中毒者から本を取り上げたら死んでしまう」と城主様に本を密輸する活動を行っているらしい。この城の人たちはやっぱり変わっている。こんなに無遠慮で楽しげな攻防は他の家では起こりようがない。

「おはようございます。お加減はいかがですか」

「みんなそれを聞くな。大丈夫。ただの魔力切れだよ」

 本に栞を挟んで閉じ、膝の上に置く。確かに顔色は悪くなさそうに見えた。ただ、暖房が効きすぎているせいか、まだ熱が残っているせいか、珍しく上着を羽織っていなかった。

 学院時代からの友人曰く、彼が魔力の消耗で倒れるのは「二年ぶり四度目」らしく、何度も経験している友人たちや本人からすれば、危惧するほどのことではないのかもしれない。彼は自分の膨大な魔力の限界を確かめるべく、授業の場を使って実験をしていた。「学院で許可を取ってやれば後処理を教師陣に押し付けられるし、医務室の人員や設備も整っているからすぐに復帰できる」との理由だったそうだ。だからといって何度も倒れる必要はないと思うけれど、彼はその実験によって魔法が使えなくなる一歩手前で威力を制御する術を会得した。最大の力を注ぎつつも、避けられるリスクは避けて勝つ。神話の怪物と対峙しても現実的な戦い方をしていた。ヒーローっぽくはなくても、目的のためなら手段を選ばない、氷の代行者の血筋らしさはある。

「あの、私はノルベルト様の代わりにご様子を窺いに参りました。それと伝言を承りましたのでお伝えいたします。今回の派兵に関して、エリーザベト王女殿下がお力添えしてくださったそうです。『借りは返す』と仰っていたそうです」

 これは最初に伝えるべきことだ。ノルベルト様からは言伝を預かっていた。王女殿下自身がそれを望んだのかどうかは、彼の言葉からは判断できなかった。しかし、私にも伝えておくべきことのように思えた。

 彼女の来訪の後、アルくんは王城に白磁器を送っていた。陶器と異なり長らく輸入品が主だった磁器は、国内では生産地域が限られている。白磁器は貴族間で祝い事などがあれば贈答品としてよく用いられ、ダグダ山脈から独自に原料を採掘できるアルヴァルディ領の名産品でもある。この贈り物の意図としては、彼女が白薔薇城を訪問した目的について「友人に会いに来ただけ」という事実を裏付ける意味があったのだと思う。王女殿下がお忍びで辺境伯家を訪ねたと知れば、何かと勘繰る者が現れてもおかしくない。何も隠すべきことはなく、友好関係を築いていると表向きに主張しておけば、むしろ野暮な詮索は避けられると考えて先に手を打ったのだろう。

 王女殿下の「借り」はこの件のことを示しているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。私の知らない、もっと前の出来事である可能性もある。

「そう。恩を売った覚えはないけど、兄の無茶振りに付き合ってくれたなら有難い。礼状くらい書かないとな」

 たぶん、普通の手紙の方が喜ばれますよ、とは言えなかった。確証がないし、代弁できる立場や関係ではないからだ。あとはこういうところで筋を通すからこそ、とも考えられる。

 魔獣の女王を驚異的な短期間で討伐し、あらゆる方面に「貸し」を作ったはずの彼は、得られるはずだったあらゆる褒賞をうやむやにしようとしていた。体調不良や既に産まれてしまった魔獣への対応を理由に登城を拒否しており、きっとこのまま何かの建前で逃げ切るつもりだ。

 今なら分かる、この人は単に、警戒されるのが面倒臭いのだ。大きな貸しの代償にとんでもない要求をされたら、とか、もっと大きな権力を築かれたら、とか危険視されて干渉を受けるのが嫌なので、何も貰わないようにしているだけだ。現状、王宮からは被害を受けた地域の復興と、マナナーン半島への討伐遠征のために人員を借り、それ以外は何も受け付けていない。他家による支援も、先代から関係の深い家から食料や資材を受け取るのみに留めている。傍から見ればこういうところが、不気味で油断ならないと思われる原因なのだろう。実際は、心穏やかに本を読むために仕方なく、領主をやっている人なのに。

「これから先は私用なのですが、お話ししてもいいですか」

 彼は本を残して席を移った。執務机の引出しを開けて、筆記用具を取り出しながら「どうぞ」とだけ返事をする。

 彼の発する声は、低めの音域のせいか短い音節にも深度を感じさせて、綺麗だと思う。

「欲しいもの、決まりました。以前保留にしていた件、まだ有効ですか」

 鉢巻を渡したときに言い出された対価の話だ。彼は顔を上げて「ああ、何でもどうぞ。財政が傾かない範囲で善処する」と答えた。

「貴方のマントの刺繍を直させてくれませんか。ずっと綺麗だと思ってて、近くで見る機会があればと思っていたんですけど、無くなってしまったので……」

 話すことは前もって決めていたはずなのに、口を動かしてみると、なぜか上手く言葉が繋がらなかった。余計な語尾や接続詞が尾を引いて、本題まで一直線には辿り着かない。

「あと、ディアナ様に夏用のドレスを贈る約束をしてるんです。それに合いそうな生地もいただいていて……なので、それが作り終わるまで、ここに居てもいいですか」

 だめだ、話がこんがらがってる。筋道立てて理路整然と話せたらかっこいいって知ってるのに自分では思うようにできない。

 生地から離れていった刺繍糸は、込められた祈りに応えて、役目を全うしたのだろう。宝石が魔法に呼応して輝くように、人々の歴史や想いが表れた一糸もたぶん同じだけの力を持っていた。いつかは必ず死んでしまう人間は、遠くの未来まで遺したい何かを、たとえば文字や、色や形に託して刻む。本が歴史の語り部であるように、意匠もまた過去を生きた人の意思を映している。そういうものを一身に背負って、身に纏う彼の姿が脳裏に焼き付いた。

 解けて落ちた深藍の糸は、ディアナ様が集めて渡してくれた。私のものも含まれているはずだから、と言って。鉢巻の刺繍に使ったアリアドネの糸は、学院に入学する以前からずっと、気づけば棚の中に入っていたものだった。貴重なものだし、白いままでも綺麗だから、長らく間違いのない使い道が見つからずにいた。

 私が仕舞い込んでいた真白の生糸はあの一瞬で染まりきって、マントの裏地を縫っていた糸と区別がつかなくなった。そのことに、勝手な誇らしさを感じていた。

 浮世離れした魔法使いのような、暗色の長いマントは彼の当主としての正装だ。ミカグラの民の風習を考えれば。彼のお母様が手ずから文様を刻んだものかもしれない。軽々しく触れていいものではないと思いつつも、あの布地が本来の意味を取り戻す手伝いができたら、とても名誉なことだと思った。

「物好きだな、君も」

 彼は静かな目をして話を聞いていた。私の覚束ない弁舌によく口を挟まずにいられるな、と相変わらず感心してしまう。

「雪と海しかないところだけど、気に入った?」

 ペンを置き、頬杖をつき、アルくんは僅かに口元を緩めた。笑ったり、口元を隠したり、脚を組んだり、何かと彼は左側を動かす癖がある。

「はい。まだ知らないことばかりですけど」

 マナナーン半島には長居はできなかったし、リールに着くまでに見下ろした南東部の町にも行ったことがない。安全のための工事や開発調査が進んでいる鉱山の今はどうなっているのか、養蚕家や磁器工房をどうやって招致したのか、尋ねれば長い話が聞けるのだろう。深海のように静謐な色で、冷たくも心地良い温度で、語るべきことを誠実に語る。私はその声に取りつかれているのかもしれない。

「じゃあ好きなだけ居ればいい。春になれば晴れの日が続くし、夏は涼しくて過ごしやすい。他所から来た人は丘陵からの景色がいいってよく言うよ。隣の領地ほどではないけどね」

 小さな差異によって作られる表情はどこか誇らしげで、嬉しそうに見えた。彼はきっと、自分の生まれ育った場所がどこよりも好きなのだ。雪と海の美しさだけでも、幾つも知っている。美点と同じ数だけの不便も挙げられるだろうけど。

 雪が融けたあとの爽やかな風の吹く草原を想像した。魔獣の女王が去ったリールの空は灰色の雪雲が戻ってきた。長い冬が終わり、ようやく日の光が差した頃に咲く花は一等美しいのだろう。短い夏には潮と緑の香りのする清浄な空気が辺りを包み、来航した船が海面に描く白い泡沫と飛沫も太陽を反射して煌めく。

 今はまだ部屋で咲いている氷の薔薇は、その頃には融けてしまう。だけど胸に刺さった棘は、夏が近づけばむしろ抜けなくなる予感がする。

「それは、とても綺麗でしょうね」

 冬が終わるまでここに居る約束だった。彼の言葉は厚意によるもので、それを私が似て非なる感情で解釈するのは卑怯だ。

 夏まで側に居させてください、と伝えることはできた。彼が瀧国の風習を知らないとは思えない。だけどその先のことは分からないから、別の機会に話がしたいと思う。私があの刺繍を望んだ意図と、彼が「好きなだけ」と口にした意図をちゃんと解きほぐして、変に絡まらないようにしなければならない。

 私の運命の糸はもう使い果たされて、どこにも繋がっていないようにも感じている。それでも、約束を結んだ確かな過去さえあれば不都合はない。祈りは元より、祈る側からの一方的なものだ。どれだけ真摯に想いを捧げても、神様だって応えてくれるかは相性次第だ。だから私が彼を好きでいることや、幸福であってほしいと願うことに意味は無い。

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乙女ゲームの百年後 転生(?)針子令嬢と氷の年下領主様の婚約は糸と言葉で紡がれる 入江芹葉 @Sirenigma

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