1-4 龍は風花を連れて舞い降りた

 私が前世の記憶を思い出したのは、学院内の聖堂に足を踏み入れたときだった。建物の扉を開くと、まずはホールが広がっていて、そこには宗教画や女神の像などの美術品が飾られていた。私は厳かな空間の片隅に、そっと佇んでいる木彫りの像に目を引かれて近づいた。その像に模られた人物は聖ロイス、国教ラート教の聖人で「薄紅の女王」に付き従い魔獣の女王を下した代行者の一人だ。

 その像の聖ロイスは、学院に通っていた頃の姿を遺したもののようだった。ゲームで描かれていた十五歳の少年としての彼が、そこに居た。

 水の代行者ロイスは私が好きだった乙女ゲーム「ローゼン・オブリージュ」の攻略対象だ。ローゼン・オブリージュ、通称ロゼリジュは主人公が一国の女王となって魔獣と戦い、世界を救う王道のファンタジー作品。戦略シミュレーションゲームとしてのクオリティの高さと、膨大なテキスト量に裏付けされた綿密な世界観と人物設定で人気を博した。また、乙女ゲームでありながら、主人公のカレン女王がプレイヤーから圧倒的な支持を集めていたことも特徴だ。一応、恋愛シミュレーションゲームとして発売された作品なので、プレイヤーの好みによって主人公の名前は変更できるけれど、カレン女王は一人のキャラクターとして人気と個性を確立していたように思う。ファンの間で彼女が単に「主人公」と呼ばれることは稀だった。

 カレン女王はユミル神聖王国の王女として生まれて間もない頃に、国王夫妻共々魔獣の襲撃に遭い、宮廷魔術師の手によって異世界へ逃がされ、そこで十五年間育てられた。異世界というのはプレイヤーにとっての現実世界、現代の日本だ。十五の誕生日、日本で八辻花蓮(ルビ=やつじかれん)として平和に暮らしていた彼女は、育ての親であり攻略対象の一人でもある宮廷魔術師に自身の出生の真実を明かされる。高貴なる者の義務を心に刻んだ気高い少女である彼女は、故郷を守るために魔獣を打ち滅ぼす決意を固める。そうして次期女王として国に舞い戻り、女神に選ばれた「薔薇の巫女」として戦いに身を投じる――というプロローグで物語が始まる。

 薔薇の巫女は女神ロザリーの配下である七柱の神に選ばれた「代行者」たち、要するに攻略対象たちと出会い絆を深めながら進軍し、最後には北端の岬で魔獣の女王と対峙する。魔獣の女王は魔獣を産み増やすことのできる唯一の存在だ。それを打倒できればハッピーエンドに到達することができる。

 カレン女王は、美しく、優しく、軍神のような知略と勇敢さを兼ね備えた素晴らしい女王だった。私の記憶と教科書に載せられた記述に食い違う点は全くない。彼女は、「女王エンド」と呼ばれる、誰とも恋愛関係にはならずに、国の統治者として君臨する道を選んだようだった。

 そう。彼女はすでに亡くなっている、歴史上の人物だ。私が記憶を取り戻したとき、カレン女王が若くして御隠れになった年から百年近くが経過していた。他のキャラクターたちもこの世には居ない。私は産まれたときから推しを一目見ることすら叶わないと決まっていた。

 この世界は、あのゲームで見た場所だ。記憶が蘇ったとき、はっきりそう思ったし、ロゼリジュに関することならよく思い出せた。現代日本で生きる人間ならおそらくは誰しもが持つ程度の一般常識も身についていた。でも、前世の私自身がどんな人間だったのかはほとんど思い出せない。おそらく女性だったのだろう。乙女ゲームをプレイしていたわけだし、今の女性としての身体に違和感はない。そして、たぶん、まだ学生だった。ゲーム内に登場する服飾の制作再現や、ファンイベントの参加にかなり時間を使っていたはずだから、社会人にはそこまで休みの融通が利かないだろうと推測している。

 私は、前世の私が何者だったのかが分からない。ゲームの知識というのも突然思いついた妄想で、頭がおかしくなってしまっただけなのかもしれない。だけど、私はこの世界の人間ではないという感覚はしっかりと根付いていて、思い出した瞬間から、十五歳の王国貴族ロゼッタ・フォン・フォイエルバッハには戻れなくなった。ロゼッタの人生と異世界の誰かの記憶が、十分に混ざり切らないままにできあがった人格が今の私だ。

 ロゼリジュの記憶は物語が終わった後の時代では何の役にも立たない。他に特別な知識や技術を引き継いだわけでもなく、一王国貴族としても特別優れた才能は持っていない。私はこの世界でどう生きればよいのか定められないまま、図書館や教会でキャラクターたちの足跡を辿りながら過ごした。それ以外は、部屋に引きこもって針仕事に没頭した。裁縫はロゼリジュのコスプレ衣装やモチーフ雑貨を作っていた前世の私と、令嬢として針仕事を嗜んでいたロゼッタの唯一の接点だ。分離したままの二つの人生を刺繍糸は一時的に繋ぎ合わせてくれた。

 時折、自分のアイデンティティの不確かさにどうしようもない不安を覚えて、私がロゼッタ・フォン・フォイエルバッハを名乗ることで周囲を欺いているような気もした。フォイエルバッハの家の人々が家族として見ているのはロゼッタであって、私ではないはずだ。できることなら以前のロゼッタを返してあげたい。私も、自分に前世があることに気づいてからは、彼らを家族として心から受け入れるのは難しくなってしまって、会話はぎこちなくなった。学院の入学時からずっと、私は人との交流を避けて生きてきた。二十歳になるまでに、印象的な出会いによって前世の記憶がはっきりと蘇るようなドラマチックな展開は起こらなかった。

 今では記憶を取り戻せる期待もしていない。むしろ、突然思い出してしまうことに恐怖を感じている。前世の自分がどうしようもない悪人だったとしたら、それを受け入れて生きていかなくてはならなくなる。自分が何者か分からないままでいるのも、何者か分かってしまうのも、どちらの生き方にも積極的な気持ちにはなれなかった。


 私がそんなことを話すあいだ、アルヴァルディ候はとても静かだった。音だけでなく、眼差しや仕草までも。全くといっていいほど口を挟まず、不安になって私が途中で口籠ったり視線を泳がせたりしたときだけ、短い相槌や「どうぞ、続けて」と促す声が返ってきた。目的もなく話し始めたものだから、どこまで、そしてどうやって口にしていいか分からず、余計なことまで言ってしまったような気がする。

 いや、彼にとっては、全部が余計なことか。私の身の上なんて私自身すら受け止めきれていないのに。他人に伝えてどうしようというのだろう。無関係の相手を困らせるだけだ。

 思いつく限りの言葉を出し尽くして、どうしようと沈黙していると、アルヴァルディ候はおもむろに席を立った。書斎机の方に向かい、引き出しから何かを取り出した。

「これ、何に見える?」

 手に掲げられたものは、どこからどう見ても本だった。ものすごく豪華な装丁だ。宝石で飾られ、金銀の組紐文の組み合わせで龍の彫刻が刻まれている。

「本、ですよね」

「その通り。だけど中身はこう」

 彼はこちらに戻ってきて、ザっとページをめくって見せた。綴じられた紙は最初から最後まで、白紙だった。

「え……どうしてでしょう。こんなに立派な装丁なのに」

「これはうちに古くからあったものでね。ダグダの鉱山でラピスラズリが採れていたのは四百五十年前くらいまでだし、紙の状態と照らし合わせても五百年から六百年前に作られたと見ていい。用途は聖書の写本だろう。今も昔もこれほど手の込んだ本は聖書だけだから」

 立て板に水を流すように彼は話し始めた。重い色合いのマントを脱いだせいもあって、なんだか、学者か博物館の学芸員みたいに見えてくる。

「修繕前は、宝石を埋める穴が幾つか空いていたんだ。抜き取られた痕や傷は無かった。だから制作途中で製本したんじゃないかと思っている。仮に五百年前だったら第三次侵攻の時期にも一致する。辺境伯家は魔獣の対処で忙しく、他の事業に構っている暇が無くなって、とりあえず組み立てた。そうして外見だけ立派な白紙の本が完成した、って説。真相はまだ解き明かされていないけどね」

 第三次侵攻、というのは、この白薔薇城を築いた女王であり、カレン女王の先代に当たる薔薇の巫女が率いた魔獣との戦いのことだ。この世界では何度も魔獣の女王が誕生しており、その度に女神ロザリーは自らが選んだ巫女に力を授けて大陸を守ってきた。そして、ユミル神聖王国は最初の巫女が共に戦った七柱の神の代行者たちと興した国だ。そのときの代行者たちは七貴族として国を支えてきたが、現在まで残っているのは三つの家のみだ。そのうちの一つが、氷の代行者の血統アルヴァルディであり、一族は千年以上に亘って王国を守護している。

 第三次侵攻については、ゲーム内でも断片的に描写されていた。当時もアルヴァルディ家の人間が氷の神によって選ばれ、女王の下で力を振るったらしい。辺境伯家が治めるこの土地は魔獣の女王にとって快適な環境のようで、海から現れた女王は、必ず三日月の先端に上陸し、子供たちである魔獣を地上に放つという。女王の出現によって魔獣が増え始めたとあれば、辺境伯家は対応に追われたことだろう。

 彼はさらりと推理を述べた。歴史を知っていれば話の意味は理解できる。でも、自力で仮説を立てるまでには相当の知識量が要求されたはずだ。

「中身を書く前に製本したなんて、なんだかもったいないですね。でもすごく綺麗ですし、あまり見かけない感じの装丁で、美術館に飾られていそうです」

 この本には豪華なだけではない、エキゾチックで魔術的な魅力がある。ラピスラズリと氷の神の象徴物である水晶の配置はシンメトリーで規則的な美しさがある一方、複雑に絡み合った渦巻、波線、組紐の文様には王国には無い美的センスを感じる。

「うん、美術史的に貴重な資料であることは間違いない。これは本としての機能は果たしていないし、手帳として使うには重すぎる。正真正銘、役には立たないものだが、価値あるものだとは誰もが思うだろう。数百年後の人間もきっと。だから、そのうち後世に遺しておきたい事柄があればここに書いておこうと思っている。この本はそうそう捨てられないだろうからね」

 彼の言葉はどこか誇らしげに聞こえた。この歴史を語り継ぎ、遺産を後世に遺すことに前向きな使命感を抱いているようでさえあった。

 私も、つられてなんとなく嬉しくなった。こういうものを大事にする人の目から見える世界はきっと面白いだろうな、と思う。私は衣服に用いられる装飾や生地の種類なら多少知っている。初めは漠然と素敵だと思っていたものに名前がつくと、町を歩くのが楽しくなる。行き交う人々の服装を眺めているだけで、遠い土地の文化や見ず知らずの他人の人生にまで想像が及ぶようになっていく。知識は自分が実際に居るところよりもずっと離れた時空を覗かせてくれる、望遠鏡のようなものだ。

「君がどうしてその話をしたのか考えていたんだ。結論、恐らく、俺と君の間での公平性の観点から打ち明けたのではないかと推察した」

 思考が飛びかけていた。そうだ、私は訳の分からないことを話してしまったばかりだ。

 アルヴァルディ候は持っていた本をテーブルに置き、両手を膝の上で組んだ。凛と背筋を伸ばしたまま、まっすぐにこちらを見据える。

「一つ目の理由は、君がロゼッタ・フォン・フォイエルバッハを名乗りこちらとの協力関係に同意することが身分を騙ることと同義になると考えたため。二つ目の理由は、君はこちらが提示した条件に対し、相応の利益を差し出さなければならないと考えているため。君は自分に役に立てることが無いと言っていた。それは、前世の記憶を用いれば何らかのメリットを提示できるかもしれないが、記憶が不確かなためにそれが不可能であることへの自己批判ではないかと想像した」

 淡々と、ごく理性的に声は告げる。食事を口に運びながら話を聞いていた彼を見て、早く終わってほしいと思っているんじゃないかと不安になっていた。でも、「役に立たない」という一言すら聞き流されていなかった。

「だが、うちではこういったものを重宝している。役に立つかどうかはこの契約において重要な指標ではないと伝えておく」

 視線を落とし、手を解いて、彼は本の表紙を撫でた。「正真正銘役には立たないもの」と称した欠陥品の価値を彼は認めている。

 私はこの本のように美しくはない。それでも、そういうことじゃなくて、人の役に立つことだけが存在価値じゃないってことを暗に伝えようとしてくれている気がした。その語り口の長さだけ、丁寧に本当の意味を届けようとする誠実さが表れているように感じた。

 なんか、嫌だな、子供じゃないのに泣きそうだ。いい加減割り切らなきゃって思ってたのに。ちゃんと令嬢らしくして、誰かと結婚して、ちょっとでも家族の役に立たないと生きている意味が無い。私は貴族として国民に支えられて苦役を知らずに生きていて、フォイエルバッハ夫妻はロゼッタを一人前の貴族女性にするために育ててきたはずだから。私はそれを裏切っちゃいけない。

 でも、私はロゼッタじゃない。半分は何も分からない異世界の人間で、望んで前世の記憶を思い出したわけでもない。私が曖昧な私のままでいてはいけないってことは分かっているけれど、もう、ロゼッタにも、前世の私にも戻れない。

「第一、人間の価値を利便性や生産性で規定するのは無粋じゃないか。君の好きな聖ロイスだって金の為に人助けしたわけじゃないだろ。貴族なら生活の役に立ちそうもないことに金を突っ込んでこそだと俺は思うね」

 彼は私が黙りこくってしまったのを見て少し焦ったのか、やや早口で続けた。私は「ありがとうございます」とだけやっと声を絞り出した。嬉しいはずなのに、その気持ちを上手く言い表す言葉が咄嗟に見つからなくて。

「それで、暫く此処に居るってことでいい?」

「はい。よろしくお願いします」

「そう。……女の人と話すのは得意じゃないから、不快な思いをしたときは教えて」

 彼は立ち上がって、執務机の上から紙と羽ペン、インク瓶を持ってきた。やっぱり心配してくれたのだろうか。

「女の人と話すのは得意じゃない」のは本当かもしれない。社交を仕事と捉える普通の貴族女性からしてみたら、彼の態度は会話を拒絶していると勘違いされかねないと思う。実際は、出会ったばかりの他人の要領を得ない話を、遮らずに聞き届けられる人は相当稀なはずだ。

「いいえ、すみません、嬉しかったんです。こんなこと言わなきゃよかったって後悔したけど、初めて私のことを誰かに認めてもらえた気がして」

「まあ、俺には関係無いからね。便宜上ロゼッタと呼ぶけど、前世の記憶があろうと壮大な妄想癖だろうと、まともに契約が結べる相手ならそれで」

 私の話を信じたわけではないらしい。そうだろう。こんな話、何の理由もなく信じる方が不自然だし、信じてほしいとは思っていない。正直な物言いにむしろ安心できる。

 アルヴァルディ候は魔法で自身の指先に小さな切り傷を作り、滲み出た血液をインク瓶の中に落とした。切り傷は一瞬青白い光に包まれて、元通りに塞がる。彼は羽ペンに公用インクをつけて文字を記した。

 公用インクは、顔料の代わりに魔道石という魔力を帯びる性質のある鉱物を砕いて作ったインクだ。血液中の魔力に反応して色が変わり、紙に載せて乾いてしまってからも光の魔法で魔力を検知できる。公的文書の署名や、重要な契約のときにはこのインクを用いるため、本人が記したことに間違いがないか確かめられる。本人確認が必要になれば、その文書を記したとされる人物が法務局に出頭し、鑑定士立ち合いのもとで書いた文字と紙面の文字を照合する。現代でいうところの血痕鑑定みたいなものだ。

 紙面には「私、アルヴァルディ家当主アルブレヒト・フォン・アルヴァルディはフォイエルバッハ伯爵家令嬢ロゼッタ・フォン・フォイエルバッハに対し、婚約関係の継続中に当家領内に滞在する期間において、身体的安全と文化的生活を保障します」と簡潔な誓約文が綴られている。そこに日付と署名が加えられる前に、彼に呼びかけた。

「あの、もし私にも婚約者としてできることがあれば、やらせていただけませんか」

 私が一方的に守られる約束だけをしてもらえるのは不公平だと思った。かといって、彼に対してできることはあまりなさそうだし、期待もされていないだろうけど、もしも誓えることがあるなら些細な約束でも示したい。

 アルヴァルディ候はペンを止め、左下に視線を移しながら答えた。

「ミカグラの民に会ってほしい。向こうでは首長が三、四人の妻を娶るのが当たり前だから、領主に配偶者が居ないのを不安視する声もある。向こうも自分達の文化を押し付ける気は無いだろうけど、一応、婚約者として顔だけ見せてくれたら安心するだろうし、俺としても助かる」

 ミカグラの民――龍神の恩寵を大陸に知らしめるために、東の果てから渡ってきた瀧国の神職の末裔。巫女神楽を奉納しながら布教して回ったことからミカグラの民、と呼ばれるようになった。ゲームでは薔薇の巫女を推戴する役目を持つ瀧国の姫、星宿の巫女に従う一族として登場した。多くが水の魔法の優れた使い手で、王国ではほとんど乗り手のいない龍を駆り、死を恐れずに戦う人々だと描写されていた。

 千年前からこの地に住まう彼らとの関係は、領主たるアルヴァルディ候にとって重要なものだろう。ミカグラの民がユミルの北端、三日月形の辺境伯領の上側の半島に集落を作った経緯はあまり知られていない。実は、初代の氷の代行者と星宿の巫女が結婚して、星宿の巫女を守護していた神職も姫と共に定住したのだという。二人は海の向こうの小大陸ニヴルヘイムからの侵攻状況を見張りつつ、魔獣によって荒らされた土地を立て直すためにその地を治めた。それが辺境伯家の始まりと歴史書にも載っている。しかし、今の王国では彼らに良い印象を抱く人はなぜか少ない。

 長い年月で生まれてしまった、王国とミカグラの民との隔たりが、アルヴァルディ候や彼の家族に何らかの苦労を与えたことは想像に難くない。彼が王都の貴族に誤解されているのだって、その生まれが無関係だとは言い切れない。

「承知しました。閣下の婚約者として恥じない振る舞いを努めます」

 王国貴族として生きる彼とミカグラの民との関係のために、少しでも力になれたら嬉しい。期間限定の関係だけど、この城に居るあいだは領主様の婚約者として認めてもらえるように頑張ろう。

 新しいペン、インクにナイフを借り、魔法でナイフを浄化して薬指の爪の下に刃先を当てた。私は指先に狙いすまして薄い傷を作れるほどの精密な魔力操作に自信がないのでナイフを使う。皮膚が薄いため簡単に出血することに加えて、古くから「薬指に走る血管は心臓と直結している」と考えられていたことから、公用インクの使用時にはここを切るならわしだ。小瓶の中に血液が落ちると、波紋の広がりに伴って瞬く間に黒々とした液体がセピア色に変色した。

 治癒魔法で傷口を塞いで、ペン先にインクをつける。文面に迷いながら「私、フォイエルバッハ伯爵家令嬢ロゼッタ・フォン・フォイエルバッハは、婚約関係の継続中にアルヴァルディ領内の人々に対して、婚約者としての務めを果たします」と記した。学院の入学書類の署名以外で公用インクを使ったのは初めてだ。こういった法的拘束力のある文章を書くのにも慣れていなくて、見様見真似でやったのが筆跡から見透かされそうだ。

 公用インクを使った羽ペンの先は、第三者の悪用防止のためすぐに拭き取るか水の魔法で浄化する。血液を垂らしたインクは一度使った後は金庫などに保管するか、処分するのが一般的だけど、アルヴァルディ候は血液をインクから分離させて表面に浮き上がらせて、紙に吸わせて回収していた。瓶の中身は真っ黒で、元通りになっている。その姿を目にして、彼が相当巧みな魔法の使い手であると分かった。私が使ったインクも血液だけ取り除いてもらった。貴族にとっても安い代物ではないので、実は捨ててしまうのがもったいないと思っていた。

「じゃあ、何かあったらこれを法務局に突き付けるといい」

 それぞれに誓約文を記した紙を交換する。私の手には真夜中の海のような色で綴られた滑らかな文字が渡った。

「法廷ではお会いしたくないですね」

「俺もだ。お互い保険で済むといいな」

 今度は脅しや皮肉じゃないって分かる。彼は僅かに声を和らげた。

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