3-4 歴史と人生、物語の分水嶺

 物語の一節などでは「ユミルの北端、アルヴァルディ領は満ちゆく三日月の形をしている」と語られる。これは一種の定型表現で、魔獣との決戦の舞台を華々しく描写するための決まり文句だ。私が地図を見たときは、三日月というよりコの字型だと思った。青森県を左に九十度回転させた形にも似ている。そのまま青森県で例えると、西側の津軽半島が白薔薇城とリールの街があるマクリール半島で、東側の下北半島がマナナーン半島だ。

 マナナーン半島に王国の民はほとんどいない。ディアナ様が普段住まわれている、迎賓館を改装した屋敷と、その近くにある農業試験場や屯所に通う人々だけがその土地を知っている。他の人口はミカグラの民で占められており、実質的にマナナーン半島は彼らの領土なのだという。

 上空から見下ろしたかぎりでも、土地は雪を被った木々で埋め尽くされているようだった。どこを見ても文明の気配を感じさせない。しかし、彼らは現在の瀧国の群島部の人々と同じくらい近代的な生活様式を有している。

 大半のユミル人による「狩猟と採集の生活を送る秘教的な民族」というイメージは大分前時代的なもので、彼らの集落では農業や交易も営まれている。ユミルではほとんど行われていないニヴルヘイムとの交易が存続していることは、私も調べてみるまで知らなかった。アルヴァルディ領を含む北方の土地の名前がユミルらしくない語感――ロゼリジュの登場人物の名前はドイツ系やフランス系が多い、と言われていた――なのは、元々はニヴルヘイムの人々が使っていた呼び名だったかららしい。ユミルとミカグラの民の交流が盛んだった時代、製紙技術の発展が瀧国より遅れていた王国は、ミカグラの民が生産した和紙を多く使用していた。そのため、ユミルで使われていたマナナーン半島周辺の地図はミカグラの民の制作物を複製したものだ。そうして、ミカグラの民とニヴルヘイムの継続的な関係によって、地図に載ったニヴルヘイムの言葉がユミルでも定着した。向こうの言葉にこの辺りの地名があるということは、ニヴルヘイムの人々はかつて現在のユミル領土にまで生活圏を広げていたのかもしれない。アルくんは「資料さえ残っていればこの辺りも究明できそうなんだけどね」とやや残念そうに口にしていた。

「寒くない?」

 指を差し向けられた方向に目を凝らすと建物が点々と見えてきた頃に、彼がぽつりと口を開いた。「大丈夫です」と返すと「そう。俺は寒い」と言った。彼は寒がりだ。王都育ちの私以上に。城の中でも上着を脱いでいるところを見たことがない。

「室内に入ったら緑色のお茶を出してくれると思うけど、紅茶より苦いから気を付けた方がいい」

 ミカグラの民は煎茶や抹茶を常飲しているのだろうか。ちょっと楽しみだ。でも、かなりの頻度で本を読みながらケーキを食べているような、甘党の彼には合わないのかもしれない。お茶菓子は大抵、かなり甘みが強いから好きそうだけど。

 私たちは二人だけでミカグラの民の集落へ向かっていた。マナナーン半島に大小合わせて三十以上ある集落のうち、最も人口の多い場所だ。シキナ様の生まれ故郷でもある。護衛に騎士をつけなかった理由は、大勢で行くと歓待を受けてしまうからだそうだ。彼らは客人を丁重にもてなすため、これからさらに雪深くなる時季に蓄えを消費させるのは申し訳ない、という理由だった。

 雪が頬を濡らし、龍が大きな翼を広げて高翔する。背後から聞こえる声は淡々として感情の波を窺わせない。私が初めて城に来たときと同じ状況だ。けれど、恐怖や不安は想像以上に湧いてこなかった。

 茅葺屋根の武家屋敷や合掌造りの住宅が建ち並ぶ光景は、瀧国の寒冷地を想像させた。急勾配の屋根から落ちた雪を、家の脇に通る融雪水路に流している人の姿が見える。私たちを乗せた龍は目を引く朱色の鳥居を目指して降下した。

 石畳の階段の上に建つ鳥居の正面には、土俵のような縄で作られた円状の囲いが設置されていた。その奥には柱より太いしめ縄が掲げられた神楽殿がある。吹きさらしの舞台の上に、男性が立っていた。

「来たか」

 袴姿の男性は清掃の途中だったのか、手にしていた布巾を盥に落として低い声を発した。黒い羽織は肩下の高さで羽織紐に留められ、袖を通さずに身に纏っている。裏地の裾に波紋を描く周防色の刺繍糸が見えた。携えた刀の柄には鉢巻が巻き付けられ、鍔に空いた笄を通すための穴にも数枚の布が結び付けられている。

「約束通り、婚約者を連れてきた。貴方がたには馴染みのない概念かもしれないが」

「承知している。ユミルの人間が必ずしも家族を必要としないことも、貴方が私達に配慮していることも」

 二人はそれぞれに対して相手が普段使う言語を操っていた。それを見て、この人が集落の首長かそれに近しい人物だと分かった。

「私は当代の遵奉帥、姓は湊源、名が真仁、字を詩野と申す者。宇万良の国の姫君に於かれましては、ご足労いただき恐悦至極に存じます。一族を代表してお礼申し上げる」

 男性は草履を履いて階段を降り、私の前に現れた。浅黒い肌の精悍な顔つきは若々しく見える。ミカグラの民は三年毎に決闘で首長を決めるそうだから、首長になるのは二、三十代の青年が多いのかもしれない。

 私に向けられた口上はミカグラの民の言葉で述べられた。姓はソウゲン、名がマサヒト、字をシノ、と辛うじて聞き取れた。瀧国の神職者や貴族階級の人々は公の場で名乗る字を自身で決める。ミカグラの民は神職者を祖先に持つため、皆が字を持っている。そして、彼らの場合は片方の親を失ったときに姓を、両方の親を失ったときに名を葬る。親から受け取った姓名を共に葬ることで哀悼の意を表し、姓名に込められた祈りを親に元に返す意味があるという。特に名は重要視されており、彼のように外交に携わる者を除くと、両親の他には配偶者くらいにしか明かすことがないらしい。

「アルヴァルディ候アルブレヒトの婚約者、ロゼッタ・フォン・フォイエルバッハと申します。お出迎えいただきありがたく存じます。皆様にお会いする機会をいただけて大変光栄です」

 挨拶を返して頭を下げる。練習してきた挨拶はとりあえず通じたようで、続けて声がかかる。

「屋敷にて家の者が待っている。ぜひ、歓待をさせていただきたい。少しの間領主を借りるが、よろしいか?」

 今度は王国語に戻っていた。先ほどの名乗りは、私がどの程度ミカグラの民の言葉を理解しているか測るためだったのだろうか。

 領主を借りる、と言われて咄嗟に彼を見た。すると「ちょっと仕事の話」と、アルくんも目線だけを差し向けて口を動かした。であれば、私に拒否する理由はない。そう答えると、シノ様は社務所へ案内役を呼びに行った。

 彼の帰りを待つあいだに、アルくんはアトイの鞍に括りつけた連弩を回収していた。連射式のクロスボウのようなもの、らしい。縦に細長い箱型から短い矢が飛び出す奇妙な造りをしている。彼が武器を携帯する姿を見るのは今日が初めてだ。剣や弓ではなく、メカニカルな兵器の印象が強いクロスボウを選ぶのが「らしい」な、と思った。濃紺のマントと黒い龍も合わさって、ゲームだったら敵キャラ寄りの風貌に見える。

「こいつ、一緒に連れていってくれる? 首長の家に向かう途中に厩舎があると思うから」

 アトイは荷物を降ろされると、風よけになる建物の影ににじり寄っていた。雪を避けるためだろうか。

「分かりました。すみません、でも私、一人で手綱を握ったことはないんです」

「多分、龍の扱いに慣れている人を連れてくるよ。君が握っても案外大丈夫そうだけど」

 大丈夫かな。……いや、案外、大丈夫なのかも。龍が本気で暴れたら、どんな人が手綱を取っても制御できないのだし。アトイはこの通りおっとりした龍だから、下手に刺激しない人であれば誰でもいいのかもしれない。

「君、寒いからって一人で帰るなよ」と領主様は龍に話しかけた。火龍の血を引くアトイは、雪をあまり歓迎していないように見える。身体を丸めて小さくなった黒龍の鱗は冷たく湿っていた。そういえば龍の平熱はどのくらいなんだろう。知識と魔力操作の技術があれば、適温に温められるのに、私はどちらも持ち合わせていない。気休めに擦り合わせた手を当ててみる。早く屋根のある場所に行こうね、と声をかけると尻尾の先がぱた、と動いた。

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