2-4 氷の一族の流文流説
彼は本を閉じて顔を上げた。窓の外を覗くと、前方に石造りの建物が見える。大きな煙突が二本突き出ていて、壁にはロングスピアや長剣が無造作に立てかけられていた。ドア付近に焦げたような跡のある木板や歪んだ鉄板なども転がっているように見える。港から離れてここまで山道を進んでくると、辺りには他に建物が見えなくなっていた。距離としてはそう遠くなかったのに、ほとんど獣道のような、ぎりぎり窓が木の枝に触れないくらいの道幅を通っていったので、人足の多い港から一気に静かな森林へ景色が変わった。
馬車を降りて近づいてみると、建物は一層ひっそりとして見えた。背面の壁を覆う蔦が置き捨てられた廃屋を連想させる。アルくんは、煤か何かで黒ずんだ木製のドアの取手を躊躇なく引いて中へ入っていった。丁番の辺りから鳴る軋む音を聞きながら、彼の後に続いた。
ドアを超すとまずは正面のカウンターが目に入った。大理石のように磨かれた石のカウンターから、毛むくじゃらの男性の頭だけが飛び出している。肌は赤褐色で鼻がずんぐりと大きく、白い頭髪と豊かな髭が頬の上あたりで一体化している。まるで絵本に出てくるサンタさんみたいだ。けれど目つきは鋭い。
「おう、ユリウスんとこのボンか!」
彼は私たちの姿を見るなり威勢よく声を張り上げて椅子から飛び降りた。カウンターの脇から現れた姿は、背丈が私の胸くらいまでしかない。顔つきは初老の男性、体格は全体的にがっしりとしている。子供ではない。間違いなく、ドワーフだ。
アルくんは「どうも」と軽く会釈をした。山里に居を構えるというドワーフがどうして港の側に居るのか、考えたらすぐに思い当たった。ユリウス様が火龍を連れてくるきっかけになったという鍛冶師が彼なのだろうか。
「こっちの嬢ちゃんは噂の婚約者だな。指輪を見繕いに来たんじゃろ。どれ、すぐに測っちゃる」
彼はずんずんとこちらへ歩み寄ってきた。焦りながら「はじめまして、私、ロゼッタ・フォン・フォイエルバッハと申します――」と挨拶をするあいだに左手を掴まれた。親指と人差し指で作った輪で薬指を挟み、何度か往復させると「おお、おお、指のほっそい嬢ちゃんだのう! 領主んとこはみんなそうだ」と言いながら納得したようにふんふんと頷く。
「おうい、リン! 指輪の製図を持ってきてくれ! シュタインはボンの相手せえ!」
事が済んだのか私の手をパッと離すと、踵を返して叫びながら奥の扉へ消えていった。台風に巻き込まれたかのような一瞬の出来事だった。
「婚約指輪、そういうのがあったか。忘れてた」
二人で取り残されて、にわかに静かになったところでアルくんが呟いた。ここは装飾品や武具を扱う工房なのだろう。外観とは裏腹に、内装は秩序立ったディスプレイとロマンティックな装飾で整えられている。カウンターの裏の壁には剣や盾だけでなく見たことのない形状の武器が所狭しと吊るされ、それらを照らす橙色の光はうす紫の菫の花と若緑色の葉が描かれたランプシェードから降りる。来客用なのか、扉の近くにある小さめのテーブルとチェアは艶やかなマホガニー材だ。透かし彫りで繊細なレースや蔦の模様が施されている。
「止めなくていいんですか? あの、このままだと話が進んでしまいそうですけど」
「ただの観光案内のつもりだったけど、ついでに見てもらおうかな。持ってないと不自然だし」
アルくんに声をかけると、彼は椅子の背を引きながら特段困ってもいなさそうに答えた。なりゆきに身を任せるつもりのようだ。
乙女ゲームの世界らしく、ユミルでは婚約の際に男性から女性へ指輪を贈る文化がある。とはいえ、貴族間でそれが行われるのは学院の卒業後、結婚が確定した者同士であるのが一般的だ。王立聖ソフィア学院は国内で初めて建てられた教育機関で、創設者である聖ソフィアの唱える協働の精神に基づき、王国の未来を担う貴族たちに門が開かれている。早い話が、十五歳のヒロインであるカレン女王が通うことになる、ロゼリジュにおける高校だ。生徒は主に十五歳から十八歳の男女だけど、入学試験を通過できれば年齢の下限なく入学できる。アルくんは去年卒業したらしいから、順調に進級したとして、通常よりも二年早く入学したのだろう。
彼は学院の二、三年生と同じ年齢だ。まだ婚約者に指輪を贈るべき時期ではない。もちろん、年齢に関係なく彼が立派な領主様で、この街の人々に慕われていることも、この一日でよく分かった。でも、仮初めの婚約者にそこまでの義理を果たす必要はないはずだ。
そういうことを上手く伝える言い方を考えているうちに、奥の扉から人が現れた。編み込んだ髪に白いバンダナを巻いたドワーフの女性と、厚いグローブをしたユミル人らしき男性の二人だ。
男性は慌てた様子で黒ずんだグローブを脱ぎ、エプロンのポケットに突っ込みながらアルくんへ駆け寄った。「お世話になります、領主様。すみません、何か、こう、早とちりでしたらお義父さんには伝えておきますので」と慌ただしく声をかける。彼がドワーフの男性が呼んでいた「シュタイン」さんだろうか。よく見ると作業用の皮のエプロンの上に綺麗な布のエプロンを二重に着ていた。「いや、ついでに見てもらおうと思って。立て込んでいたら出直すよ」なんて二人が話していると、ドワーフの女性は椅子をカウンターの裏から持ってきて、私の前に置いた。
「すいませんねえ。お父さん、舞い上がってしもて。領主様のご依頼なら、一級品の素材でものが作れるって」
「いいえ、こちらこそ、突然お訪ねしたのにありがとうございます」
彼女は羊皮紙や厚紙の束をこちらへ差し出した。それを受け取ってから、改めて挨拶をする。
「私、ロゼッタ・フォン・フォイエルバッハと申します。アルブレヒト様の婚約者として、先月末にリールへ参りました。どうぞよろしくお願いいたします」
領主様が婚約したことはリールの人々にも知れ渡っているようだった。そして彼の隣にいる私が当人であることもすぐに気づかれた。アルヴァルディの婚約者として人と関わるときは、とても緊張する。辺境伯家の格を下げないよう、謙りすぎてもいけないし、丁寧さを欠いてもいけない。
「まあ、まあ、どうもありがとうございます。領主さまの奥方さまになる人が、こんな辺鄙な家まで来てくださって。どうぞ、座ってください。お茶を持ってきますねえ」
おそらく「リン」と呼ばれていた彼女は、「シュタイン」さんとは対照的にゆったりした声と仕草で話した。カウンターチェアは背が高く、子供の身長ほどのドワーフの彼女らが座ると、他の椅子に座った大人と目線が揃うようになっていた。
私はアルくんが座った隣の椅子に腰かけて、受け取った紙の束に目を落とした。鉛筆で描かれた指輪のデザイン画は、何年も前のものも含まれているようだと察せられた。クラシックな印象のストレートアームにダイアモンドをメインストーンにしたデザインから、脇石や彫り止めで光を散らした技巧的なデザインまで、流し見たかぎりでもバリエーションは豊富そうだ。
ドワーフの女性は林檎の蜜のような色と香りをしたハーブティーを持ってきてくれた。たぶん、カモミールと蜂蜜か何か、甘い香りを強めるものがブレンドされている。彼女は赤褐色の頬にえくぼを浮かべてのんびりと唇を動かした。
「それはただの見本ですから、お好きなように注文なさってくださいねえ。長く残るものほど、使う人のいいようにするのが、一番いいんです」
斜め向かいから「えっ」と声が漏れるのが聞こえた。思わず目を向けると、アルくんと話していた男性がちら、と目線を隣にやって、そそくさと戻した。
彼はドワーフの男性を「おとうさん」と呼んでいた。つまり義理の親子の関係で、娘さんらしきおっとりした女性とは夫婦なのかもしれない。
「そうそう、男が贈るしきたりだからって全部男が決める必要はないんだし。好きにしなよ」
アルくんは「手出しはしない」と示すように軽く両手を上げた。
「よくあるパターンとしては、自分を連想される色を使ったりするけど……あれ、重くない?」
「それが似合う間柄もあると思いますが、ちょっと分かります」
何を言わんとしているのかは分かる。彼は身内を槍玉に上げているのだ。
シキナ様の指を彩っていた指輪は、それは鮮やかなペリドットだった。脇石は定番のダイアモンドではなく、目にしたことのない深い深い青の宝石。ラピスラズリか、アズライトか、タンザナイトか、どの宝石かは正確には判別がつかなかったけれど、あれだけ純粋な青の、夜のように濃い色味を持つ石が相当貴重であることは一目にして理解できた。
ユミルの貴族社会は服装の制約が少ない。横に大きく裾を広げたクリノリンドレスとギリシャ彫刻のようにしなやかなエンパイアドレスが夜会の広間で交差しても、どちらかの服装をおかしいと指摘する者はいない。流行の型や色、素材などはあっても、必ずしもそれに従う必要はなく、個人の好みと各地域の文化に合わせて衣装を選べる。服飾が好きな私としては様々な衣服が見られて楽しいのでありがたい国風だ。
しかし、階級社会では往々にして服装によって身分が区別される。日本では飛鳥時代から官位によって身につけて良い色が定められていたように、ユミルでも外見からその人の家柄を推し量る。主な判断材料は二つだ。一つ目は、衣服の素材の良し悪し。そしてもう一つが、身につけている宝飾品の価値。宝石の方が価値に幅が広く、第一印象で品質の良否が理解しやすいため、より重視されている。貴族は人前に出るとき、特に女性は、できるだけ質の良い宝飾品を、卑しく見えない数だけ身につけ、自身や同行者の品性を示す。だから宝石の種類や価値の見立て方、込められた意味などの知識はユミル貴族の一般常識だ。宝石鉱山を有するアルヴァルディ家が経済的にも強い影響力を持っているのは、このような文化的背景から宝石の需要が絶えないことが関係している。
そして、宝飾品が重要視されるこの国では、婚約指輪は男の甲斐性の見せどころとされる。学院時代、ときどき男子生徒が婚約者に指輪を贈ったという話が流れた。けれど、学生の時期の婚約者は産まれたときに親が決めたものなので、その相手と将来的に結婚をする気はない、と考えている人もいる。男子生徒にとっては子供の頃からの運命の相手でも、女子生徒にとっては実はそうでもなかったらしく――といった話が年に二、三回は聞こえてきた。そういう場合、男子生徒が贈った指輪は彼の瞳と同じ色をしていた、と語られがちでもあった。特徴的な配色の指輪は、一歩間違えると思い込みや自惚れの象徴になりかねないということだ。
言うまでもなく、二十年前、仕草の一つ一つに華のある流麗な貴公子だったユリウス様があの玲瓏な指輪を手渡す様は、絵画のように素敵だったのだろう。それにお二人は連れ立って龍を駆る比翼連理の夫婦なのだから何も問題はない。
「男の人が先走ってしまうと、ご本人様に似合わないこともありますからねえ」
ただ、「重い」という言葉には部分的に同意したくなった。自分がやられるのはちょっとな、と思う。贈り主を一目で周囲に理解させるような品に込められた感情がどんなものなのか、想像が及びもつかない。自分自身のことすら曖昧な私にとっては、他人を好きになるということが遠い世界の出来事に感じていた。
「リンさんも、指輪をお持ちなのですか」
「重くない?」よりもさらに直接的な鋭い意見が飛んできたので、つい気になってしまった。単にお客さんの傾向を述べているだけ、とも考えられるけど、隣の男性が居心地悪そうに肩を窄めているのを見ると、実感がこもっているように思えた。
「はい、波のような線が入っていて、瑪瑙のような蜻蛉玉の、中に小さく花の咲いた、ガラスの指輪です。この人はガラス職人なんです」
彼女は子リスのような丸い瞳で遠くを見るようにして答えた。私の手元にあるデザイン画には、それと似たものは見当たらない。だけど、どんな形をしているのか想像ができた。
脆く儚い玻璃の花は、ダイアモンドほどの価値は無かったとしても、美しかったはずだ。
「上手に作れていたので、お父さんはお婿さんにしてもいいと言いまして。わたしの指には合いませんでしたけどねえ」
石のカウンターの上には片手で掴めるほどの切子ガラスの花瓶が置かれていた。近くの野原から摘まれてきたのか、コスモスが飾られていた。
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