4-1 領主の婚約者にできること

「考えていたんだ。女王が何処から来るのか」

 多くの人は「海から」と答えるだろう。魔獣の女王の出現は、神や魔法の存在と同じように考えるまでもない世の定めだ。いつ、どのようにして、なぜ生まれるのか、疑問にすら思わないかもしれない。

 私は、それが何を目的に地上へやってくるのかだけは知っている。魔獣の女王は全ての生き物の母として、人間を含む数多の生命体と同化するために上陸する。彼女は深海の底で育ち、生物たちの声を聞いて長い眠りから覚める。増えすぎた人類の阿鼻叫喚と人類の躍進により息絶えていく動物の悲鳴を耳にした女王は、全てを苦しみから解放すべく進撃する。自らの分身である魔獣を産み増やし、それらに道を拓かせ、他のものを食らわせる。彼女の心臓はひとえに生物への庇護感情によって躍動する。生まれてきてしまった不幸な生き物を自分の中に取り込み、守る。理不尽な胎内回帰を貪食する母性の怪物だ。怖れ、逃げ惑っていた生物たちも、飲み込まれるときには彼女に魅了されている。猛々しく戦っていた兵士でさえ、死ぬ間際には恍惚とした表情を浮かべる。

 ゲームの設定として示されていたのはそれだけで、魔獣の女王と呼ばれる存在が何百年かに一度蘇ることについては、決まりきった機構のように捉えていた。

 魔獣が魔獣の女王から産まれるように、魔獣の女王も女王から産まれるのではないか、と彼は考えた。蜂の巣の中で一匹の幼虫だけが女王蜂に成長するのと同じように。

 調べていくと、いくつかの情報が得られた。魔獣の女王の死体はいつの間にか骨だけになっているという。マナナーン半島に暮らすミカグラの民でさえも、死体が腐乱する過程を知らなかった。魔獣の死体は穢れとして忌避され、近寄る者が少ないとはいえ、狩猟を生業とする彼らが放逐された女王の側を全く通らずに生活するとは考えにくい。女王は王都の大聖堂と並ぶ巨体だ。三日三晩で肉が溶け落ちるはずもなく、魔獣の肉は普通の野生動物も食べようとしないことも知られている。土地の気温の低さも腐敗を遅れさせるはずだった。それなのに、死体は骨だけを残してすぐに消えてしまう。

 そしてもう一つ。どの物語、伝承、戦記にも、打ち取った魔獣の女王の死体をどう処理したかは書いていない。当たり前のようだが、ひとりでに消える死肉と照らし合わせると不吉だった。

 鯨の死骸は海に沈みながら多くの生物に啄ばまれて、新しい命に繋がるコロニーになる。魔獣の女王も、死後、次の女王を育む最初の栄養を提供する役目を果たすのではないか。

 そんな考察を――本人曰く「半分趣味で」――続けていると、領主となった彼に奇形の魚類の目撃情報が届いた。ミカグラの民からだ。

 もしも、これが魔獣復活の兆候だったら?

 ちょうど女王の出生について調べていただけに、そう考えずにはいられなかった。

 彼は本格的に資料の収集に乗り出した。王都に持ち出されたきりだったミカグラの民の文書にも手を伸ばし、女王の出現以前にどんなことが記録されていたのか調べた。そして、すぐに悟った。彼はすぐに準備を始めた。まずは猶予の計算だ。記録にある日付から、敵の進軍速度を推定する。マナナーンからマクリールに到達するまではどのくらいか、白薔薇城に肉薄するまでの期間は?

「アルくんは人間に可能な範囲なら、なんでもできるんですよね」

 ユリウス様曰く「変に心配性」な彼のこと、既に城の軍備は整っていた。神託によって倒されるはずの怪物を、彼は自前の戦力で迎え撃つつもりだった。

 話を聞いて、私は不思議なほど不安がなかった。「勿論。巫女や代行者にできたなら、俺にもできる」と事もなげに壮語する人をまだ見ていたかったから、迷惑にならないのならここに居たいと答えた。

「一人増えたくらいで支障はないよ。君が死ぬような状況になれば俺も死んでいるだろうから、ご実家に怒られる心配も無い」

 悪い冗談か本気かの判別が微妙だったけど、ともかく了承は貰った。彼の話し方の癖が分かってきたと思ったのは自惚れだったかもしれない。まだまだ真意を掴み損ねている。

 城は徐々に忙しなくなった。避難区域に住む人々の受け入れと迎撃の体制が同時進行で手配されていた。大まかな計画としては、まずは段階的に領民を城内に避難させる。そして、沿岸で待ち構えていた龍騎兵たちで魔獣の女王を城まで誘導する。籠城戦を仕掛けるわけだ。避難区域や誘導ルートはすでに決められていた。女王に人の居ない地域を歩かせて城まで連れてくることは相当難しそうに思えた。上手く気を引かなければ望む方向へは進んでくれないし、近づきすぎてはこちらの命が危ない。

 白薔薇城の龍騎兵団は、任務に際してしばらくの哨戒活動に入る。兵舎の前に団員一同が整列していた。軍を動かすときには、必ず主君が命令した事実を残さなければならない。簡易的な閲兵式として兵が集められた。隊列の先頭には団長が立ち、少し距離を離れて領主と向かい合っている。領主の後ろには礼拝堂の聖職者が一列に並んでいた。戦いに赴く者は、聖歌を身に浴びて神々の祝福があらんことを祈る。神話と共にある千年の歴史を持つユミルらしい伝統だ。

 アカペラの音階が止み、辺りが静寂に包まれる。ユリウス様が当主の前へ歩み出た。剣帯から鞘を外し、目に前に差し出した。

「どうぞご指示を、当主様」

 そして、すぐに突き返す。

「当主の責任に於いて、現場指揮を団長殿に一任する」

 分かり切ったようなやりとりでも、必要不可欠な会話だった。指揮権を委ねた事実を作るための儀式だ。

 ユリウス様は立ったまま無造作に剣を渡し、アルくんも最速最短で返した。剣はいつの時代も騎士の象徴だ。騎士が剣を預けるということは、忠誠を誓うことに他ならない。跪いての刀礼ではなく、不愛想に貸し借りするだけの所作がこの親子らしく思えた。

「羽目を外して死なないでよ」

「安心しろ。俺を殺せるのは我が黒橡の女王だけだ」

 鏡合わせのようにそっくりな親子は、一言交わして踵を返した。アルヴァルディの血を象徴する艶やかな濃紺の髪と曇天の下でも輝きを失わない二百カラットの双眸は、どんな言葉も信じ込ませてしまう力を持っている。

 式辞が始まると、場の雰囲気は一変した。指揮権を受けた団長様は、すぐに気負いない態度へ戻っていた。表情が窺えずとも分かる。

「さて、俺達が仰せつかったのは女王陛下のエスコートだ。退屈させないために蠅のようにしつこく付き纏え」

「女人への執拗なアプローチは団長殿の得意分野ですね」

「よーし、お前は先陣にしてやろう」

 笑い声が沸き上がり、口を挟んだ若手の団員は周囲から小突かれる。なんか、思ってたより軽いな、と考えていると横から同じような感想を漏らす声が聞こえた。「うちの騎士はどうも柄が悪い。どんな貴公子でも数年でああなってしまうのは、監督者に責任があるような気がする」当てつけのように彼はぼやいた。「皆さん、普段はとても親切なんですが……」厩舎で見かけたときはこんな感じじゃなかった。軽口を叩いたあの青年だって、私には丁寧な対応をしてくれた。確か子爵家の出身と言っていたはず。

 集団ごと切り替えがはっきりした性質なら、さすがトップの影響がないとは言い切れない。意外と、王都の騎士団も式典の裏では体育会系の部活みたいな感じなんだろうか。

「振られた男を慰める時間ほど無駄なものも無い、叩き落とされても誰も骨は拾わんからな。各々死なない程度に距離を測れ。後は訓練通り。以上」

 話は唐突に打ち切られた。しかし、隊列は動じずに剣による敬礼をする。抜刀した剣を胸の前に掲げ、鍔に口付けをし、右下へ振り下ろす。一糸乱れず同調した動作は壮観だった。

 彼らはそれぞれに龍を迎えに行った。すると、列の側面に居た狩衣の集団も動き出した。今回の任務に協力してくれるミカグラの民の武芸者たちだ。ミカグラの民は、城内に子供や高齢の方を中心に避難させて、男性は龍に乗り誘導を、女性は陣地作成や補給を支援してくれることになった。

 元々、割合としては少ないものの、龍騎兵団にはミカグラの民の団員がいた。アルヴァルディの龍騎手の集団が「騎士団」ではなく「兵団」と称される理由も、瀧国に帰属意識を持つミカグラの民に王国への忠誠を誓わせるべきではないとされたからだ。今回、各集落から大勢が辺境伯家の戦列に加わったのは、遵奉帥――主に最も大きな集落の主張が務める、彼ら民族の代表者だ――と領主の間で交わされた取り決めによる。あの決闘には、彼らの力を借り受けるに足る者であると証明する意味があったのだ。だから、アルくんは「仕事」と言っていたのだろう。

 集団から一人離れてこちらに近づいてくる女性の姿を見つけて、私も歩み寄った。彼女は長い黒髪を組紐で束ねている。乗馬服のような王国騎士風の衣装を着た彼女は、様相の異なる二つの集団の接点だった。

「ロゼッタ」

 改めて、あの三者三様の兄妹を思い浮かべると、あまり彼女には似ていないように感じる。けれど、話す言葉や視線の動かし方、細かいところを見ると彼女が母親で間違いない。

「シキナ様も、同行されるんですね」

「私は通訳のために行きます。私たちの中で、王国の言葉を使いこなせる人はまだ少ないです。隊は分けられていても、意思疎通は必要ですから」

 龍騎兵団の団員はおおむね簡単な会話をこなすことができるが、ミカグラの民はそうではない。交流が途絶えて久しく、ユミルの言葉を継承する人は少なくなった。それでも、最近は若者や夫を亡くした女性が城勤めをしながら言葉を学ぶ例が増えてきたようだ。

 これから騎手を交代しながら魔獣の女王を引き付けて長距離を移動することになるため、指示を伝達する役が必要だ。少しではあるが言葉が理解できる私も龍に乗れたら同じ仕事ができたのだけれど。

 ミカグラの民は己が民族を「私たち」と呼称する。他者が付けた名称には染まらない矜持が窺える言い方だ。私は彼女たちの言葉で「どうかお気をつけて」と言った。

「これからもっと寒くなります。城中の暖炉に沢山の薪を焚べて、暖かくして待っていてください」

 北国で生きる人の手は冷たい。白魚のような手が私の頬を包んだ。大きな瞳は私の負い目を見抜いているようだった。そのうえで柔らかに触れてくる。

 このときに、僅かながら自覚した。私は、この人たちの家族になりたいのだと思う。この人たちの目には何者にもなれないままの私が映っていて、そのうえで手を差し伸べてくれたから。

 牡丹雪の吹き流れる空を龍が編隊を組んで飛行する。空を制する美しい生き物は白や黒の流星群になって灰色の雲を引き裂いた。シキナ様はアルくんとも一言二言交わして、龍の元へ向かった。彼がそうしたのと同じように、二人が話す姿を少し離れたところで見ていた。


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